先週は、毎日、信徒メッセージが語られた。聞くだけでそのままにしていたけれど、ノートを開いて、自分でも調べて、復習した。 分かち合い会をする機会がないのでここに記録しておくことにします
聖句はへブル人への手紙10章1-4節
教会では牧師だけでなく、信徒も連続講解説教をしているのです
旧約の時代には動物犠牲をささげても、年に一度、大祭司が動物犠牲をささげても、罪は思い出すのであった。
旧約のささげものはキリストにある本体の影であったから。
しかし、今や、神の御子イエス・キリストが、いけにえとなって十字架にかかってくださったことを信じた者は、罪が赦されている。
すでに救いみわざは完成されている。罪は赦されていて、クリスチャンは恵みの中を歩んでいるのだ。
イエス・キリストは復活して、今、天から聖霊を送ってくださっている。
聖霊の光に照らされて罪を意識した時には、同時にキリストの十字架と復活を思い出して、罪を告白し委ねれば良いのだ。
悔い改めて、信仰から信仰に進むのだ。
それなのに、私は、ついそれを忘れて、何かをしなくては、奉仕をしなくては、献金をしなくては、神に認められない、赦されない等と考えて、そわそわと動いて失敗したり疲れたりすることがある。それは律法的な生き方でした。
恵みの中を生きる者がささげるいけにえは、心からの讃美、感謝。そして自ら喜びをもって進んで払う犠牲であるはずです。
このように考えたのは、へブル書と第一コリントに、原語で、同じ言葉が用いられていることを教えられたことから導かれたのでした。
へブル10:3 ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。
1Co11:24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。
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