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荘子の「万物済同」

2023-08-26 11:28:00 | 中国哲学





【万物済同】 

 万物済同とは、もともと自然には区別などなく、すべての価値は等しいという意味です。しかし、現実の世界には区別があります。対立的な区別を生んでいるのは、人間の分別知です。事物は、それぞれ名づけられて、区別されているにすぎません。しかし、本来、世界は一つものであり、そこに区別などはなかったはずです。人間が世界を理解するために、仮にそのように区別しているにすぎません。

 世界とは、常に変化するものです。変化するものは、便宜上、すべて借りの名で呼ばれています。事物は、それぞれ違うように見えますが、もともと全て同じものです。もともと一つである万物には、区別などありませんでした。万物という全体は、言葉では、正しく表現出来ないものです。それぞれの事物は、言葉にしない限り、そこに区別は現れません。人間は、それらが、別々のものであるという慣習思考にとらわれた状態にあります。

 【自然と道】 

 自然の営みは、完全無欠であり、作為をしなくても全てを成し遂げます。意図的に何かをしようとしなくても、既に完成しているからです。この作為をしないことを「無為」と言います。自然とは、絶妙な平衡の上に成り立つ秩序です。本来、自然は、時間によっても区切られていませんでした。時間とは、あくまで、人間が区別してるにすぎないからです。それは、連続する一つのものとして、その過程は決まっています。自然の流れは、いわば一つの音楽のようなものです。その音楽には、始めと終わりがありません。また、その曲は常に同じものです。

 すべての現象は、道の働きによります。道とは、万物に共通している造化の根本原理です。その働きは、永遠に狂いがありません。道は、万物に行き渡っています。それ自身の本性に従い、絶え間なく活動を続ける永遠の循環運動です。それは、ずっと昔から存在しているのに少しも古くなりません。道は、自然の法則として、天体をも運行させています。 

 【気と生死】 

 生と死も、同じ連続の中にあり不可分です。それらは、相反するものではなく、むしろ依存関係にあります。生と死の違いは、気の集散にすぎません。荘子は、この世界は、ただ一つの「気」だとしました。気とは、自然界に充満する、活動的なエネルギーのようなものです。この気は、無くなることがなく、万物の一切を成り立たせています。すべてのものは、気の変化の一形式に過ぎません。死は、自然の変化にすぎず、むしろ生の始まりです。気が集まって人間となり、気が分散されて死にます。死は、肉体という束縛から自由にしてくれる休息のようなものです。人間も生命という仮の姿をとって、自然の流れによって尽きていきます。生は、何か特別なものではなく、一個の自然現象にすぎません。自然とは、同じ状態を保てないものです。そのため、常に変化していきます。

 【忘我】 

 本来、すべての事象は、自他の区別のない、ただ一つだけの出来事です。我を忘れ、主客が一体となった境地を「胡蝶の夢」と言います。万物とは、一つの夢のようなものです。 我を忘れれば、自分が蝶になった夢を見ているのか、蝶が人間になった夢を見ているのか区別がつかなくなります。自他の区別をしているのは、人間の分別知です。自然と人間が一体となった境地を「遊ぶ」と表現します。自然と遊ぶ者は、もはや変化するものには固執しません。




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