自分の状況には無関係、かもしれない。
飯塚幸三氏、禁固5年の実刑判決。一応は一区切りでは、ある。
彼はウィザードだったか?は、今もちょっと自分の状況からは…正確には解らないが。それでも、紫綬褒章さえ受賞した高級官僚、”それ”の失墜は明確になり、周辺の人々はもう、彼を頼りには出来なくなった、そう言う意識の変化はまあ、有る筈で。
”それ”が今後どういう影響を見せるか、そこは混沌とはしている。
少し、意識の?変化も、ちょっとある。
「初音ミクが好き?な人々とは、テレビに出たい人々なのだ」
不意に考える時、そこに或いは「どうすれば?」その問いが今、”ここ”には来てる。
リアルに、そう言う変化が起きているのか、或いは。
一応返答は要求される時、「視聴者に有益な存在で無ければ」それは、返答には成る。
自分の場合、相変わらず自身を具体例には出来ない、自身の作品はそのつもりだが、数値としては出てない、「数値は制御されている」その声は今も、無情に虚空へ消えるのみ、だ。「牢陽帝」それはあくまでも、或いは自分を落ち着かせる為の虚無の方便かもしれない。
ともかく何かの例、ではあるだろうか。
テレビ番組をちょっと企画して見る。
「ゲームナイト・デンジャーゾーン」
賞金を目指しての、「防衛側」による「侵略側」との攻防戦、というニュアンス。
基本的には「ってなったら困る」現実がそうじゃない事に、視聴者自身の生活がそんなスリリングで無い事に安堵する、方向性のそれ。”遊び”としてなら許容出来ても、それは戦争ではないか、それは困る、そう言う意識に同意し、現状を肯定する、そう言う奴。
ゲームのCMにもなる、視聴者の?腕前の披露にも成る、反戦的意識も高まる、ゲームの必要性それも明示し得る、としたら、それは視聴者には有益では?
「当り前」だが。
番組としても、一応は最後まで何かの変化が続く、構造ではある。結果に対して様々なドラマ?も発生し得るだろう、後は現場でのさじ加減ではあるが、スポンサー等のメーカーにも、この位ならメリットは有るのでは。
要するに視聴者にとって「面白い」が、そこに有れば良い訳だけど。
テレビと言うのも、面倒なメディアに成っている、のかもしれない。
基本的に天皇家など、「行動ログが残る」人々は、考えると娯楽としてはテレビ位(しかも地デジ)しか無いのだ、「自身の嗜好が監視される」のはやっぱり苦痛、である。テレビなら?「みんな見てる番組を、付けたら付いてたので見た」という方向で、余計な勘ぐりは避けられる。それを考慮せねばならない時代?ではある…昔とは少し、ニュアンスが変わっているのかもしれない。
有益か否か?は、”その”ラインから走査されてしまう、訳で。
テレビに出たい、なら?それも考慮する必要はある、ともかく問われたら、理解される返答は必要だ。
そう言うの無しに。
それは、無い。
使用イメージ
https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im9305780
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