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近藤正臣の「ひとり暮らし」に勇気づけられた 【連載】藤原雄介のちょっと寄り道(91)

2025-03-22 05:30:09 | 【連載】藤原雄介のちょっと寄り道

【連載】藤原雄介のちょっと寄り道(91)

近藤正臣の「ひとり暮らし」に勇気づけられた

 

 
▲郡上八幡の自宅で猫の奴(やっこ)と寛ぐ近藤正臣(NHKドキュメンタリー「妻亡きあとに〜近藤正臣 郡上八幡ひとり暮らし〜」より)

 

 ベランダの窓を背にして現実逃避の読書に耽っていた。目が疲れ、ふと振り返るといつの間にか陽が傾きかけている。と、スマホの着信音。イヤな予感がする。きっと、徳さん(このブログの管理人の山本徳造氏)からだ。
 

▲筆者(藤原)の友達は観葉植物

 

(アーア、原稿の督促だ。出るの止めようかな…)

 まだ、原稿のテーマはおろかタイトルさえ決めきれずにいる。イヤだなと逡巡しつつも通話ボタンを押す。私は、消え入りそうな声で「もしもし」と言ったきりしばし無言。
「雄ちゃん、原稿、まだでっか? 待ってるでぇ」と穏やかな口調ではあるが、妙な威圧感が漂う声が響く。彼は元プロの編集者で、原稿を書くのが遅いライターには容赦ない。

 今回は、高校生時代に読んだ五木寛之の「青年は荒野をめざす」とフォーククルセダースの同名の歌に背中を押されてナホトカ航路、シベリア鉄道で欧州に旅立った青年、つまり若かりし日の私の冒険旅行について書こうかと漠然と思っていたのだが、偶然目に止まったNHKのドキュメンタリー番組「妻亡きあとに〜近藤正臣 郡上八幡ひとり暮らし〜」を見て、予定を変更した。

 妻を亡くした後、近藤正臣が周囲の人々、移ろう自然、庭に現れる猿、飼い猫の奴(やっこ)などとの交わりを通じて、絶望感や孤独をゆっくり、ゆっくり克服していく過程に強く共感し、妻に先立たれたひとり暮らしのご同輩方の参考になれば、との思いからだ。

 3月20日朝、テレビのスイッチを入れると郡上八幡の自然豊かな地で一人暮らしをしている近藤正臣の生活を追ったドキュメンタリーをやっていた。画面では、近藤がひとり台所で、素麺を茹で、薬味の茗荷と青紫蘇を刻んでいる。どこにでもあるひとり暮らしの老人の生活のひとコマだが、フォークで目玉焼きの黄身を口に運ぶ私の手は宙に浮いたまま静止してしまった。
 黄身が、たらり、と皿にこぼれた。ほぼ毎日、三食欠かすことなく自炊をしている自分の日常と無意識に重ね合わせてしまい、寂しさと侘しさがこみ上げてきたからだ。が、次の瞬間、この番組を見ている妻を亡くした男たちは恐らく今の自分とよく似た感慨に耽っているに違いないと思えた。目には見えないが、同じような境遇のひとが結構沢山いるのだろうな、と想像すると何故か心がふっと軽くなる感じがした。 

 彼の包丁はトントントンとリズミカルな音を立てるのではなく、トン・トン・トンと一回一回、ゆっくりと慎重に茗荷を切断している。「包丁さばきはオレの方がうまいな」などと脈絡なく思った。彼は、毎晩一合の飯を炊くという。ずぼらな私は毎回5合の飯を炊いて冷凍し、それで4、5日食いつないでいる。

 

▲素麺の薬味を刻む(同ドキュメンタリーより)
 

▲バルコニーで一人の朝食。奴に少しお裾分け(同ドキュメンタリーより)

 


