P.F.A. 便り

PIANO 5STEPS ASSOCIATION

ルードヴィヒ・ルネサンス08 ~2009年7月5日号~

2009-07-10 08:24:56 | 音楽

 歴史上の人物としてのベートーヴェンが、私たちにどのような波紋を投げかけたのか?また、日本人としての私たちに、その音楽はどのように受け止められてきたのか? 今一度ふり返って検証せずにはいられません。何故なら、音楽を愛しベートーヴェンを生涯聞き続けた私の父が、亡くなって10年という節目の日がやってくるからです。

 どんな人の人生も、その人が生まれた家の両親の元に始まり、その条件を反映して「約束」「感覚」「感動」を得て子供の心は育ちます。やがて「人格」が形成され、「認識」「感性」を持つように成長し、大人として成熟します。(と期待されます。)

 父の場合、外科医であった夕張炭鉱病院の院長、伊藤金三郎の5人兄弟の長男として、小学校まで北海道で育ち、旧制麻布中学へ通うために、東京・青山の祖父、小山松吉宅に寄宿し、早稲田大学へ進みました。その頃には、渋谷区若木町26番地(現在の東4丁目)に屋敷が建ちましたが、その家は東京大空襲で焼失してしまいました。戦後、同じ場所に新しい家を建て、両親、夫婦、子供2人、末の妹の7人家族で暮らしていました。

 私の場合、そんな家族の一員として、ピアノを弾く両親と自作のスピーカーから聞こえるラジオ放送やテープレコーダーの大音響に囲まれて育ち、日比谷公会堂へ通う、N響のおそらく最年少の定期会員だったと思います。高学年になってから仙川の桐朋学園「子供のための音楽教室」に通い、自分の勉強がここから始まるのでした。

 戦前、作曲を諸井三郎、ピアノを平岡次郎に師事していた父は、ある日私に、「若い頃に作った曲は全部焼けてしまったが、思い出して書いてみたよ」と「ワルツ」を見せてくれました。それから、父の作曲活動は進み、70歳の早稲田大学退官の記念に、「ピアノソナタ」をCDに収めて発表。八木下章子氏と私がピアノを演奏しました。

 「ああ、やっぱり戦争の曲なんだ。」・・・去年児童文学「火縄銃と見た夢」と出会った私はそう思いました。