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新日吉神宮・京都 ~女坂の先のミステリアスな神社

2018年03月11日 | お寺・神社・特別公開


印象的な朱印の看板

新日吉(いまひえ)神宮は、京都・東山の京都国立博物館から豊国廟へ登る参道の途中にあります。字平安時代末期の後白河上皇による創建で、歴代の天皇・上皇も頻繁に御幸していました。しかし現代では、江戸時代に密かに秀吉を祀った神社として知られています。「猿」を神の使いとしてあがめていることから、猿のお守りも人気があります。

「神社名が読めますか?」と、新日吉神宮の公式サイトのトップページに書かれています。初めて見て読める人はまずいないでしょう。「ひえ」とは「日吉」「日枝」「比叡」をさし、滋賀県の比叡山麓に鎮座する「日吉(ひよし)大社」を総本社とする「山王信仰」のグループに属します。東京・永田町の日枝(ひえ)神社も同じグループです。

総本社は「ひよし」と読みますが、第二次大戦前までは「ひえ」と読んでいました。京都の神社では「新」を「いま」と読むことがよくあります。「新しい」というよりも「現在の」という意味に近いと考えてください。

後白河上皇は平安時代末期の1160(永暦元)年、現在の三十三間堂付近に新たな邸宅「法住寺殿」を建設するにあたり、その守護神として日吉社と熊野社から勧請します。これが現存する新日吉神宮と新熊野(いまくまの)神社の起こりです

。創建当初、両社はごく近くにありました。新熊野神社は現代まで場所は変わっていません。新日吉神宮は現在の智積院の南のあたりにありました。その後長らく荒廃していたようですが、江戸時代になって現在地のやや東側に、破却された豊国神社への参道をふさぐように再建されました。


境内社・豊国神社(樹下社)

その後、境内社として「樹下社(このもとのやしろ)」が造営され、妙法院で密かに保管されていた豊国神社のご神体が祀られました。神社名は、秀吉の元の姓「木下」や幼名「日吉丸」に通じます。また新日吉神宮の再建には、江戸幕府を嫌っていて負けん気の強かった後水尾上皇の意向が働いたという説もあります。

こうして江戸時代に密かに豊国神社を復活させたという話が、まことしやかに語られるようになりました。仮説の域を超えないようですが、当時の環境を踏まえると筋が通らない話ではありません。

明治になって秀吉は復権、豊国廟が再建されると、参道をふさがないよう1897年(明治30)年に現在地に移転します。「樹下社」も現在の本殿の背後に移転し、現代は豊国(ほうこく)神社と称しています。方広寺の大仏殿跡地に再建された豊国(とよくに)神社とは別のお社ですが、「隠れ秀吉信奉」説があることから、新日吉神宮の境内社の方がどこかミステリアスです。


狛猿

本殿の前に鎮座する猿はなぜか金網に囲まれています。「神猿(まさる)」と呼ばれます。“まさる”は「魔が去る」「勝る」に通じるため「開運招福」につながると信奉されています。猿は山王信仰の神社で魔よけの象徴としてあがめられています。京都御所の鬼門である東北角にも猿が祀られています。

【公式サイトの画像】 環境省・京都御苑・猿が辻


新日吉神宮に向かう坂道を登っていくと、ものすごい数の女子学生に圧倒されることがあります。京都女子大学・高校・中学のキャンパスが新日吉神宮の向かいにあるためでます。「女坂」と呼ばれる京都では有名なスポットです。

こんなところがあったのか。
日本にも世界にも、唯一無二の「美」はたくさん。


新日吉神宮
http://www.imahie.com/

※拝観・見学に条件はありません。いつでも無料で拝観・見学できます。


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