ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをブログにまとめています

カウンセリングより根本的な癒しを

2020-01-20 17:50:43 | 聖書研究
地域でクリスチャンの集会があることが教会で紹介されたので行って来た
恵みを期待して参加したのですが、何か、違和感が残ったので、その理由を考えた

①説教者の経歴の違いがあった
牧師の経歴をネットで経歴を調べてみた。
・何年か海外に滞在して博士号をとって帰国された先生。
・留学前と、帰国後合わせて、4箇所から5個所の教会を牧会されている。
・7神学校の先生などもしておられる。
・ボランティア活動も熱心にやっておられる。
一方、私の教会の牧師は、40年以上、連続講解説教をして牧会を続けている。
どんな経歴を辿って来たかによって、信仰の色合いに微妙な違いを生むものなのかと思った。

②旧約聖書から語られた
・エレミヤ哀歌3章19~33節から語られたが、前後関係も背景も言葉の意味の説明がなくて、感傷的な詩のような印象がした。
・私の教会では新約聖書から説教がなされているので、旧約聖書についての基礎的知識が不足しているのを感じた。

私が今まで聞いたことのない言葉が繰り返し語られた。
一方、イエス・キリスト、十字架、復活、再臨という言葉が全く語られなかった。
分断された悲しみ。分断された自分は統合することが難しい
・どんなに自分が分断されても神が生かしてくださる
・悲しみは年月がたてば深まるが、神はかさぶたで覆ってくださるので、悲しみに付き合って生きて行くことができる。
・痛み、悲しみが消えず深くなっている人々に宣教しケアーする働きをする、その私自身も神からのケアーを必要としている


ネットで調べると分断と統合とは、カウンセリング用語のようです。
この先生は、イエス・キリストの十字架と復活による救いメッセージを語ることで、罪が赦されて、悲しみも喜びに変えられる人生を歩むことを勧めるよりも
カウンセリングをして、痛み、悲しみにずっと寄り添って励ますことを目標にしておられるのかも知れません。


詩編119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。
私は、かさぶたではなくて、内側からの根本的な癒しを求めます。


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