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対面所は新たな秩序の到来を示した:美術鑑賞用語のおはなし

2018年02月18日 | 美術鑑賞用語のおはなし



信長・秀吉の天下統一によって平和な時代が訪れると、権力者に謁見する部屋として「対面所(たいめんじょ)」が城や大寺院に設けられるようになります。対面所の登場には、室町時代と江戸時代の社会環境の違いが大きく影響しています。江戸時代ですので建物も比較的現存しています。桃山時代から江戸時代の日本美術を理解するためには必ず知っておきたい概念です。


中央集権が確立し、平和な時代が到来

安土桃山時代以降は、歴史の上では「近世(きんせい)」と呼ばれるようになります。室町時代以前の中世から時代区分が変わることになります。そのポイントは、中世には存在しなかった絶対権力者の登場です。

平安朝廷・鎌倉幕府・室町幕府とも中央集権が確立していたわけではなく、火種は各地に存在していました。しかし信長・秀吉・徳川の時代になると、中央の権力者の意向に従わない勢力は全国的になくなります。また天皇を頂点とした公家の政治的影響力もなくなります。社会の管理支配構造がとてもシンプルになったのです。

こうなると権力者はきわめて多くの家臣や臣従を持つことになり、謁見・下知といった対面儀礼をおこなう場が必要になってきます。この場が「対面所」です。この時代の対面所の代表例は、大政奉還の場としても著名な二条城・二の丸御殿・大広間です。一段高く48畳もある「一の間」には将軍一人が座り、権威を見せつけます。一の間から一段低い「二の間」も44畳あり、ここに家臣や臣従が並びます。

【公式サイト】 二条城 パノラマウォーク <大広間>一の間・二の間の天井


寺院も平和な時代に

対面所は城だけではなく、大寺院にも設けられます。戦国時代の京都では、天台宗・浄土真宗・法華宗が相互に主導権を巡って武力抗争を繰り返していました。また信長と本願寺、秀吉と根来寺など、戦国大名との戦いも絶えませんでした。しかし秀吉の天下統一後、大寺院が武力抗争することはなくなります。絶対権力者に逆らうと、寺そのものが潰されてしまうからです。

江戸時代には幕府からの檀家制度の運営委託により、末寺(まつじ、傘下の寺院)や檀家の数は巨大になります。こうなると武家と同じく大寺院にも、トップが法話をする、末寺・檀家から挨拶を受けるスペースが必要になります。大寺院の対面所の代表例は、西本願寺の書院「鴻の間」です。203畳もあります。

【公式サイトの画像】 西本願寺 対面所(鴻の間)


日本絵画も黄金時代に

二条城の大広間には、狩野探幽による圧巻の松の木が障壁画に描かれています。西本願寺の鴻の間も桃山時代の華麗な様式の障壁画で覆われています。対面所に象徴される絶対権力の確立は、政治経済を安定させ、長く続いた戦乱の世で鬱積した風流への関心に火を付けます。

城・大名屋敷・寺院など多くの建物で、室内を飾る障壁画の需要が爆発的に拡大しました。狩野派・長谷川等伯・海北友松ら著名な桃山時代の画家たちは、こうした時代の寵児でもあったのです。

安土城・伏見城・大坂城・江戸城も豪壮な襖絵で囲まれていたことは、多くの記録に残っています。いずれもトップの権力者の居城です。現存する二条城をさらに上回る華麗な空間が存在していたことは想像に難くありません。しかしいずれも現存しません。美術品を後世に伝えていくことがいかに大切かを痛感します。

【Wikipediaへのリンク】 対面所



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