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「落とし紙」が懐かしい 【連載】腹ふくるるわざ⑲

2021-11-08 05:03:01 | 【連載】腹ふくるるわざ

【連載】腹ふくるるわざ⑲

「落とし紙」が懐かしい

桑原玉樹(まちづくり家) 

 

 

 先日、ご近所の高齢者が集まるダーツの会で「落とし紙」が話題になった。トイレで用を済ませた後に尻を拭き、ポトンと落とすあの紙のことだ。「チリ紙」「鼻紙」ともいう。
 こんな話題が出た。「今はトイレットペーパーに変わって、落とし紙は廃れてしまったのだろうか?」「ヨーロッパのトイレットペーパーの幅が狭いのは、便の違いからだろうか?」「公団住宅でもトイレットペーパーが登場する前は、落とし紙を使っていただろうか?」
 私自身、住宅公団に在籍していたので、気になって気になってネットで検索してみた。

今も「落とし紙」はある

 1番目の話題の「落とし紙」。今もあった。昨年のコロナ騒ぎで一時トイレットペーパーが品薄になった。その時に「落とし紙」を探した人がレポートしてくれている。兵庫県丹波市にあるホームセンター8店を調査したところ、7店で取り扱いされていたそうだ。
「再生パルプ 100%で、水洗トイレに対応している。ふかふかで、とても柔らかい。紙がちぢれている」
 と報告されている。
 ネット通販を見たら、結構広告が出てくるではないか。商品名も「鼻紙」ならぬ「花神(かしん)」とあったりする。再びトイレットパーパーが店頭から消えたときは、「落とし紙」を探すと盲点かもしれない。


▲現在販売されている「落とし紙」の例

 

日欧で違うトイレットペーパーの幅

 2番目の話題はトイレットペーパーの幅。日本ではJIS規格により114mm。一方、ヨーロッパは概ね100㎜。確かに幅は違うようだ。その理由は何だろう。こんな仮説を議論した。
 日本をはじめアジア人は草食系だから便に食物繊維が多く含まれ、量も多く太く柔らかい。だからおのずとトイレットペーパ ーも広い面積が必要になるので、幅は広い。一方、欧米人は肉食系で便は少量でコロコロで硬い。だから トイレットペーパーの面積は少なくて済み、幅は狭くても良い。
 そこで便の量について検索してみた。戦前、日本人の便は1日当たり400gだったが、今は食生活の変化で200gしかない。そして欧米人は100gという記事があった。便の硬さ、形は国際的にブリストル・スケールという基準で判断されるようだ。
 しかし、このスケールを国別にあてはめて分析し、仮説を裏付けるような記事は見いだせなかった。おまけに日本は米国をお手本として米国の標準4.5インチ(約114㎜)に倣ったそうだから、便の違いがトイレットペーパーの幅に影響を与えている訳でもなさそうだ。


▲ブリストル・スケール(英国のブリストル大学で開発された)


初期の公団住宅には「落とし紙」が

 3番目の話題は、私がかつて在籍していた日本住宅公団の話だ。公団は昭和30(1955)年に設立された。戦後の住宅不足を解消することが一番の目的だが、技術者たちは新しい住生活を作り出すことを目指した。
 そして生み出されたのが、ステンレス流し台(それまでは人研ぎ流し台)、シリンダー錠(それまでは南京錠)、アルミサッシ(それまでは木製)、食寝分離(それまではちゃぶ台を片 付けてから布団を敷いたが、ダイニングテーブルとイスに)、内風呂(それまでは銭湯が主流)、そして洋式便器だ。
 ちなみに、腰掛型の洋式便器が設置されたのは公団設立から3年後の昭和33(1958)年からである。その前の数年は水洗だが、いわゆる「汽車型和式トイレ」。私も昭和36(1961)年から数年間、5階建ての集合住宅に住んだが、そこは初期の公団型2DKで、「汽車型和式トイレ」だった。
 山陽スコットからトイレットペーパー(「スコット・トイレットティシュー」と呼ばれた
)が発売されたのは昭和38(1963)年のことなので、それまでは和式にせよ洋式にせよトイレットペーパーの代わりに「落とし紙」を使っていたのかもしれない。
 わが家の周りに集合住宅が50棟くらいあったが「排水管が詰まって困った」と聞いた記憶がないので、きっと水に溶けやすい「落とし紙」だったのだろう。
 余談だが、大正13(1924)年に神戸の貿易商、島村商会が外国汽船のために巻き取り型にして納品するようになったのが、日本で初めてのトイレットペーパーだとか。


▲トイレットペーパー発売開始(後にブランド名を「スコッティ」に統一)


▲初期の公団住宅(2DK)は水洗トイレだが汽車型和式便器

 


▲公団住宅の汽車型和式水洗トイレ

 

憧れの公団住宅

 ところで昭和30年代の公団住宅は、文化的な生活の象徴として庶民の憧れの存在だった。昭和35(1960)に新婚1年半の皇太子殿下ご夫妻(今の上皇陛下ご夫妻)が田無市のひばりが丘団地を訪問されたこともある。
 写真からもご夫妻の人気ぶりがうかがえるが、周りのバルコニーはパンツなどで満艦飾。あまり文化的には見えないが、皇室と庶民の関係を物語るようで、なんともほほえましい。


▲ひばりが丘団地を訪問された皇太子殿下ご夫妻(当時)

 

【桑原玉樹(くわはら たまき)さんのプロフィール】

昭和21(1946)年、熊本県生まれ。父親の転勤に伴って小学校7校、中学校3校を転々。東京大学工学部都市工学科卒業。日本住宅公団(現(独)UR都市機構)入社、都市開発やニュータウン開発に携わり、途中2年間JICA専門家としてマレーシアのクランバレー計画事務局に派遣される。関西学研都市事業本部長を最後に公団を退職後、㈱千葉ニュータウンセンターに。常務取締役・専務取締役・熱事業本部長などを歴任し、平成24(2012)年に退職。現在、印西市まちづくりファンド運営委員、社会福祉法人皐仁会評議員。


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