テレビの感覚は、何だか「虐める側」にはある。
そして?”それ”へ集中する批判…に、何だか妙な反論をしている、感じだ。
「ガーディアン 白き復讐の悪魔」それを、スマートフォンで見れる媒体にアップした、からだろうか。気持ち、「いじめは良くない」そう言う意見に奇妙な同意は向く。ただ、同時に、”虐める側”の「自覚が出来ない」感覚、そしてそれによって発生していた加害、それへの非難、それに対する反発?「なんで?」にも、多少の理解…はある。
良くも悪くも、小説に書いた感覚は、今もリアリティ、だ。虐める側には、虐めている意識は、無い。自分らがテレビで批判している人々と同じように、実は非道をなじられる加害者である、それへの戸惑いと反発で、何だかヒステリックに成っていく、感じ。
そして虐められてる側にしろ、何だか相手のそれを否定しきれない、と言うか、その根拠が無い。
「無い」と言うか、価値観の相違だ、「同意の起点が無い」と言うか。金を出す側からすれば、テレビとは「無駄に金だけ要求する連中」でしかない。「なんでそんな連中に金を出すのです?」ぶっちゃけるなら”テロリズムに屈しているだけ”だが、過剰な利益は不幸の元でもあって、その辺は社会に還元せねばならない、そのルートの一つではある。ともかく”ここ”にお金を出すなら、後はそれを使って創作を創り発表する、その人々の責任、「仕事」である、スポンサーにはもう、非が無い訳だ。
我々は、払う物は払っている、現場が世間の期待するモノを創ってないだけだ。
スポンサー企業としては、大分軽くは成る。
その上で、ともかく無駄に大金を預けられた側に、妙な特権意識…そう言うのは発生していて、それを容認し続けた、そう言うのは有る、のかもしれない。
「オーダーは何処?」
それが、明確じゃ無かった訳だが。
天皇制を維持する、それを考える時、その極論化が「内田裕也と樹木希林」その関係なのかもしれない。前者はただ自分の衝動に忠実に生き、後者はそれをただ、黙って支え続ける、如何なる非道も享受しつつ、だ。テレビ業界として、内田裕也氏を無視出来ない感覚は、それが自身らの目指す理想だから、だろうか。0.001%の奇跡とは言え、それは「存在し続けた」のだ。何かの衝動を満たす為には、樹木希林と言う「犠牲者としての自覚無き犠牲者」それは、必要と言う理解ではあり。
…でも要するに、”それ”がイジメ、ではある。
独裁創作は利益に成らない、のだ。”それ”に拘った映画産業は滅んで、その後にテレビが普及した。企業から集めたお金の範囲で雇う、そう言う形式は、”それ”をともかく維持し続けてしまった。昭和の頃はまだ良かったか否か。帰結で「昭和天皇の良き飼い犬」それであれば良い暮らしが出来た。その寵愛を巡っての、何かのピラミッド構造を制したモノが栄光を手にする。”その”時代の感覚が、この「戦う戦士達に愛を込めて」ではあって。
テレビは今も尚、”この”戦いを続けていて、そこには、”虐げて良い道理”が有る。
個人的な感覚では、「古い」とは、思う。ただ?自作の「ガーディアン」も、かなり古いのだ。感覚が年寄りだ、前時代的だ、そう言う論点だけでは話は平行線のままで、そしてテレビはまだ、或いは「致命的な問題までは至っていない、苦労した先人」である事も事実で。
しかし、彼らは樹木希林の様な、”生贄”が居ないと、それを続ける事は出来ないのだ。
特権意識による様々な問題を起こした大韓航空、その会長が、何だか突然死?した。
関係が有る様な無い様な、多少、微妙な気分には成る。
「大賀さん」紛争解決機構、それが今の最上位である。
ただ、もちろんその古い世界に、そんな物は無かった。
”それ”は、状況をどうしようとしているのか。