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中世の京都に君臨した天台宗 ~仏教宗派の個性(3):美術鑑賞用語のおはなし

2018年05月23日 | 美術鑑賞用語のおはなし



真言宗は、空海があまりに偉大であったのか、空海に続く有力な弟子は表れていません。多くの宗派に分かれますが、いずれも脈々と空海の法灯を伝えています。

一方天台宗は対照的です。最澄に続く有力な弟子が続出し、鎌倉仏教の生みの親にもなります。絶大な経済力を身につけ、中世には都に君臨していましたが、武力抗争など負の側面も少なくありません。日本社会の形成に与えてきた影響は、真言宗より天台宗の方がはるかに大きいと言えます。歴史の教科書に登場する頻度の多さからも納得できます。

宗旨 宗派 本山 所在地 本尊 住職名
天台宗 (通称)山門派 延暦寺 大津市 薬師如来 座主(ざす)
【独立】 天台寺門宗 三井寺 大津市 弥勒菩薩 (ちょうり)
天台真盛宗 西教寺 大津市 阿弥陀如来 貫首(かんしゅ)
和宗 四天王寺 大阪市天王寺区 救世観音 管長(かんちょう)
粉河観音宗 粉河寺 和歌山県紀の川市 千手千眼観音菩薩 管長(かんちょう)
鞍馬弘教 鞍馬寺 京都市左京区 尊天(毘沙門天・千手観音・護法魔王貴) 管長(かんちょう)
聖観音宗 浅草寺 東京都台東区 聖観音 貫首(かんしゅ)



日本仏教の歴史を作った延暦寺

天台宗の開祖・最澄は、唐に留学する前の788(延暦7)年、比叡山中の現在の根本中堂の場所に小さな一乗止観院(いちじょうしかんいん)を建立します。この小さな寺が、最澄の死後823(弘仁14)年に、嵯峨天皇から創建時の元号を寺名として賜った総本山・延暦寺(えんりゃくじ)の起源です。

延暦寺からは優れた弟子が多く登場し、天台宗の発展を継続させていきます。最澄がもたらした密教が空海のものより不十分だったため、弟子たちが積極的に唐に渡り新しい教えを持ち帰ろうとしました。

最澄の少し後、3代天台座主になった慈覚大師・円仁(じかくだいし・えんにん)と、5代天台座主になった智証大師・円珍(ちしょうだいし・えんちん)は、最澄ができなかった貴重な経典や曼荼羅を唐から持ち帰ります。

円仁は、東京の浅草寺や目黒不動、山形の立石寺、松島の瑞巌寺を開いたとする伝説があります。唐への旅行記「入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)」は、東方見聞録などと並んで世界的に著名な旅行記です。後に寺門派・三井寺と対立する山門派のリーダーとしてあがめられます。

円珍は円仁以上に多くの経典を持ち帰ります。円珍が貴重な経典を三井寺に置いたことが、のちに山門寺門の対立の大きな要因となります。黄不動やなどの美術品や肖像画・書など、円珍がかかわった国宝クラスの文化財が数多く三井寺に残されています。

966(康保3)年に18代天台座主になった元三大師・良源(がんざんだいし・りょうげん)は火災で荒廃していた伽藍を復興させ、比叡山中興の祖としてあがめられています。「厄除け大師」として庶民にも人気があり、「おみくじ」の創始者とも言われています。


延暦寺

延暦寺は、法華経典の教えを基本とする天台宗ではありますが、戒律・密教・念仏・禅など他の様々な仏教宗派の教えも受容します。そのため四宗兼学(ししゅうけんがく)の道場とも呼ばれ、南都寺院に代わって仏教を志す若者の総合大学のようになっていきます。良忍・法然・親鸞・栄西・道元・日蓮ら、鎌倉時代に興った新宗派の開祖は、すべて延暦寺から巣立っていきます。

こうしたオープンな姿勢は、真言密教だけを教えた高野山とは対照的です。平安京に近かったという立地条件もありますが、日本仏教の興隆に果たした貢献度は計り知れません。僧兵による武力行使というマイナスイメージだけで、延暦寺を語ることはできません。

僧兵のような強固な組織を維持できたのは、比叡山が総合商社のように都の経済の多くを支配していたためです。南都北嶺(なんとほくれい)と呼ばれた室町時代まで続く興福寺との対立が、興福寺に対抗しうる経済力を付けようと努力した結果と思えてなりません。

祇園社(現・八坂神社)や北野社(現・北野天満宮)を次々と支配下に置きます。両社が持つ洛中の広大な土地には不輸不入の権があり、国家といえども手を出せませんでした。また琵琶湖の水運の大半を握っており、比叡山にそっぽを向かれては都の経済にすぐさま影響が出たのです。

平安時代後期に院政を始めて絶大な権力を誇った白河法皇の嘆き「わが心にかなわぬもの、賀茂河の水、双六の賽、(比叡山の)山法師」はよく知られています。権力者ですら手を出せないほど社会を牛耳っていました。

その後も戦国時代まで、寺門派・他宗・政治権力者との抗争が相次ぎます。室町幕府6代将軍・義教による攻撃、本願寺や日蓮宗との抗争、信長の焼討、と日本史を左右する重大事件の当事者であり続けます。

天台宗は、歴史的に分派・独立が多い宗派です。本家の延暦寺は「天台宗」とだけ宗派名を名乗っていますが、分派との区別のために山門派(さんもんは)と呼ぶことも少なくありません。

天台宗(山門派)の著名寺院(山内塔頭除く)は全国に数多くあります。

総本山

  • 延暦寺

門跡寺院

  • 大津の滋賀院、京都の五門跡(妙法院・三千院・青蓮院・曼殊院・毘沙門堂)

