『世界各国史1 イギリス史(新版)』大野真弓編 山川出版社
この本は、古代から現代に至るまでのイギリス・アイルランドの歴史と、アメリカ・カナダ・オーストラリアなどのイギリス植民地の歴史を解説しています。
この本によると、イギリスは大陸棚上の島で、周囲の海は水深200m以下の浅い海だそうです。また、緯度からいえば北樺太に等しいのですが、メキシコ湾流の影響によって意外と暖かいそうです。ロンドンと東京を比べた場合、1月の平均気温はロンドンの方が1℃暖かく、逆に7月はロンドンの方が10.6℃涼しいということです。
『ヴィクトリア女王 上・下』スタンリー・ワイントラウブ著 平岡緑訳 中央公論社
この本は、19世紀の大英帝国繁栄の象徴的な存在であるヴィクトリア女王の81年にわたる生涯をたどった伝記です。国王としてのみならず、一人の女性として強烈な個性を貫いたその生きざまは、ただただ感銘を受けます。この本では、また女王を取り巻く人々が生き生きと描かれており、その点でも興味深い内容になっています。
この本は、上下巻合わせて900ページを超える分厚さで、結構な分量があります。そしてウィキペディアのヴィクトリア女王の記述の出典になっている部分も多々あるので、自分が興味深いなと思った部分を紹介していきます。
この本によると、ヴィクトリア女王は動物虐待の罪で実刑を言い渡された囚人に対し、特赦を与えることを拒否したそうです。その理由として女王は動物虐待行為について「人間性にそなわる最悪の特性」と考えていたからだそうです。また女王は動物実験にも反対だったようで、覚書につぎのような一文を残しているそうです。「この件で私は、『動物殺しの輩ども』に、胸が隅々まで煮えくりかえる思いをさせられている。」
昨年の9月8日に、エリザベス女王がスコットランドのバルモラル城で崩御しましたが、9月8日というのは1848年にヴィクトリア女王夫妻がはじめてバルモラル城を訪れた日であることが、この本によってわかりました。
バルモラル城はヴィクトリア女王夫妻が買い上げて以降、今日に至るまで王室の離宮となっています。
ヴィクトリア女王がこの城を気に入った理由は、山の空気が本人が言うところの「胸がすくように清々しかった」、言い換えると寒かったからだそうです。ヴィクトリア女王は部屋の適温は15.5℃以下がよいと考えていたくらい寒さに強かったので、部屋の暖炉がついているのが気に入らず、「彼女の視界に入る暖炉は、一基たりとも炎をあげて燃え盛ってはいけなかった」そうで、夫のアルバート公とは暖炉の事で夫婦げんかになっていたそうです。
1848年に購入したバルモラル城は手狭で、土地を広げようにも王室の財政難で思うように土地を買い取ることはできませんでした。
ところが1852年になって、「けちんぼニールドさん」という不思議な人物が、遺言で自分の全財産を女王に遺贈したため、土地の買い取りができるようになりました。
「けちんぼニールドさん」の本名はジョン・カムデン・ニールドといい、父親のジェームズ・ニールドは1812年に『監獄の実状』という本を出版した裕福な素人社会学者だったようです。この本にはジェームズ・カムデン・ニールドとありますが、ウィキペディア英語版ではジョン・カムデン・ニールドとなっていたので、より詳しい情報が載っていたウィキペディア英語版のほうが正しいように思います。
ウィキペディア英語版によると、ジョン・カムデン・ニールドはイートン校、ケンブリッジ大学を卒業後、法廷弁護士になっていたようです。1814年に推定25万ポンドとされる父親の財産を相続しました。その財産の大部分はロンドン周辺の諸州にまたがる広大な土地でした。彼自身はロンドンのチェルシーにあるシェーンウォーク5番街に住んでいましたが、彼は自分の服を手入れせず、絶えず自分の地所を訪れるため可能な限り歩き、そこの借地人たちと交流をしていました。1828年に彼はバッキンガムシャーのノースマーストンにいたときに、自分ののどを切って自殺しようとしましたが、居合わせた借地人の妻であるニール夫人によって救助されたそうです。1852年8月30日に彼はシェーンウォーク5番街の自宅で亡くなりました。亡くなったとき、家の中は蜘蛛の巣だらけで、遺品として残されていたのは「一枚の板切れを乗せただけの寝台と、わずかばかりの古ぼけた家具類、それに獣脂を燃やす蠟燭一本に猫一匹だった。」そして父から相続した25万ポンド相当の土地がそのまま残っていて、そのすべてを女王に遺贈しました。女王は「自分が「無駄使いしない」ことを、ニールドは知っていたのだ」と言ったそうです。女王はニールドの自殺を防いだニール夫人に100ポンドの年金を与え、ニールドの使用人にも遺贈分から何らかの分配を行うとともに、ニールドの遺贈分を利用してバルモラル城や、ワイト島のオスボーン館の拡張工事・周辺の土地買収を行ったそうです。
