心理カウンセラーの眼!

孤立無援の・・君よ、眼をこらして見よ!

胎乳児の心の世界

2010-09-27 16:37:47 | 赤ん坊から見た世界
こんにちは、テツせんです。
えらいもので、「彼岸」になれば秋がきっちりとやってきました。
あの厳しい夏をのりこえ、
みなさん、一息ついておられますでしょうか?

さて、今日は名著「母型論」(吉本隆明)の冒頭の書きだしからはじめましょう。

-- 母の形式は子どもの運命を決めてしまう。・・・--
  
それが唯一成り立つのは、出生に前後する時期の母親と胎乳児とのかかわる場であり、
受胎八ヶ月から出生後一年くらいのあいだとみなされる。
また、この時期に作られる胎乳児の無意識は核の領域とみなされる。

* 受胎後三十六日目に胎児は上陸する。
* 受胎後三週間目。 体調四cm。人間の器官は全部具わってくる。
* 受胎後三ヶ月すぎ。 夢を見る。
* 受胎後五、六ヶ月ごろ。 味覚が生ずる。 父母の声を聞きわけられる。
* 受胎後七、八ヶ月ごろ。 意識が芽ばえる。 母と子のきずなが完成される。・・

・・このあと出産となる。
胎児にとってエラ呼吸的な母胎の環界から肺呼吸的な乳児の環界へととつぜん変わることを意味する。

心のことでいえば胎内での母子の内コミュニケーションは外コミュニケーションに変わる。
内コミュニケーションとは、
考想察知、超感覚、思い込み、早合点、誤解、妄想、作為体験などに開かれているかわりに、
母と子だけに閉じられた交通の世界のことだ。

母胎の中で羊水にかこまれ、母親から臍の緒をとおして栄養を補給される、
いわば二重の密閉環境のなかで、生命維持の流れは母から子へじかにつながっている。

(ストレスとして)外の環界の変化を感じて母親の感情が変化すると代謝に影響するため、
母と子の内コミュニケーションは < 同体> に変化する。

母親が思い、感じたことはそのまま胎児にコミュニケートされ、
胎児は母親とほとんどおなじ思いを感じた状態になる。
これは完全な察知の状態にとてもよく似ている。これが胎乳児の無意識の核になるといっていい。

ただ母から子への授受がスムーズにのびのびと流れるかどうかは、べつのことだといえる。

母の感情の流れは意識的に無意識的にも、< すべて無意識になるよう > 子に転写される。
わたしたちはここで感情の流れゆくイメージを暗喩として浮かべているのだが、
母から子への流れが渋滞し、揺動がはげしく拒否的だったりすれば、子は影響をそのまま受ける。

影響の仕方は二極的で、
一方では母の感情の流れと相似的に渋滞、揺動し、拒否的であったりと、そのまま転写される。

だがこの拒否状態がすこし長い期間持続すれば、あるいはもう一方の極が子どもにあらわれる。
ひとことでいえば無意識のうちに母からの感情の流れを子が <作り出し>、「流線を仮構する」ことだ。

後年になって人が病像として妄想や幻覚を作るのは、
この母からの感情の流れを<作り出す>胎乳児の無意識の核の質によるものとかんがえられる。

たとえば被害妄想では、加害者は<作り出さ>れた母の感情の流れの代理者だ。
この代理を演じるのは母、兄弟からはじまって親和した者、
また偶然の人物のばあいには、この人物の親和した表情、素振りを、加害者に仕立てあげて
感情の流れを作り出し、それを被害者として受けいれるものとかんがえられる。

外コミュニケーションに転換したはじめのとき、
母と子がどんな関係におかれるかは(母と子以外の関係は存在しないとみなしてよい)、
出産したすぐあとの母子の病気その他偶然によってもちがうが、
習俗のちがいによって左右される。

たとえばひと昔まえの日本の習俗では、
出産した胎児は母親の傍らに寝かされて乳首を吸うことをおぼえ、すぐに授乳され、
それからあと添寝のまま数日から数週間のあいだ授乳がつづけられる。
これは出産の習俗としては一方の極の典型になるほど重要なやり方だといっていい。
巨大な <母 > の像が子にとって形成されるからだ。

たとえば思春期以後、家族の内部で子の暴力が許容されること(家庭内暴力)があるが、
これは日本の出産習俗でしか起こらないものだ。
胎乳児にとっては理想的で甘美な無意識の核を作られるとき、
これが病態に変わると独特の母型依存の分裂病像を作り出すからだ。

