【連載】半導体一筋60年⑩
失敗に終わったASPLA
釜原紘一(日本電子デバイス産業協会監事)
▲半導体は人工衛星にも(三菱電機より)
日本の半導体メーカーの今
前号までで半導体に関することのほぼ全てを日本の栄枯盛衰も含めて報告しました。当初予定していた内容は終わったと考えますが、言葉足らずや飛躍もあったかも知れませんので、その補足を今後していきたいと思います。
現在、日本の半導体業界にはルネサス(日立+三菱+NEC)、キオクシア(東芝からスピンアウト)、ソニーセミコンダクターソリユウションズの3つが存在感のある大手として残っています。他にパワー半導体で三菱電機、富士電機、ロームなどが存在感を示しているようです。
ところで、1980年代の日本にはもっと多くの半導体メーカが存在していました。それらは次のように分類されるでしょう。、
【重電系】日立、東芝、三菱電機、富士電機
【情報・通信系】 NEC、富士通、沖電気
【家電系】松下(現パナソニック)、三洋電気、シャープ、ソニー
【その他】リコー、サンケン電気、新電元、新日本無線、オリジン電気、スタンレー
以上、20社近くになります。これらのメーカーの殆どは実は今でも何らかの半導体製品をつくっています。最先端のものではありませんが、それぞれ独自の市場に向けて特徴のある製品を供給し続けています。リコーと新日本無線は今は日清紡マイクロデバイスに吸収されています。
このようにメーカーの数が多いのは日本の特徴ではないでしょうか。韓国、台湾にはこれ程のメーカーはないでしょう。アメリカには大小のファブレスベンチャー企業はあるだろうと思いますが…。
半導体に限らず、日本には同一分野に会社が多いのが特徴です。自動車メーカーも銀行も多いのが日本です。だから、国としては統合させて1社当たりの競争力を強化したいのでしょうが、なかなかうまく行きません。日本社会では同調圧力はあるが、協調するのは苦手なのかも知れません。
日の丸ファンドリー構想ASPLA
DRAMで日立、NEC、三菱電機を統合してエルピーダという会社をつくったものの、資金が続かず結局破綻してしまったことは既に述べたとおりです。実は、この他に「日の丸ファンドリー」というのがあったのですが、それもうまく行きませんでした。
その経緯について(財)武田計測先端知財団の報告書に基づき紹介しますが、日本企業どうしの共同プロジェクト失敗の典型例です。わが国では今、最先端半導体を担うラピダスという会社を北海道で立ち上げようとしていますが、以下に述べるASPLA(アスプラ)の事を反面教師としたいものです。
(株)先端SoC基盤技術(ASPLA:Advanced SoC Platform Corporation)が平成14(2002)年7月に設立され、国から315億円が出資されました。
SoCとはシリコンオンチップと読み、半導体チップに先端のシステム(コンピュータ・通信シスムや画像処理システム等)を組み込んだ製品を意味します。DRAMに代わるものとして各社がその開発に力を入れていました。
国の予算以外に主要半導体会社11社(日立、東芝、三菱、NEC、富士通、沖、松下、三洋、シャープ、ソニー、ローム)が出資し、資本金18億5000万円のASPLAがスタートしたのです。
その設立意義は、①各社バラバラだったプロセスを標準化し、生産性の高い設計環境を提供できるようにする、②メーカにとって非競争領域であるプロセス開発を共通に行うことによって各社の無駄な開発を省くこと、などが挙げられました。
SoCを実現したICをシステムLSIと呼びますが、ASPLAはシステムLSIに対応した90nm(ナノメータ)の最小寸法を持つLSIの標準プロセスの提供を目標としていました。
表向きは共同開発だったが…
90nmは当時で最先端のプロセスと考えられていましたが、ASPLAに出資したメンバー会社である富士通、東芝、NECなどはASPLAの共同開発とは別に、独自に90nmのプロセス開発を進めていたのです。
富士通はASPLAがスタートする1カ月前に東芝と90nmと65nmの共同開発をすることで合意していました。一方で東芝はASPLA設立の5カ月後にソニーと世界初となる65nmの技術を開発したと発表しています。
その前の月には、ASPLAの中心企業と目されていたNECが90nmプロセス技術を用いた製品を発表しました。これはASPLAが一般企業向けのサービスを始める2年も前の事になります。この様にASPLAに参加していた各社はお付き合いで参加したとしか思えない動きをしていました。
経産省は各社の動きをどこまで把握していたのか、大変疑問です。こうしてASPLAは3年後の平成17(2005)年9月に所期の目的を終えたとして解散しました。表向きは一定の成果があったとされています。
90nmのプロセスは上述の通り各社既に殆ど確立しつつあるものであり、ASPLA設立時の目標があまりにも低すぎた言わざるを得ません。絶対に成功する内容だった訳です。だから「成功裡に使命を終えました」なんて言うのは誠に白々しい限りです。
設立意義にあった「プロセス開発は各社の非競争領域だ」というのは本当なのか。そんな指摘があったのも当然でしょう。
▲個別半導体製品は国内の中堅メーカーが生産(新電元より)
最初から計画が甘かった!
