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気まぐれ本読み日記

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李陵

2023-07-18 18:03:17 | 中国史
『李陵・山月記』中島敦著 新潮文庫
この本は「李陵」「山月記」以外に「名人伝」「弟子」の2編が収録されています。
今回読んだ「李陵」は漢の将軍として匈奴に遠征して捕虜となった人物の話です。李陵の祖父・李広は飛将軍と呼ばれる名将で、司馬遷が史記の李将軍列伝の最後に「桃李もの言わざれども下自ら蹊を成す」という古いことわざを用いてほめたたえたことで有名な人物です。
この作品を読むと、ここまで悲劇的な歩みをたどる一家があることに同情を禁じえません。祖父の李広は、大将軍・衛青に到着が遅れたことを責められ、陣中で自らくびをはねて亡くなりました。李陵の叔父にあたる李敢はこのことで衛青をうらみ、その屋敷に赴いて衛青を辱めました。衛青はこのことを不問にしましたが、衛青の甥の驃騎将軍・霍去病がこのことを怒り、未央宮で開かれた皇帝主催の狩猟のときに李敢を射殺してしまったそうです。時の皇帝・武帝は事実を知りながら李敢は鹿の角に触れて死んだと発表しました。
李広や李陵の報われない話は決して単なる昔ばなしではなく、21世紀の現在でもあり得る話だと思います。
この作品で不思議だなと感じたのは、衛青や霍去病がなぜ大将軍や驃騎将軍になりえたかを全く説明していない点です。衛青の姉・衛子夫はトイレで武帝の寵愛を受け、皇子を生み皇后となったのはよく知られた話です。衛子夫皇后の身内ということで彼ら二人は出世をしたわけです。そして衛子夫皇后とその息子である皇太子劉拠は、武帝の晩年に巫蠱の乱と呼ばれる事件に巻き込まれ、母子ともに自殺に追い込まれました。武帝は讒言を信じて息子を殺してしまったことを悔やみつつ、息子の死から4年後に亡くなりました。
これらのことに全く触れていないのは、おそらく幸田露伴の『運命』と同じく皇室のスキャンダルに触れることになるからかもしれません。
この作品にはそういうことは書いてありませんが、李陵は武帝の晩年に起こった巫蠱の乱とその結果を恐らく聞いただろうと思います。それである程度、自分の恨みは晴らされたと思ったのではないでしょうか。そして漢を離れてよかったと思ったか、もう二度と思い出したくないと思ったかのどちらかのような気がします。
なお李陵の友人として霍光が出てきますが、作品ではあまり詳しく触れていません。おそらくは衛青や霍去病のことを詳しく触れなかったのと同じ理由でそうなったのかなと思います。霍光は霍去病の弟です。その縁で武帝に取り立てられ、武帝が亡くなる時には顧命大臣の一人になりました。霍光は昭帝が跡継ぎなく亡くなったので、昭帝の甥の劉賀を皇帝に推戴しました。ところが一か月もたたないうちに、皇帝にふさわしくないという理由で皇帝から引きずり下ろし、自分の従兄弟にあたる皇太子劉拠の孫の劉病己を皇帝に推戴しました。これらの故事から霍光は後世、中国や日本でキングメーカーの代名詞のように言われました。特に日本で平安時代に関白という官職が設けられましたが、その由来となったのは劉病己すなわち漢の宣帝が霍光に与えた詔書の文言だそうです。関白の別名を博陸といいますが、それは霍光が博陸侯の爵位を持っていたことに由来します。
以前に読んだことはあったのですが、改めて読み返すと、いろいろと新しい発見がありました。
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運命

