「豊国大明神」は秀吉と懇意だった後陽成天皇筆の扁額
豊国(とよくに)神社は京都・東山にある豊臣秀吉を祀る神社です。豊臣秀吉の死の翌年1599(慶長4)年に現在地より東の山の中腹に創建されました。しかし大坂夏の陣後に立ち入り禁止となり、朽ち果てます。現在地には明治天皇の勅命で再興されました。
時の権力者の意向で激動を歩んだ神社ですが、唐門など秀吉時代の遺構も少なからず残されています。創建の地は「豊国廟(ほうこくびょう)」として、こちらも明治になって再整備されました。今でも京都市民の「太閤人気」を感じさせるスポットです。
竹生島・宝厳寺の唐門
1598(慶長3)年9月に伏見城で息を引き取った秀吉の遺骸は、翌年4月に遺命に従って京都・東山の阿弥陀ヶ峰の山頂に埋葬されます。現在の豊国廟の五輪塔があるところです。この墓所に至る山の中腹、五輪塔に登る長い階段が始まる広場に豊国神社が創建されました。日光東照宮のような荘厳な社殿であったことが予想されます。
琵琶湖の竹生島の宝厳寺(ほうごんじ)に、豊臣秀頼の命で豊国神社から移築されたと考えられている唐門が遺されています。桃山時代の壮大さ・優雅さを感じさせるデザインです。豊国神社の前には大坂城にあったという説も有力です。とてもロマンのある国宝建築です。
国宝の豊国神社の唐門
歴史は時の権力者によって大きく変わります。明治になった直後の1868年、明治天皇が秀吉を称賛し、豊国神社を大阪で再興するよう沙汰を出します。しかし京都市民の嘆願で、秀吉が築いた大仏殿があった現在地に1880(明治13)年に再興されます。現在の本殿はその際の建築です。
本殿の正面に建つ国宝の唐門は、明治の再興時に南禅寺・金地院から移築されました。金地院の前には伏見城にあったと考えられており、明治天皇の意向が強く働いたのでしょう。西本願寺や大徳寺、醍醐寺三宝院の唐門と並んで、桃山時代を代表する美しい唐門です。扉や天井などの意匠もとても見応えがあります。王朝文化を好んだ秀吉の趣味にあわせ、荘厳な中に優雅さも感じさせます。
大坂夏の陣後に豊臣の気配を一切消そうとした徳川が倒れると、徳川の気配を消そうとする動きが出ます。南禅寺・金地院は徳川家康のブレーンとして知られる金地院崇伝の寺で、江戸時代を通じて幕府の庇護の下、禅宗寺院の最高機関として君臨していました。金地院にあった唐門が移築されたのも、徳川の気配を消す動きと思えてなりません。
境内にある「宝物館」では、秀吉時代の華やかさを今に伝える美術品が公開されています。狩野内膳による豊国祭礼図屏風は、大坂の陣まで毎年8月の秀吉の命日に行われていた祭礼を描いたものです。市民の生き生きと祭りを楽しむ姿がとても華麗に表現されています。見応えのある重要文化財です。
京都では、神社の正式名称の「とよくに」よりも「ほうこく」と読む方が一般的です。秀吉の墓所も「ほうこくびょう」と読みます。京都では固有名詞に複数の読み方があることは珍しくありません。どちらが正しいかは誰にもわからないこともありますので、あまり気にしすぎない方がよいでしょう。
大仏殿の石垣
神社の周りには秀吉が築いた大仏殿の面影を今に伝える石垣を確認することができます。京都の人々にとっては今もここが、京都の街を復興させた秀吉をしのぶ聖地なのです。
こんなところがあったのか。
日本にも世界にも、唯一無二の「美」はたくさん。
秀吉はなぜ明神になったのか?
豊国神社(京都市観光協会公式サイト)
https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=1000182
豊国廟(京都市観光協会公式サイト)
https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=10&ManageCode=250
原則休館日:なし
※展示作品は、展示期間が限られているものがあります。
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