モーセの時代は、神に誓いをする時や、約束をする時、判子やサインではなく、口頭で誓ったらそれで効力があって、必ず言ったことは実行しなくては裁かれたようです。
人間は、たといその時は熱心に誓っても、しばらく後にはそれを否定したり、取り消そうとしたりする罪性があります。
しかし、神は言われたことは必ずそのとおりになり、神の約束は成就します。
新約聖書では誓わないようにと言っています。
マタイ 5:37 だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。
ヤコブ 5:12 私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい」を「はい」、「いいえ」を「いいえ」としなさい。それは、あなたがたが、さばきに会わないためです。
ところが、ペテロが「のろうをかけることと誓うことを始めた」という言葉は、「誓わないようにしなさい」と言われたのと同じ言葉でした。マタ 26:74 すると彼は、「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。
ペテロがのろいをかけて誓ってさばかれることのないように、イエス様は鶏の鳴き声でペテロを引き戻された。その経験は、ペテロにとって、また同じ性質を持つ私達にも、必要なまた重要なものだったのだと気づいた。
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ここで朝のデボーションは時間切れで教会に行った。
ある姉妹が「ここで言ってもいいかどうかわからないけど」と、何人かいる中で、私の顔を見ながら、他の姉妹の微妙な問題を話し出そうとされたので、私はすかさずはっきり言った。「私は知りません」
すると彼女は「この問題を知らないの?」と言われたので、もう一度短く言いました。「今ここで話していいのか、話さない方がいいのか私にはわかりません」すると彼女は口を閉ざしてくださいました。
朝のデボーションで、神の約束は必ずなる。神が教会を守り導く」と確信を得ていた私に、神様が短い言葉を私の口に置いてくださって、知っている人も知らない人もいる何人かの中に走った動揺を神様は解いてくださいました。
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