 NHKのホームページは、この番組を次のように紹介している。

〈往年の名俳優・近藤正臣(83)。岐阜・郡上八幡の自然に魅せられ、8年前に妻と移住。穏やかな晩年を過ごす…はずだった。その後、妻が認知症を発症。自身も体調を崩しながら、里山でのワンオペ介護を続けていたが、一昨年、妻が亡くなった。伴侶を失った高齢者は、どう生きていくのか。近藤が向き合う「老い」と「孤独」に長期密着。深い喪失感を抱えながらも、地域の中で“これから”を模索するひとりの老人の日々を見つめる。〉

 認知症を発症した小学校からの幼馴染みの妻「ひろさん」は、夜間徘徊を繰り返しては転んで痣だらけになり、味噌ばかり買い込んだかと思えば、次は醤油ばかり買い込むなどの奇行を繰り返すようになった。

 5年あまりの介護生活のあと、ひろさんは、養護施設で過ごすことになったのだが、近藤氏の彼女への愛情は終生変わることはなかった。番組の中でひろさんが、好きだったという曲が二つ流れた。ジャニス・ジョプリンのCry babyとジョニ・ミッチェルのBoth Sides Now(青春の光と影)だ。

 反体制の絶叫型ロックシンガーのジャニスと叙情性の高いジョニは正反対の性格を有する歌手だが、どちらも60年代後半から70年代初めの時代の空気感を一瞬にして思い起こさせてくれた。不思議なことに、これらの曲は郡上八幡の美しい景色によく調和していた。

 

 

▲お互いを臣(おみ)さん、ひろさんと呼び合っていた(同ドキュメンタリーより)

 

 近藤雅臣と言えば、若かりし頃、「チオビタドリンク」のコマーシャルで一世を風靡した。バラの花束を抱えて白馬に跨がったり、タキシードで決めてお城の2階から飛び降りたり、「そんなヤツおらへんで」と突っ込みを入れたくなるほど気障満開だった。それが、今は白髪の爺さんだ。爺さんではあるが、良い具合に力が抜けた自然体が素晴らしい。

 

▲堂々たる2枚目だった若かりし頃

 

 この番組で、きちんと生きていくための単純なことに気付かされた。現状をあるがままに受け入れ、日常生活を丁寧に送る。毎日、きちんと料理をし、掃除をする。友人たちとの関係を大切にする。四季の移ろいを愛でる感情を忘れない。
 ここまで書いてゾッとした。「オレ、完全にジジイの境地やな」ま、しょうがないでしょう。ジジイなんだから。近藤正臣は現在83歳、私は来月(4月)で73歳だ。まだまだ時間はある。多分。

                 

 

  

【藤原雄介(ふじわら ゆうすけ)さんのプロフィール】
 昭和27(1952)年、大阪生まれ。大阪府立春日丘高校から京都外国語大学外国語学部イスパニア語学科に入学する。大学時代は探検部に所属するが、1年間休学してシベリア鉄道で渡欧。スペインのマドリード・コンプルテンセ大学で学びながら、休み中にバックパッカーとして欧州各国やモロッコ等をヒッチハイクする。大学卒業後の昭和51(1976)年、石川島播磨重工業株式会社(現IHI)に入社、一貫して海外営業・戦略畑を歩む。入社3年目に日墨政府交換留学制度でメキシコのプエブラ州立大学に1年間留学。その後、オランダ・アムステルダム、台北に駐在し、中国室長、IHI (HK) LTD.社長、海外営業戦略部長などを経て、IHIヨーロッパ(IHI Europe Ltd.) 社長としてロンドンに4年間駐在した。定年退職後、IHI環境エンジニアリング株式会社社長補佐としてバイオリアクターなどの東南アジア事業展開に従事。その後、新潟トランシス株式会社で香港国際空港の無人旅客搬送システム拡張工事のプロジェクトコーディネーターを務め、令和元(2019)年9月に同社を退職した。その間、公私合わせて58カ国を訪問。現在、白井市南山に在住し、環境保全団体グリーンレンジャー会長として活動する傍ら英語翻訳業を営む。


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