ウィキペディア英語版では、ジョン・カムデン・ニールドをイギリスの守銭奴と紹介しています。彼との比較で、ダニエル・ダンサーという18世紀のイギリス人や、ヘティ・グリーンという20世紀初頭にいたアメリカ人女性が紹介されていました。ヘティ・グリーンはウォール街の魔女とかウォール街の女王という異名で呼ばれていたそうです。これらの人々のことを初めて知りました。
ジョン・カムデン・ニールドがなぜ極端に質素な生活を行い、自殺を試みたのかは謎ですし、人生の最後に何を思ったかはわかりません。。彼の行為が世の中に何ほどの貢献をしたのかはわかりません。しかし彼は全財産をヴィクトリア女王に遺贈することによって、後世にその名を残し、また女王も彼の期待に応えて、関係者に然るべき処遇を行いました。私はこの本を通して、世の中にはこういう人がいて、他人に迷惑さえかけなければ、こんな生き方もあるんだという実例を学びましたし、この本を読まなければ、こんな人物がいたことも知らずじまいに終わったことでしょう。昔のことわざに無用の用という言葉がありますが、その意味はこういうことを指すのかなと思って、こういう本に出会えたことに感謝する次第です。
また、この本を読んで初めて知りましたが、クリスマスの風習がイギリスに定着したのは、ヴィクトリア時代になってからだそうです。ジョージ3世のころから、王室の内輪の祝い事としてドイツ風クリスマスを祝っていたそうですが、アルバート公が自分の故郷であるドイツのコーブルグからクリスマスツリーに使う木を取り寄せて、クリスマスを国民的行事に盛り立てたそうです。ちなみにわが国でクリスマスが広まったのは、大正天皇が大正15年12月25日に崩御し、その後12月25日が大正天皇祭という祭日になったからだと言われています。クリスマスを祝う習慣が意外に歴史の浅いものなんだということに驚きでした。
『最高の議会人グラッドストン』尾鍋輝彦著 清水新書
この本の主人公ウィリアム・エワート・グラッドストン(1809~1898)はイギリスのヴィクトリア時代を代表する政治家の一人であり、自由党の創設にかかわり、4回にわたって首相となりました。最後の首相になったのは82歳のときで、これは今日に至るまでイギリス首相就任時の最年長記録となっています。ちなみに日本での首相就任時の最年長記録は鈴木貫太郎で77歳のときでした。
グラッドストンの父親は奴隷商人でした。グラッドストンの好敵手となったベンジャミン・ディズレーリ(1804~1881)はユダヤ人でした。奴隷商人の息子とユダヤ人の小説家が、大英帝国の黄金時代と呼ばれるヴィクトリア時代を牽引したというのは不思議な感じがします。当時はまだ貴族全盛の時代で、ヴィクトリア時代で彼ら以外の首相は全員貴族でした。
そして彼らの活躍を見守ったヴィクトリア女王夫妻はそれぞれ違う政治家に肩入れしたというのも興味深いと思いました。女王の夫であるアルバート公は、グラッドストンの政治的師匠であったサー・ロバート・ピールを信頼していた関係でグラッドストンにも好意的でした。逆にディズレーリに対しては、1846年の第二次ピール内閣の穀物法改正の際に、ディズレーリが自党のピール首相に対する反対運動を展開してピール内閣を総辞職に追い込んだことから、嫌っていました。しかし、アルバート公は彼ら二人が首相になる前の1861年に亡くなりました。すると夫の生前は両者に対して好悪の意思表示をしなかった女王が、夫の死後にはディズレーリをひいきにするようになり、逆にグラッドストンをあからさまに嫌うようになりました。さすがにこの本ではそこまで書いていませんが、ヴィクトリア女王がグラッドストンを嫌った理由の一つに、「グラッドストンは、まるで女王を「公的寄り合いの場」であるかのような手紙の書き方をいつもしてくる、と彼女はかつて述べたことがあった」(『ヴィクトリア女王』スタンリー・ワイントラウブ著 平岡緑訳 中央公論社 下巻89ページ)そうです。グラッドストンの生真面目さ、堅苦しさが災いしていたようです。
グラッドストンは晩年、グランド・オールド・マン(偉大なる老人)と呼ばれ、1898年に亡くなると国葬になりました。それ以降イギリスの首相経験者で国葬となったのはウィンストン・チャーチルだけでした。こういう政治家は現在にはいないのだろうなと、この本を読みながら思いました。