アメリカで唯一生き残ったDRAMメーカーのマイクロンは、製造プロセスを徹底的に改善して極めて低コストでDRAMを製造し、日本企業をDRAM市場から駆逐したと言われています。1980年代に日本のDRAMメーカーが米国企業をDRAM市場から駆逐したように!
マイクロンが新プロセスで日本を打ち破ったことから分かるように、プロセス開発は非競争領域ではないのです。それなのに、「みんなで協力しましょう」と言われても、各社は困ったに違いありません。適当にやり過ごすしかなかったのです。そして大事なところは独自にやる道を選ぶことになったのでしょう。
だから最初から計画が甘かったと言わざるを得ません。「みんなが使える技術を目指したら誰も使わない技術になった」「お手々つないでの典型的失敗例だ」と言うのは「絶対匿名」を条件に漏らしたASPLA参加メーカの人々の本音として伝えられています。
以上好き勝手に気分よく言わせてもらいました、平成13(2001)年には現役を引退していたので無責任に放言している訳です。先に言いましたように、ASPLA失敗の教訓を是非ラビダスに生かして欲しいものです。
ASPLAに国は315億円を投じるとの報道があった時、正直言ってその額の少なさに耳を疑いました。当時の半導体OBは皆同意見でした。当時1台300億円もするEUV露光装置はありませんでしたが、半導体業界での金銭感覚と、それ以外の人々の金銭感覚とは全く違うものだと感じています。
【釜原紘一(かまはら こういち)さんのプロフィール】
昭和15(1940)年12月、高知県室戸市に生まれる。父親の仕事の関係で幼少期に福岡(博多)、東京(世田谷上馬)、埼玉(浦和)、新京(旧満洲国の首都、現在の中国吉林省・長春)などを転々とし、昭和19(1944)年に帰国、室戸市で終戦を迎える。小学2年の時に上京し、少年期から大学卒業までを東京で過ごす。昭和39(1964)年3月、早稲田大学理工学部応用物理学科を卒業。同年4月、三菱電機(株)に入社後、兵庫県伊丹市の半導体工場に配属され、電力用半導体の開発・設計・製造に携わる。昭和57(1982)年3月、福岡市に電力半導体工場が移転したことで福岡へ。昭和60(1985)年10月、電力半導体製造課長を最後に本社に移り、半導体マーケティング部長として半導体全般のグローバルな調査・分析に従事。同時に業界活動にも携わり、EIAJ(社団法人日本電子機械工業会)の調査統計委員長、中国半導体調査団団長、WSTS(世界半導体市場統計)日本協議会会長などを務めた。平成13(2001)年3月に定年退職後、社団法人日本半導体ベンチャー協会常務理事・事務局長に就任。平成25(2013)年10月、同協会が発展的解消となり、(一社)日本電子デバイス産業協会が発足すると同時に監事を拝命し今日に至る。白井市では白井稲門会副会長、白井シニアライオンズクラブ会長などを務めた。趣味は、音楽鑑賞(クラシックから演歌まで)、旅行(国内、海外)。好きな食べ物は、麺類(蕎麦、ラーメン、うどん、そうめん、パスタなど長いもの全般)とカツオのたたき(但しスーパーで売っているものは食べない)