『櫟翁稗説(れきおうばいせつ)・筆苑雑記』李斉賢・徐居正著 梅山秀章訳 作品社
櫟翁稗説は高麗末期の宰相だった李斉賢(1288ー1367)の随筆です。筆苑雑記は李朝初期の政治家だった徐居正(1420ー1488)の随筆です。2冊をひとまとめにしたこの本は朝鮮半島の歴史を知るうえで非常に興味深いだけでなく、日本や中国の歴史についても興味深い記述があります。
櫟翁稗説によると、新羅時代に新羅王は「麻立干(まりはん)」と呼ばれていましたが、麻立とは棒杭のことで、新羅の初期に王と臣下が集まって話をするときに、王のところに棒杭を立てたのが由来となっているそうです。そして干は敬称だそうです。はんという敬称は日本でも京都が何々はんという言い方をします。ひょっとして新羅と京都はつながっていたのかなと思いました。新羅の第四代国王・脱解王は倭国の東北一千里離れた多婆那国の生まれとされ、多婆那国は丹波や但馬、蝦夷といろんな説があるようですが特定されていないそうです。そして脱解王を補佐した瓠公という人物は日本人だったそうです。新羅は別名鶏林といいますが、その名前ができたのは脱解王のときでした。また日本の新撰姓氏録という本によると、神武天皇の兄の稲飯命が新羅国王の祖であると記されているそうです。新羅の建国に日本人がかかわっていたということは、我々の持っている古代史の知識が一層混乱することではありますが興味深い話でもあります。
櫟翁稗説は高麗末期に書かれたので、元に関する事柄も結構出てきます。元の第四代皇帝・仁宗は世祖フビライの曾孫にあたりますが、仁宗のときに、鮮卑族の僧侶がチベットの名僧パスパの功績を称えて、中国全土でパスパを祀るよう皇帝に請願しました。仁宗は早速パスパを中国全土で祀るよう指示しましたが、そのとき元の宮廷にいた高麗第26代国王の忠宣王がパスパと孔子を一緒にするなと反対したそうです。高麗は建国以来仏教を厚く保護した国ですし、元の宮廷で生まれ育った忠宣王ですが、チベット仏教にはさほど親近感を持っていなかったというのは興味深い話だなと思いました。忠宣王の母はフビライの娘で、仁宗の父ダルマパラやダルマパラの弟で元の第二代皇帝・成宗とは従兄弟になります。この時の反対が災いしたのか1320年、仁宗の息子で元の第五代皇帝・英宗のときに忠宣王は3年間チベットに配流されたそうです。英宗が殺害され、妻の弟でフビライの曾孫だった泰定帝が元の第六代皇帝になったときに許されて大都に戻り、大都で亡くなったということです。
李斉賢がなぜ櫟翁稗説という書名にしたかについて、つぎのように説明しています。
そもそも「櫟」(くぬぎ)という字の音は「楽」である。その理由というのは、材木としては役に立たず、棄てたところで害を遠ざけるだけのことで、木としては気ままな境涯で楽しいかぎりだから、「櫟」というのである。私は一時、官職に就いたが、それをみずから辞めて、拙いわが身を養った。そのとき、櫟翁と名乗ったが、それは材木としては役立たずだが、かえって長生きできるようにと望んだためである。「稗」(ひえ)もまた「卑」の音で読む。その意味を考えるに、「稗」は「禾」(いね)の中でも低いものというのであろう。私は若い時分に本を読むことを知ったが、壮年になって学問を止め、今やすっかり年老いてしまった。読み返してみると、まことに雑駁な文章を気楽に書きためたものだが、実りがなく、卑賎であることは稗と同じである。そこで、この書きためた文章を『櫟翁稗説』と名づけたのである。
私もブログで日々拙い文章を作っていますが、とにかく続けられるだけ続けてみようと、この本を読んで、その思いを強くしました。
『韓国の族閥・軍閥・財閥 支配集団の政治力学を解く』池東旭著 中公新書
この本は、韓国と北朝鮮の族閥、軍閥、財閥の外、文化や風俗についてもわかりやすく解説してあります。
この本で初めて知りましたが、韓国人は外国語習得にたけているようで複数の外国語を操る人が珍しくないそうです。また韓国の姓氏の数は260余りだそうで、そのうち金・李・朴・崔・鄭の五大姓が人口の約54%を占めているそうです。韓国の民法では同姓同本の男女の婚姻が禁止されているそうです。同本とは同じ本貫という意味で、本貫とは始祖の意味だそうです。例えば金氏でも安東金氏や金海金氏、慶州金氏などがありますが、この三つの金氏は同じではないので、安東金氏と金海金氏であれば同じ金氏でも結婚できるそうです。また韓国人の間では日記のような記録をほとんど残さないそうです。それは保身術だそうです。そうしないと、後で追及されたときに記録が証拠となってしまうからだそうです。だから今でも政治家や財界人はメモを書かないし残さないそうです。
そして日本の統治下にあったころ、朝鮮半島で作ったコメは全部日本に輸出され、朝鮮人は豆粕やコーリャンしか食べられなかったそうです。日本の支配に対する韓国人の恨みには、食べ物の恨みも大きかったそうです。
また韓国の初代大統領となった李承晩について、自身が黄海道の出身であることから黄海道出身者で側近を固めたそうです。黄海道は北朝鮮の領土ですから韓国の領土で生まれ育った人からすれば、わだかまりはあったことが想像できます。そして李承晩は李朝の王族である譲寧大君の子孫だったそうです。譲寧大君は李朝初期の有名な王族で、韓国の時代劇ドラマにもよく登場します。李朝第3代国王の太宗の長男にあたり、最初は王世子として将来を嘱望されていました。ところがよくわからない理由で王世子を廃嫡され、弟の忠寧大君が王世子となりました。これが後の世宗大王です。譲寧大君はその後、世宗大王より長生きして悠悠自適の生涯を送りました。しかし子孫にしてみれば、こちらのほうが世宗大王の子孫より血筋が上だと思っていたかもしれません。ちょうど徳川時代の越前松平家のような感じだったのかもしれません。李承晩はプライドの高い人物だったそうですが、そういう理由もあったのかと、初めて知りました。