2023-07-14 16:21:29 | 中国史
『運命』幸田露伴著
この作品は岩波文庫や講談社文芸文庫、kindle版では青空文庫でも読むことができます。
あらすじは、中国明王朝の洪武31年(1398)、明王朝の初代皇帝である洪武帝・朱元璋が崩御し、嫡長孫にあたる皇太孫・朱允炆が皇帝に即位し、明年を建文元年と定めます。建文帝には十数人に及ぶ叔父がいて、彼ら親王は全国各地の主要都市に配属されていました。その中で最年長でもあり最も有力でもあったのが現在の北京にいた燕王・朱棣でした。建文帝の側近である斉泰と黄子澄は、新帝の権威を高め治世を安定させるために、燕王をはじめとする諸王を取り潰す方針を打ち出します。
燕王の弟たちが次々に取り潰される中で、燕王は次第に不安を覚えます。しかし燕王の軍師・道衍和尚は燕王を皇帝にするために、王を励まし自重するように進言します。そして建文元年6月、斉泰と黄子澄が現地の官僚たちに燕王を逮捕するように命じたことが、燕王側に聞こえると、燕王は「君側の難を靖んじる」という大義名分を掲げ挙兵し、足掛け4年に及ぶ大乱が始まります。
首都南京の建文帝側は、はじめ多勢に無勢で燕王軍など物の数ではないと、たかをくくっていたところ連戦連敗し、北京の制圧をすることができませんでした。一方の燕王側も個々の戦闘で勝利は収めるものの、敵を撃退するのがやっとで、一気に南京を攻略できるほどの状況ではなく、戦況は一進一退を繰り返しました。そうこうするうちに建文帝の宮廷に仕える宦官たちが、日ごろ皇帝から厳しく扱われることを恨んで、燕王側に内通し、南京周辺の防衛体制が手薄になっていると知らせてきました。燕王は一か八かの大勝負に出て、軍を率いて北京からまっすぐに南京へ向かいました。途中、建文帝側の軍がいるところは避けて通り、とうとう南京を取り囲むこととなりました。建文帝側はこの間、全国に義勇兵を募りましたが、先の諸王を取り潰す政策が災いして、義勇兵は集まりませんでした。そして南京城の金川門を守っていた燕王の弟の谷王と曹国公李景隆が城門を開いて燕王軍を迎え入れ、燕王軍が勝利を収めました。建文帝は僧侶に姿を変え、流浪の旅に出ます。
この作品が大正8年に書かれたとき、谷崎潤一郎が激賞したという話をどこかで見ましたが、なんとなくわかるような気がします。それはなぜかというと、この作品が書かれた大正8年は西暦1919年です。2年前にロシア革命が起こって帝政ロシアが倒れ、前年には第一次世界大戦の終結に際してドイツ帝国とオーストリアハンガリー帝国が革命で消滅しました。それでなくとも日本政府は反天皇の動きを厳しく監視していたわけですから、こんな中国版の壬申の乱のような話を詳しく描くことはおそらく無理だったのではないでしょうか。したがって露伴としては、当局の検閲に引っかからない範囲で描かざるを得なかったんだと私は思います。
私の勝手な解釈でいうと、露伴は道衍を主人公に描きたかったんだと思います。それがわかる一文が物語の終わりのほうに出てきます。「我建文永楽の際に於て、驚く可きの一大小説の燕王幕裏の無名子によって撰せられたる記して以て人に贈り、題して運命といふ」親王に白帽子を載せて差し上げましょうというような僧侶の物語は当時の社会状況では無理だから、これがぎりぎりの表現なんだという作者の思いがよくわかりますし、だからこそ谷崎潤一郎もほめたのだと思います。私はこの作品によって、明代の歴史への興味が開かれました。
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周恩来秘録(上・下)

2023-07-09 15:27:06 | 中国史

『周恩来秘録(上・下)』高文謙著 上村幸治訳 文藝春秋

著者は中国共産党中央文献資料室に勤務していた周恩来の専門家です。著者の母はアヘン戦争で有名な林則徐の五代孫にあたり、文化大革命のとき、文革派権力者を批判したために、秦城監獄に7年間入ることになりました。その経験から著者に対して歴史の真実を知らせるように著者を励ましたそうです。そして、この本の出版を見ることなく亡くなったので、著者はこの本を母に捧げると冒頭に書いています。

この本は主に周恩来の晩年10年間に焦点をあてて書かれています。その期間は文化大革命の時期と一致します。

上巻では、まず最初に周恩来と毛沢東の出会いから描かれています。共産党入党は毛沢東のほうが早かったのですが、周恩来が1930年代には共産党軍の創設者として、また蒋介石の下で黄埔軍官学校政治部主任として国民・共産両党の将軍たちを育てたことで、党内での地位は周恩来のほうが上でした。そして1932年の寧都会議で毛沢東を失脚させました。その後約2年間にわたって毛沢東は党内で冷遇され、これが毛周二人の対立の始まりとなったようです。その後長征と呼ばれる大移動中に毛沢東が復権し、周恩来が病気で身動きできなくなったときに、周を軍のトップの座から引きずり下ろし、自分がトップに立ったそうです。周は毛の下で補佐する役目を受け入れたということです。

それから30年あまりのちに、文化大革命になって再び二人の対立が表面化したようです。上巻では劉少奇の失脚や林彪の台頭までが描かれ、下巻では1971年に起こった林彪事件から、1976年の周恩来死後の第一次天安門事件までが描かれています。

この本を読んでわかったことは、毛沢東と周恩来は意外と仲が良くなかったことです。特に晩年の十年間、毛沢東が標的にしていたのは実は周恩来だったのかなと感じたことです。「私的な行き来はほとんどなく」、「あくまでも仕事上の付きあいのみだった」ようです。

毛沢東が周恩来に手を焼いた様子を著者はこう表現しています。「毛沢東はその生涯において天下取りの戦に敵なしと自負してきた。蔣介石であろうが、党内の王明、彭徳懐、劉少奇、林彪にせよ、いずれも負かしてきた。スターリンですら取るに足らなかった。革命前夜の中央ソビエト区(根拠地)からずっと傍にいた周恩来を、毛沢東は何度も追い落とそうと考えた。だが、その都度、周は太極拳のような柔らかな動きで巧みに切り抜けた。これは一代の梟雄たる毛沢東にとって、どうにも納得のしがたいことだった。」

