脳科学におけるハードプロブレムの一つに
「脳という物質から何故感覚(クオリア)が生じるのか」
というものがあります。
ある波長の光を見たときに
(1)ヒトの特定のニューロンが発火して
同時に
(2)そのヒトは”赤い”という感覚(クオリア)を感じるとします。
他の波長の光を見たときには
(1)その特定のニューロンは発火せず
(2)”赤い”という感覚も感じないとします。
このとき、次の法則が得られます:
そのヒトに対しては、
ある波長の光 ⇔ ”赤い”感覚
この対応規則には次のような問題点があります。
”赤い”という感覚自体は言語で説明できないことです。
故に、この法則は客観的/普遍的なものには成り得ません。
先の対応関係からニューロンの発火という原因が”赤い”感覚という結果を引き起こすという帰結も得られません。
何故なら、
(1)ニューロンの発火は物質現象であるのに対して、
(2)”赤い”という感覚は非物質的現象であり
両者のカテゴリーが全く違うからです。
カテゴリーの異なるもの同士の間に因果関係は成り立ちません。
敢えて因果的に捉えたいなら、
ニューロン発火(物質的原因)→”赤い”(心的結果)
という異次元因果律あるいは異次元作用として理解するしかありません。
以上の議論から
「感覚や意識を言語によって客観的に説明することは原理的に不可能」
という結論が得られます。
ニューロンの発火現象を物理的に測定しても、
「赤い」という言葉や”赤い”という感覚(クオリア)を確認できないことは自明です。
「脳現象は究極的には物理則で説明できる」
とする物理還元主義は砂上の楼閣です。
測定によって物理量を情報化すると物理量の次元が失われます。
同様に、視覚細胞や聴覚細胞が入力物理量の次元を消滅させます。
神経細胞の出力はどれも神経パルスという同一の形式だからです。
失われた物理的次元を心的次元として復活させるのが感覚や意識の役割です。
脳は、多様な物理的次元をもつ物理空間に対応して心的次元をもつ心理空間を作ります。
生物は、進化の過程で脳にそのような機能を獲得したものと推測されます。
図式的には次のようになるでしょう:
(物理的次元) (心的次元)
光の波長と強度 → 色彩の感覚
空気振動の波長と強度 → 音色の感覚
目に入る光の強度とそれに対する視覚的な印象の強さとの間には
ウェーバー・フェヒナーの法則が成り立つことが精神物理学で知られています。
音や温度などに対しても同様な法則が成り立ちます。
しかし、感覚の印象の強さと感覚そのものとはカテゴリーが違います。
前者は量で表現できるが、後者は量では表現できません。
精神物理学的法則が成り立つからといって、感覚そのものを物理的に説明できるとは言えません。
生理物理学の開祖でもあるヘルムホルツは
「神経興奮(ニューロン発火のこと)から、知覚がいかにして生じるのか」
という問いかけをしています:
大村敏輔訳・注・解説 『ヘルムホルツの思想-認知心理学の源流』、
ブレーン出版(1996)
ニューロンの発火と感覚とが「どのように対応するのか」は、解明できますが、「何故、感覚が生じるか」は解明できません。
客観的性格をもつ物理則は、原理的に主観的な感覚を扱えません。
ファインマンは、物質現象が「何故」起こるのかを問えない、「どのよう」に起こるのかを問えるだけだと言いました。
物質現象でさえもそうなのです。
遺伝子の核酸の分子構造発見でノーベル賞を受賞したクリックは、
脳神経科学に転向して意識の解明に取り組みました。
大多数の脳科学者と同様に物理還元主義を信じ、何故意識が生じるのかをニューロンの発火現象から説明しようとしました:
クリック、コッホ
”意識とは何か”、別冊日経サイエンス123、特集:脳と心の科学(心のミステリー)(1998)
コッホは、日経サイエンス、2011年9月号で
「人工知能の意識を測る」という記事を書いています。
生きているヒトの意識は、ロボットの意識と同じと主張します。
強いAI主義や物理還元主義者の思い込みの強さが分かります。
「ニューロンの発火現象を調べれば意識は解明される」という脳科学のドグマは明らかに砂上の楼閣です。
脳の情報処理モデル・ニューラルネットは、パターン認識器やロボットに利用されれいます。
数理モデルの有効性が実証されていることは、神経パルスに実数を対応させて神経回路を数理モデル化する妥当性を裏付けています。
一方、感覚の場合
(1)それ自体を数値化することも言語化することもできないので
(2)この種のモデル化は不可能です。
人工センサーによる臭いの識別が実用化されていますが、
そのことは臭いの感覚を数値化できることを証明している訳ではありません。
感覚と実数とはカテゴリーが違うので感覚そのものを実数で表現することは不可能だからです。
しかし、人工知能研究者はこの事実を無視します。
心とは何かについての入門書があります:
土屋俊『心の科学は可能か』、認知科学選書7、東京大学出版会(1986)
心とは何かを心理的状況だけで説明されても禅問答のようで難解です。
まして、心理的状況と脳現象とを絡めた説明は極めて難解です。
科学が言語を用いた学問であることを踏まえると、科学による「心」の説明には原理的な限界があります。
心には直観でしか理解できないことが沢山あります。