【連載エッセー】岩崎邦子の「日々悠々」⑫
故郷の岐阜県大垣市で初めて小・中学校の同窓会があったのは、不惑の年になってからのことだった。当時「不惑」とか「四十にして惑わず」という言葉をよく耳にしたものである。私は意味など深く考えず、案内のハガキが来たことで、ただただ懐かしさだけが先に立ち、「出席」の返事を出した。
発起人となってくれた地元の人たちから、初の同窓会を開くにあたって、「不惑」の説明はあったのかどうか、定かではない。いずれにしても、男性は職場にも落ち着き、女性は子供や家庭に一段落となった年齢になったからではないか、というのが私の勝手な解釈であった。
会場となったホテルに赴くと、受付で中学時代のクラス名と名前を書いた名札を首から下げるように渡される。席はテーブル名の書かれた紙のくじ引きで決まるが、誰もすぐには席には着かない。顔を見ただけですぐに懐かしく話せる人や、じっくりと名前を見てから面影をたぐらなければならない人もいる。苦手だった人には、なんとなくスルーしたいものだ。
受付で渡された出席者名簿には、中学校時代のクラス分けで住所と名前、それに旧姓も書かれている。名前に「歿」の字もあったことに少しショックを覚えた。最後のページには小学校の校歌と中学校の校歌が載せてあった。校歌とは忘れないもので、大きな声ですぐに歌えてしまう。
当時の小学校近くの図書館に「トネリコ」という大きな木があった。街路樹や庭木として植えられており、昔は稲を干す稲架木として利用された。強く粘りがある木材なので、農具や家具の材料に向いているという。今ではラケットやバットなど運動具にも使われている。
シンボルツリーとして親しまれ、その花言葉は「威厳」「偉大」「思慮分別」。同窓会の名前も「とねりこ」と名づけられ、3年毎に実施することになった。何はともあれ、いろいろと準備してくれた幹事さんには、感謝しなければならない。
故郷での同窓会「とねりこ」があって以来、東京周辺にいる女子4人、時々都心でランチを楽しむようになった。学校時代はクラスも違っていたし、特別親しかった仲でもないのだが、遠く故郷を離れていることの共通点がそうさせるのか、懐かしさも含めて様々な話に花が咲く。
子供時代のお互いの知らなかった行動に、「えっ、そうだったの?」とか「へぇ~」と驚いたり、失敗談やエピソードに大笑い。家事から解放されての雑談は、夫への不満、子供の進路の話、料理の話、次から次へと話題が尽きることはない。
同窓会に出席してきた人の中で、「誰が一番若くカッコ良かった?」とか「あの人、昔の面影がなくなったわね」と自分のことは棚に上げて、勝手に品定めまで始まるのが常である。
そうこうするうちらに、「ねぇ、関東だけの同窓会をしない?」「もう、50歳になるしね」「大垣で会えない人も来てくれるかも」「誰も来なかったら、私たち発起人の4人だけかも~」という話になった。
同窓会でもらった名簿では20人近くが関東圏にいる。当時習ったばかりのパソコンを駆使して、集合場所を誰でも分かるだろうとの思いで、東京駅の「銀の鈴」にして、往復はがきを送ってみた。
すると意外にも田舎では会えなかった男性陣からの返事もあるではないか。期待に胸膨らむものの、
「果たしてお互いに顔は分かるかなぁ…」
と心配も。でも、そんな心配は徒労に終わった。10人ちょっとが参加してくれたのである。久しぶりに会う人たちも、当時の面影をしっかり残していた。
主婦業をしてきていると、当時の気持ちは「もう50」であったが、企業戦士でもあった男性たちは「まだ、まだ働き盛り」、そう脂の乗った時期であっただろう。それでも彼らは子供時代の笑顔を見せて懐かしがってくれた。
思わぬ盛会に気を良くして私たち仲間は、関東地区だけの同窓会を「関東とねりこ」と名付け、年に1度は開くことになった。そのときの様子や感想を書いて、出席者のみならず、欠席者にも郵送した。
当時は海外に単身赴任していたという男性も、家族から受け取っていたらしく、後に出席してくれた際には「あれは良かったよ」と言ってくれた。年を重ねるうちに「関東とねりこ」では、全員がメールアドレスを持つようになった。
同窓会を、懐かしく楽しむタイプと、関心がないタイプがあるようで、出席者はほぼ固定された。会の開催日や、終わった後の感想や会計報告もメールで送ることが出来るようになり、ずいぶん楽になったものだ。
「この指とまれ」と題して、それぞれ思いつくことを提案しあって、誰かの指にとまるようにもなった。春と秋には1泊や2泊のプチ旅行もする。趣味で写真をしている人から、写真展に誘われれば、それにも出かける。「花見に行こう」「紅葉が良いね」「桜上水を歩こう」と次々とお誘いが。何でもありが楽しい。
自衛隊吹奏楽部の音楽会や早稲田大学応援部の定期演奏会など、「招待券をもらったから」と定期的に誘いを受け、心待ちにもする。50歳を機に始まった「関東とねりこ」の交流は、田舎の人たちから、仲の良さを羨ましく思われていた。
残念というか、当時の大垣の人の大半が連絡事項は手紙か電話のみである。FAXなし、留守電なし。もちろん携帯電話も持たない。何事もせっかちにならず、おっとり、ゆったりした生活ぶりとして、あえて批判することもないだろう。
長く同級生との交流を経てきて、思わず考えてしまうこともあった。性格というか年を重ねたからなのか、饒舌が過ぎて、場が白けることも。人が話している話題の中に話を折るように割り込み、自分の考えや経験を話し出すという事態となる。だが、不思議なもので、いつの間にか淘汰されたように、その人の出席は激減してしまった。
今でも、「関東とねりこ」の有志7、8人で、2、3カ月毎に会い、必ず次の行事や会う日程を決めることにしている。その日も必ず出席できるように、元気で日々を暮らすことを目指す。そして、別れ際には合言葉のように、
「東京オリンピックまでは元気で生きていよう!」
と声を掛け合う。最近、次の目標もでき、合い言葉が増えた。
「大阪万博までは元気で生きようね!」