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気まぐれ本読み日記

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隋の煬帝と唐の太宗

2023-08-11 21:11:24 | 中国史

『隋の煬帝と唐の太宗 暴君と名君、その虚実を探る』布目潮渢著 清水書院

この本を読んで初めて知ったのは、隋の煬帝と唐の太宗は血のつながった親戚であるということです。煬帝の母・独孤皇后と太宗の父方の祖母が姉妹だったそうです。従って太宗の父・唐の高祖と煬帝は従兄弟になります。そういう関係もあって、煬帝は歴史家から必要以上に悪く言われることになりました。また太宗の母・竇氏は北周王朝の創業者・宇文泰の孫娘でありました。

煬帝は父の文帝の側室と関係を結び、太宗は兄と弟を玄武門の変で殺した後、その妃を自分のものとしました。太宗の息子の高宗は、父の側室の一人だった則天武后を自分の后にし、高宗の孫の玄宗は息子の妃であった楊貴妃を自分の妃としました。そして太宗は煬帝の娘を自分の妃の一人に迎え、息子を作りました。隋・唐ともに北方の遊牧民の血が入っている王朝のせいか、それらしい習慣が現れています。

煬帝、太宗ともになぜ高句麗遠征にこだわったのか不思議な気がします。特に煬帝の場合、先代の高句麗遠征が失敗したから自分は成功させてやろうと力みかえって、それが国を滅ぼし、自分を滅ぼす結果となりました。隋、唐いずれにしても彼らの朝鮮半島への遠征は、いたずらに新羅を利する結果になっただけでした。太宗の次の高宗の代に、百済も高句麗も滅ぼしましたが、やがて唐の勢力も新羅によって朝鮮半島から追い出されてしまいました。煬帝、太宗ともに優れた能力の持ち主であったわけですから、彼らを手玉に取った新羅の外交力というのは大したものだなと思います。

太宗の失敗は、晩年に臣下の言うことを聞き入れなくなったことだと思います。なんとなく名君ぶるのに疲れて自分の我を押しとおすようになったのかなという気がします。長孫皇后が生んだ三人の男子のいずれが継いでも、皇室内で流血の事態になったと思います。現に太宗が一番穏やかであろうと選んだ高宗の時代、理由は様々ですが皇族が次々に命を落とす事態になりました。太宗が口を極めて煬帝の批判をしたのは、一つにはあんな末路はたどりたくないという思いから、もう一つはあれくらい自分の思い通りに国を動かしてみたいというあこがれの裏返しだったのかなと、この本を読んで感じました。

 

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最後の宦官 小徳張

2023-08-02 17:37:38 | 中国史
『最後の宦官 小徳張』張仲忱著 岩井茂樹訳・注 朝日選書
小徳張は清朝の末期に西太后に仕えた宦官で、晩年の西太后の身の回りを取り仕切った人物です。小徳張は宮中の南府劇団に所属して役者の修業をするうちに、芝居好きの西太后に認められ頭角を現したということです。
この本では、西太后の晩年の様子がよくわかります。西太后は読書好きで頭もよい人でしたが、癇癪もちでしょっちゅう周りの宦官や女官たちをいじめていたそうです。食事のときなどは常にだれかを棒たたきにしないと気が済まなかったようで、棒たたきがなかった時などは、太陽が西から登ったとみんなで大喜びしていたようです。
西太后らが義和団事件で北京から西安に逃れたとき、西安の近くの潼関までたどり着いた時には周囲に水がなく、西太后や光緒帝など皇族たちは近くの民家でもらってきた水を飲み、宦官やその他の一行の面々は馬の小便を飲んでのどの渇きをいやしたそうです。また一行の食料用の肉類を運んでいた時に、突然鷹の群れに襲われ肉類を全部盗まれたこともあったようです
西太后は六十九歳の時に顔面神経痛で目と口がゆがんでしまい、中南海に泳いでいたウナギを取ってきてウナギの血を患部に塗っていたそうですが、結局治らず亡くなるまでの四年間は顔面神経痛のままだったそうです。
光緒帝が西太后によって幽閉されていた瀛台というところは、現在の中南海の太液池という池の中にある島だったそうです。
こんな上司に仕えてよく続くなと感心しますが、小徳張という人は若い時に自分で一物を切って宦官になったそうなので根性が違うんだなと思いました。
この本は本文の下に注釈が書いてありますが、詳しく書いてあり、私は本文よりそちらを楽しく読みました。
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馮道

2023-07-31 21:06:00 | 中国史

『馮道』礪波護著 中公文庫

馮道は、中国の五代十国時代(906-979)に5つの王朝に仕えた宰相です。唐王朝の滅亡から宋王朝による天下統一が完成するまで、中国は黄河流域を中心とする地域に5つの王朝(後梁・後唐・後晋・後漢・後周)が次々に興亡を繰り返していました。馮道はその中の後梁を除く残り4つの王朝に仕え、また北方から中国に攻め込んできた遼にも仕えました。そして位人臣を極め天寿を全うしました。

馮道は名門の生まれではなく、まだ貴族や家柄が幅を利かせた唐代の風潮が残る中、自分の才覚と運を頼みに世渡りをしました。彼は文官だったのですが、決して軍事面での活躍をしようとはしませんでした。唐代には「出でては将軍、入りては宰相」という政治家が多く、まして五代十国の動乱期には武力を持つ者が、自分の仕えている皇帝を倒して、自ら皇帝となることも珍しくありませんでした。彼の生涯を見てみると、よき理解者に恵まれています。後唐の明宗皇帝と後晋の高祖皇帝の二人が馮道のよき理解者となりました。