外コミュニケーションに転じたばかりの胎乳児は、(終日の添い寝と授乳が長くつづけば)
授乳のときの口腔による接触、乳首の手触り、乳房のふくらみ、乳汁の味覚、匂いなどを
世界環界のぜんぶとみなすことになる。
この極端な母親依存と母親への親和は、
出産の習俗として人類の一方の極を代表するといっていい。

これとはまったく反対の極に、
ユダヤ=キリスト教的な習俗としてあった割礼や陰核切除の習俗がかんがえられる。
しかしこの習俗は、ほんとうの意味はよくわからない。
その原始的な思い込みは、現在のわたしたちには正確には理解できにくいからだ。
だがライヒがいうように、新生児をすぐに母親からひき離すのが過酷なように、
母親から胎児に流れていた親和を切断することで、無意識の核に傷痕がつくられることはたしかだ。

この傷痕はライヒによれば「根源的なNO」をもたらす。
これは無意識内では殺害にひとしい。
これを受けいれた胎乳児は現実世界から却(しりぞ)いて内面の世界へむかうことを知り、
習俗や神話の型を決定するだけでなく、内向する観念の世界をひろげるようになる。
この傷痕を介して妄想や幻覚へ移行しやすい通路ができてゆくとかんがえることができる。

こういった無意識の核が形成される過程は母親の行動としてみれば、
1 「抱くこと」
2 「授乳」
3 「眠らせる」
4 「排便その他の世話からなる養育行為」
の要素にみとめられる。

この母親の行動を、心の物語として読もうとすれば、
子の物語は「対応」と「刷り込み」からなる転写されたおなじ物語とみることができよう。

無意識の核を作る母親の行動の要素は、
前半の「抱くことと授乳」は、父親との(夫婦)性行為から得られる。
また後半の「睡眠と養育行為」は、おなじように性的な相互行為の変形とみることができる。
母と胎乳児とのあいだの物語は、母と成人男性との性的物語と二重化されているといえよう。
この二重化は心の物語としての母と胎乳児のあいだで交換される「複合」と「二律背反」の基になっている。

1 抱きたくない。しかし乳児が泣くので抱く。
2 授乳のゆとりがないが、授乳がなければ乳児は栄養をとりこめない。
3 眠らせる安息感はないが、眠らせなければ乳児は充足しない。
4 排便の世話をしたくない(汚い)が、世話をしなければ、乳児がくつろいだ気分にならない。

(実際は)もっと複雑な対応があるはずで、こういったことを介して母子の物語が、
親和と分離、摂取と排出、安定と不安のような二項の対立を含み、
それが安堵と不安、上昇感と下降感のような生命の流れ方に集約されてゆくように感じられる。

...( 中略 )...

この母と子の物語のうち、いちばんわかりにくく、また重要なのは、
複合や二律背反の「写し」や「刷り込み」、いいかえればヒトの関係にかかわるものだ。

わたしたちヒトだけが精神分裂病になりうるとすれば、
この複合や二律背反の「写し」や「刷り込み」に根源があるとみなすことができる。

これは無意識の核の構造そのものとしては、知ることができないほど深くしまわれている。
だが胎乳児期を過ぎたあと幼児期からの母と子の関係として、
はじめにあらわれてきて、さまざまな形をとるとみられる。

* 母と幼児期の子どもが過剰に親和的で、周囲からは病的に密着しているようにみえるほどなのに、
母子のあいだに介入して、正常な関係の距離感を与え、
子どもの異常な振舞いを許容することで成り立つ母子の密着を、正常化させうる
父親の不在(あるいは存在感の無さ) -

- ここで過剰に親和した母と子は、
胎乳児期に冷たく不実だった母、不安で敵意をもっていた母と、
充たされないのに見掛け上は充たされたように振舞う子のあいだの初期物語の
逆立した後日譚にほかならない。
また父親の不在(または存在感の薄れ)は、
夫婦のあいだの性的な不在(存在感の薄れ)を物語っているといってもよい。

それは正常な恢復をとげるばあいにも出合うが、
しかし、おなじ条件にもどれば、またパニックが起こりうる。---
...................................................
「母型論」冒頭のこの論述だけでも、
わたしたちを知的におどろかすに十分な内容にみちています。

それはしかも、ただ知的な興奮を得るにはもったいない、
母であり、父であるわたしたちみんなが、心して学ぶべき示唆に富んでいます。

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