『隋の煬帝と唐の太宗 暴君と名君、その虚実を探る』布目潮渢著 清水書院
この本を読んで初めて知ったのは、隋の煬帝と唐の太宗は血のつながった親戚であるということです。煬帝の母・独孤皇后と太宗の父方の祖母が姉妹だったそうです。従って太宗の父・唐の高祖と煬帝は従兄弟になります。そういう関係もあって、煬帝は歴史家から必要以上に悪く言われることになりました。また太宗の母・竇氏は北周王朝の創業者・宇文泰の孫娘でありました。
煬帝は父の文帝の側室と関係を結び、太宗は兄と弟を玄武門の変で殺した後、その妃を自分のものとしました。太宗の息子の高宗は、父の側室の一人だった則天武后を自分の后にし、高宗の孫の玄宗は息子の妃であった楊貴妃を自分の妃としました。そして太宗は煬帝の娘を自分の妃の一人に迎え、息子を作りました。隋・唐ともに北方の遊牧民の血が入っている王朝のせいか、それらしい習慣が現れています。
煬帝、太宗ともになぜ高句麗遠征にこだわったのか不思議な気がします。特に煬帝の場合、先代の高句麗遠征が失敗したから自分は成功させてやろうと力みかえって、それが国を滅ぼし、自分を滅ぼす結果となりました。隋、唐いずれにしても彼らの朝鮮半島への遠征は、いたずらに新羅を利する結果になっただけでした。太宗の次の高宗の代に、百済も高句麗も滅ぼしましたが、やがて唐の勢力も新羅によって朝鮮半島から追い出されてしまいました。煬帝、太宗ともに優れた能力の持ち主であったわけですから、彼らを手玉に取った新羅の外交力というのは大したものだなと思います。
太宗の失敗は、晩年に臣下の言うことを聞き入れなくなったことだと思います。なんとなく名君ぶるのに疲れて自分の我を押しとおすようになったのかなという気がします。長孫皇后が生んだ三人の男子のいずれが継いでも、皇室内で流血の事態になったと思います。現に太宗が一番穏やかであろうと選んだ高宗の時代、理由は様々ですが皇族が次々に命を落とす事態になりました。太宗が口を極めて煬帝の批判をしたのは、一つにはあんな末路はたどりたくないという思いから、もう一つはあれくらい自分の思い通りに国を動かしてみたいというあこがれの裏返しだったのかなと、この本を読んで感じました。