馮道が後世最も批判されているのは、仕える君主を次々と変えていったことですが、自分はその時々で最善を尽くして、不正な財宝を蓄えることなく質素な暮らしに終始していたのであれば決して非難されるべきことではないと思います。自分の身を犠牲にして国に忠節を尽くしたところで国が滅びてしまえば意味がないわけですから、このことは遠い昔の話ではなく現代においても馮道のような生き方は一つの見本になるのではないかと感じました。

また馮道が提唱して実現した四書五経の木版印刷事業はその後の中国の印刷物の発展に大きな貢献をし、それは中国のみならず我が国にも大きな影響を及ぼしたことを思えば、もっとこの人の評価が高まっても決して不思議ではないなと思いました。


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偉大なる王

2023-07-25 16:15:16 | 中国史
『偉大なる王』ニコライ·A·バイコフ著 今村龍夫訳 中公文庫
この本は、中国の吉林省にいた王(ワン)と呼ばれた虎の物語です。額の上に王の字が入った模様があったのでそう呼ばれました。
この虎は、現在の北朝鮮と中国の国境にある白頭山に住む虎の子孫だったそうです。
密林の王者となったワンは、森林を次々に伐採し、自分たちの住処や餌場を破壊していく人間に対して立ち向かうことを決意し、森林伐採している人間のところに現れては、人間や犬や馬を次々に殺して食べていきます。
人間もこれに対してワンを倒すべく執拗に密林を追いかけます。密林で長く漁師をしていたトンーリ老人は、現在密林で起こっている出来事は山の神の人間に対する怒りであり、太古の昔から伝わる密林のおきてに従えば、誰かが山の神の化身であるワンのいけにえにならなければならないと考え、自分がいけにえになる決心をしてワンのところに向かいます。
老人がワンと出会ったとき、ワンは若い猟師を倒したところでした。しかしワンもまた猟師の放ったダムダム弾にあたり弱っていました。ワンは老人に襲い掛かることなくどこかへ去っていきました。老人はワンの足跡をたどり長年のカンを信じて、ついに山の岩場に横たわるワンを見つけました。その姿はまるで眠っているようでした。老人が近づいてよく見ると、ワンは亡くなっていました。老人は一日中ワンの死体のそばにいました。そして朝日が昇る頃、老人は山を下り密林の奥深くに消えていきました。
吉林省・黒竜江省・遼寧省は清王朝発祥の地であったことから、清朝の時代には当初漢民族などの入植を許さなかったので、自然環境を維持してきましたが、19世紀後半から清朝の衰退と欧米列強の中国進出が重なり、この地域にも開発の波が押し寄せてきました。日清戦争後、ロシアが清朝の許可を得て東清鉄道を作りましたが、この話はおそらく東清鉄道を作っていた時期のことだと思われます。
この本の中にこういう一節があります。
「ノコギリの金切り音、斧の打撃音、馬を追い立てる御者の叫び声が、世界創造からつづく処女のように清い空気を、無残にも引き裂いた。密林はうめいた。紅松が深い傷口から流す大粒の樹脂の涙は、幹に伝わり、やわらかくて冷たい雪の上にとめどもなく落ちた。こうして、密林が自分の運命の終幕を訴えながら、歌うお別れの歌は、無関心とさえ思える冷淡な大空の下で悲しく響いた。」
こういう作品を読むと、自然と人間の共存がうまくできないものなのか考えさせられます。
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中国悪党伝

2023-07-24 22:37:17 | 中国史
『中国悪党伝』寺尾善雄著 旺文社文庫
この本では来俊臣・安禄山・朱全忠・秦檜・魏忠賢・和珅・袁世凱の七人の悪党が描かれています。
来俊臣は則天武后の側近として、反対派の粛清に尽力した人物です。
安禄山は唐王朝を大混乱に陥れた安史の乱の主人公です。
朱全忠は唐王朝を滅ぼして梁王朝を作った人物です。
秦檜は南宋王朝の宰相として、金王朝に対する主戦論を抑えつけ南宋王朝の確立に尽力した人物です。
魏忠賢は明代末期の宦官で、自らを九千歳と呼ばせ権勢を極めました。
和珅は清代全盛期の乾隆時代に、国家予算の10倍にのぼる金銀財宝をため込んだ人物です。
袁世凱は清王朝滅亡後、自ら皇帝になろうとした人物です。
おそらくこの中で自然死できたのは秦檜くらいでしょう。袁世凱は急死ということですが、毒殺説もあるので真相はわかりません。
みなそれぞれ個性的というか、中国史上悪党と呼ばれるにふさわしい人物ですが、彼らの場合、どこかで大きな失敗をしでかしたために後世から悪党と呼ばれるはめになったのかなと、この本を読んで感じました。
来俊臣は則天武后なら必ず自分を守ってくれると過信していたような節があります。
安禄山・朱全忠は息子の嫁に手を付けて彼らの恨みを買う羽目になりました。秦檜は国家のためを思ってとはいえ、あまりにも強引なやり方で岳飛を葬って自分が栄耀栄華を極めたことで人々の余計な恨みを買ってしまったところがあります。
魏忠賢・和珅の二人は自分たちの権勢がその皇帝一代限りのものであることに気付くのが遅すぎました。
袁世凱は、欧米列強という中国四千年の歴史にそれまで登場しなかった勢力がいたので、自分が皇帝になることが如何に時代にそぐわないことかという理解が足りなかったように感じます。
彼らの歴史は、結局は物事には限度があること、天を恐れ地を敬うことの大切さを我々に訴えているような気がしました。

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