大本山

  • 平泉の中尊寺、日光の輪王寺、上野の寛永寺、長野の善光寺大勧進

他の有力寺院

  • 京都の革堂・方広寺・真如堂・法住寺・蓮華寺・勝林院・宝泉院・来迎院・寂光院・赤山禅院・二尊院・愛宕念仏寺・月輪寺・願徳寺・三鈷寺・勝持寺・山科聖天
  • 滋賀県の湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)と湖南三山(常楽寺・長寿寺・善水寺)、甲賀市の櫟野寺、大津の聖衆来迎寺・青龍寺
  • 小浜の若狭神宮寺、亀岡の穴太寺
  • 明日香の橘寺、岸和田の大威徳寺、貝塚の水間寺
  • 海南の善福院・長保寺、和歌山県の道成寺・青岸渡寺・補陀洛山寺
  • 神戸の太山寺、加西市の一乗寺、加古川の鶴林寺、姫路の圓教寺、太子町の斑鳩寺
  • 平泉の毛越寺、奥州市の黒石寺、山形の立石寺
  • 佐野の厄除け大師、川越の喜多院、東京の目黒不動、調布の深大寺
  • 長野県の大法寺、信濃国分寺、岐阜県の華厳寺・横蔵寺、名古屋の荒子観音、岡崎の滝山寺
  • 鳥取県の三佛寺・観音院・大山寺
  • 大宰府の観世音寺、大分県の富貴寺・両子寺

上野の寛永寺は、江戸時代は延暦寺に代わって天台宗全体の管理を行っていました。明治維新後に管理権は延暦寺に戻っています。

【Wikipediaへのリンク】 天台宗
【Wikipediaへのリンク】 延暦寺


寺門派の分派と抗争

天台宗は四宗兼学と呼ばれたように、仏教の教えの多様性を受容したことが、日本の仏教宗派の中では稀有です。そのためか結果的に、平安時代から現代まで独立した宗派が非常に目立っています。

分派した筆頭は通称・三井寺(みいでら)で知られる園城寺(おんじょうじ)です。山門派に対して寺門派(じもんは)と呼ばれる天台寺門宗の総本山です。

【三井寺公式サイトの画像】 智証大師・円珍

延暦寺内で円仁と円珍を支持する二つの派閥ができ、対立を始めます。993(正暦4)年、円仁派が円珍派を襲撃し、円珍派は山を下りて三井寺に入ります。山門寺門の対立はやむことはなく、室町時代まで数多く続きます。こうした長期に渡って熾烈な内部抗争が続いたことも、真言宗とは対照的です。


三井寺で最も神聖なエリア、唐院・灌頂堂

円珍を開祖とする寺門派の教えは、延暦寺の四宗兼学に修験道を加えていることがその特徴です。天台宗系の修験道である「本山派」は寺門派との関係が密接です。

三井寺は仏教美術が数多く伝えられていることも特徴的です。幾度の山門派からの攻撃も守り抜いてきました。一方の延暦寺は、やはり信長による焼討が今に伝わる仏教美術の数にも影響していると考えられます。

【Wikipediaへのリンク】 天台寺門宗
【Wikipediaへのリンク】 三井寺(園城寺)


卒業生を送り出す伝統が今に続く

延暦寺は仏教の様々な宗派の考え方を教える伝統があります。室町時代までは絶大な軍事力と経済力を持っていました。江戸時代は徳川幕府によって厚く庇護されており、何といっても日光の家康廟を弔う寺は天台宗の輪王寺です。

こうした歴史的な背景から、天台宗とはやや異なる教えをする寺も数多く傘下に収めてきました。江戸時代には徳川幕府の本末制度により、寺は必ずどこかの宗派に属さなければならなくなりました。天台宗の傘下に入る寺も少なくありませんでした。

明治維新と第二次大戦敗戦のような社会が大きく変わる時に、天台宗から独立した寺は少なくありません。近年になっても卒業生を送り出す伝統は続いています。

比叡山のふもと、大津市・坂本にある西教寺(さいきょうじ)は、天台真盛宗(てんだいしんせいしゅう)の総本山です。室町時代の1486(文明18)年に真盛(しんせい)が寺を中興したことで宗派の祖としています。天台真盛宗は天台宗の中でも念仏を重んじる浄土教の影響が強い宗派です。明治時代に独立しました。

【Wikipediaへのリンク】 西教寺

法隆寺と並んで日本で有数の歴史を誇る大阪の四天王寺(してんのうじ)は現在、和宗(わしゅう)を名乗っています。593年から聖徳太子が建立を始めました。四天王寺は様々な宗派を教える八宗兼学(はっしゅうけんがく)の寺で、伝統的に宗派には属していませんでした。教えの近い天台宗との関係を徐々に強めていきましたが、和宗として第二次大戦後すぐに独立しました。

【Wikipediaへのリンク】 四天王寺

和歌山県の紀ノ川沿いにある粉河寺(こかわでら)は、粉河観音宗(こかわかんのんしゅう)の総本山です。粉河観音宗は天台宗に近い教えです。

【Wikipediaへのリンク】 粉河寺

奈良時代に鑑真の高弟が創建したとされる鞍馬寺(くらまでら)も永らく天台宗でした。第二次大戦後すぐに、鞍馬弘教(くらまこうきょう)として独立しています。宇宙の支配する尊天(そんてん)をあがめることが特徴です。

【Wikipediaへのリンク】 鞍馬寺

全国でも有数の参拝者を誇る東京の浅草寺(せんそうじ)は、飛鳥時代の創建と言われます。慈覚大師・円仁が中興したとされ、永らく天台宗でした。第二次大戦後すぐに、聖観音宗(しょうかんしゅう)として独立しました。

【Wikipediaへのリンク】 浅草寺

 


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