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あげちうのブロマガ

創り続ける人々の観ている物

台所に居る際と、リビングに居る時と、「感覚」が違うそう言うのはある。

その間の異相、と言うのも問題には成るのだろうか。

「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。

「まだこの世界に慣れてない」と言うのはあるのだろうか?

 

何となく、声。

「どうしても売れないんだけど」
「売れるように作ってないから」
「あんたの思い通りじゃないの」
「私はこの現実を肯定している」

ともかくこの”声”の結果だけで言えば、「売れる物」とは、”ここ”が肯定する作品、と言う事には成る。”それ”が単に「世の中が、人々が”ここ”に支配されている」様に見える、と言う事から来る話、だがしかし。勿論こちらの言い分としては「単に売れる物を分析していく結果で、”それ”が自分の理想に成っていっただけだ」この世界で生きていく限り、合わせるべきは自分の、人間の方だ、と言う理解に帰結していく訳だが。

その結果としてあるwifiやらPCの不調、それも道理の一つか?と言うとまあ、謎ではある。

今のあらゆる問題は、そんな世界に対して「私の理想通りに成らねばならない!」と、最終的にはそう言う衝動の結果には成る訳だが。その結果として”現実”と乖離していく先で「売れない」利益が出ない、そう言う話になる訳で。「当り前じゃないか」は、微妙に台所に居る際には、少し違う話に成っていく、のだろうか。

ともかく一応、創作での最も面倒と言える話は、”これ”で抑止出来る、感じには成った、のかも。

売れる様にするには?現実の方に感覚の方を合わせる必要がある。

”それ”を否定して自身の理想を貫こうと、それは現実を否定していくだけで、それを人は買わない。

売れている人々とは、「同じモノ」を見て、それを肯定している、のだ。居場所や視点が違うだけの話。

彼らを結果的に否定する”それ”は、その「同じモノ」を否定する事にしか成らない。

そのマクロな視線が、台所ではほぼどうでも良い話になる、と言うのは深刻な異相と言うべきなのか或いは。男性か女性か、と言う話では無く、「食う」と言うその行為は結局は「不要な物を消す」その第一の行為ではあり。矛盾の様な物はある、「全てが存在し得る世界」と、現実それを肯定しつつも、自身の不要を消していく事を繰り返さないと、人は何故か生きていけない。

そこも含んで、現実と言う理想の中に生きている、訳だが。

お腹が減る、面倒は常にやってくる。

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