中国式デザインが美しい本堂、蘇鉄が合う
興福寺(こうふくじ)は、日本で黄檗宗を開いた中国の高僧・隠元隆琦(いんげんりゅうき)が、来日後最初に入った寺だ。宇治にある本山・萬福寺よりも古く、日本の黄檗宗では最古の寺である。本堂である重文・大雄宝殿(だいゆうほうでん)は、中国から輸入した資材がふんだんに使われており、柱の木材の質感や丸窓の組子模様がエキゾチックで美しい。
江戸時代の初め、国際貿易都市として繁栄していた長崎の市民の6人に1人は華僑だった。おりしも幕府のキリシタン禁令により、仏教寺院にキリシタンでない証明書を出してもらうことを義務付けた「寺請制度」が始まり、長崎の華僑の間で自ら寺を創建しようとする機運が高まった。1624(寛永元)年に浙江省・江蘇省(上海の周辺)出身者を中心に創建されたのが興福寺である。その後も福建省(台湾の対岸)出身者たちが1628(寛永5)年に福済寺(ふくさいじ)、翌年には崇福寺(そうふくじ)をそれぞれ創建し、あわせて「長崎三福寺」と呼ばれている。
長崎三福寺はいずれも、長崎港を見下ろす高台にあって眺めがよい。福済寺は終戦直前の原爆投下で残念ながら焼失しているが、爆心地から距離があった興福寺と崇福寺は決定的な被害を免れた。興福寺は長崎市街を囲む東側の山の中腹にあり、寺院が立ち並ぶ静かなエリアだ。近くには坂本龍馬が日本初の商社である「亀山社中」もある。
山門の色から「あか寺」とも呼ばれる
山門は朱色でインパクトが大きい。日本で最初にたどりついたのはここだ!という意味だろうか、隠元自書の「初登宝地」という扁額が威風堂々としている。立派な山門を入ると一転、落ち着いたデザインの境内が広がる。
屋根の角の反り返りのシャープさが、この寺の大雄宝殿は特に見事である。現在の大雄宝殿は1883(明治16)年の再建だが、資材の多くは輸入され、宮大工も中国人だった。屋根の角の反り返りは「禅宗様式」と呼ばれて日本の他の禅寺にもみられるが、日本の反り返り具合はもっとソフトだ。
素晴らしい幾何学模様に木を組んでいる
正面の丸窓も日本にはないデザインが美しい。氷を砕いたような文様のため「氷裂式組子」と呼ばれる。原爆投下までは組子の背面はガラス張りで、ステンドグラスのようにさぞかし見事な輝きを放っていただろう。原爆投下でガラスが吹き飛び、修理の際にガラスを再び施すことができず板張りにしたという。板張りでも実に素晴らしい。ここでしか見られないデザインだ、ぜひ見てほしい。
綺麗に整えられた芝生、思わずベンチに座ってみたくなる
大雄宝殿の前には、蘇鉄が上品に点在する芝生が整えられており、緑が美しい。裏庭を見ながら抹茶もいただける。長崎らしい異国情緒の中でいただく抹茶は格別だ。
隠元が来日するとその高僧ぶりは瞬く間にうわさが広がり、将軍家綱や後水尾法皇も隠元に帰依した(僧をよりどころにした)ほどだ。最初は3年間しか日本にいない約束だったが、将軍家綱から宇治に隠元のための寺が建てられることになり、日本に骨をうずめる覚悟を決めている。
インゲン豆を伝えたことでもよく知られているが、他にも多くの文化を日本にもたらしている。急須に茶葉を入れて飲む煎茶(せんちゃ)、現在では一般的な飲み方だが、これも隠元がもたらしたものだ。
隠元よりまえの住職だった黙子如定(もくすにょじょう)は、参拝者の便のため参道を横切る川に橋を建設した。観光名所として名高い眼鏡橋である。
興福寺は、江戸初期に長崎や日本に様々な中国文化をもたらし、多くがかけがえのない遺産として今に伝えられている。奥が深い寺である。
日本にも世界にも、唯一無二の「美」はたくさんある。ぜひ会いに行こう。
長崎で三福寺を創建する原動力となった「唐人屋敷」、出島以上の貿易拠点だった
興福寺(長崎市寺町)
http://kofukuji.com/(公式サイト)
https://www.at-nagasaki.jp/spot/97/(長崎市観光サイト)
原則休館日:なし