この二人の争いが国内の数千万人に及ぶ人々の命運を左右したわけですから、考えてみたら空恐ろしい感じがします。普通の神経ではとてもじゃないがこんな立場に立つのは無理だと思いました。

鄧小平が、後年文化大革命における周恩来の役割についてこう語ったそうです。「もし総理がいなかったら文化大革命の状況はさらに悪くなっていたということ。もう一つは、総理がいなかったら文化大革命はこんなに長引かなかったということ」

つくづく人間の業の深さを感じさせられた本でした。

 

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華国風味

2023-06-21 12:46:44 | 中国史

『華国風味』青木正児著 岩波文庫

著者は中国文学者で、他にも『江南春』などの著書があります。
この本では、中国の食べ物に関する話が中心になっています。
中国のことわざに「眉毛は耳毛に及ばず、耳毛は食い気に及ばず」というのがあり、眉毛が長い、耳毛が長いのはいずれも長寿の特徴ですが、それよりも年老いて食い気の盛んなのが一番良い長寿の特徴だそうです。
また中国の粉食には「餅(ピン)」と「餌(アル)」とがあり、餅は麦粉が原料の食べ物をいい、餌は米・黍・粟・豆など麦以外の穀物の粉が原料の食べ物をいうそうです。歴史的には餌のほうが古く、餅が出てからは餅が餌より優勢であったようです。わが国では、いわゆるもちに「餅」の字を当て、少なくとも奈良時代からそうなっていたそうです。今日でも何々餅と名がつく食べ物でも、小麦粉でできたものも米粉でできたものも両方ありますが、両方とも正しいことになります。
さらに米について中国では二種類あり、粟の皮をとったものを粱(りょう)と呼び、または小米ともいうそうで、稲の米を大米とよぶのを初めて知りました。
茶の話も出てきますが、中国でも元々は粉にした抹茶(末茶)だったようです。ところが明時代はじめの洪武24年(1391)に、民間から朝廷に献上する茶を末茶から葉茶にするように皇帝が命じたため、末茶が廃れて葉茶が盛んになったようです。その命令から100年ほどたつと、中国国内では末茶の存在すら忘れられていたそうです。14世紀から15世紀といえば日本でもようやく茶道が盛んになり始めたころであり、不思議といえば不思議ですが、はじめて知りました。
最後のほうに、京都の陶然亭という店の話が出てきますが、この店は現在も残っていて京都の北野白梅町のほうに移転したそうです。
 
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長安から北京へ

2023-05-18 14:03:28 | 中国史

『長安から北京へ』司馬遼太郎著 中公文庫

この本は、著者が1975年5月に、日本作家代表団の一員として、訪中した時の体験をもとに書かれたものです。

この著者の本は何冊か読みましたが、この本が、今までで一番感銘を受けたように思います。

たとえば、中国語のあいさつで你好(こんにちは)という言葉が使われますが、この言葉は中華人民共和国になってから使われだしたものそうで、それまでは、吃飯了嗎(めしを食ったか)というあいさつが一般的だったこと、あるいは革命的という言葉が、中国では大いに張り切ったというほどの意味であることなど、初めて知ることがたくさんありました。

特に一番感銘を受けたのは、春秋時代の名宰相管仲の言葉で、山の樹木と製鉄が一つのものだということを言って、そのために人工の山を作れと言っていることです。そうすると山に草が生え、10年たてば水が出てきて、それに従うように鉱物資源も生まれてくるということです。

今から二千年以上前に、こういうことがわかっていたとは、そして現代に至るまで、そういう教えを活かし切れていないことに、物事の難しさを感じました。

また、代表団は、北京図書館で四庫全書の原本を見ましたが、その本は前から北京にあったものではなく、河北省熱河にあったものを北京に移したということで、著者は詳しい経緯を聞くのを忘れたと残念がっていました。

四庫全書は完成した時に、北京に正本2部、副本1部が置かれて、瀋陽・熱河・揚州・鎮江・杭州に各1部正本が置かれました。熱河には清朝皇帝の避暑山荘があり、そこに正本が置かれていました。熱河は清朝末期から日中戦争時にかけて戦乱に巻き込まれることの多かったところですが、奇跡的に略奪にも遭わずに完全な形で残っていたそうです。

この文を読んで私がふと思い出したことがありました。それは何かというと、熱河には首に腫物ができる風土病があり、それに日本軍が悩まされたという話です。1932年3月に日本の陸軍参謀本部が作成した『熱河省兵要地誌』にもこの病気のことが記載され、原因不明で、この病気にかかったからと言って、特に健康を損ねるわけでもなかったそうで、よその土地に移ると治る人もいたそうです。地元民はこの病気にかかったことで太くなった首を自慢していたということです。

したがって熱河の風土病が、貴重な文化財を守ったのかなと感じました。

私も中国の歴史が好きで、そういう本をよく読んでいたつもりでしたが、この本を読んでみて、自分はまだまだ勉強不足だなと痛感しました。

 

 

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