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気まぐれ本読み日記

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慵斎叢話

2024-08-20 14:24:49 | 韓国・朝鮮史
『慵斎叢話』成俔著 梅山秀幸訳 作品社
著者の成俔(ソン・ヒョン)は李朝の成宗・燕山君時代の政治家で、現在の慶尚南道にあたる昌寧の名族・成氏の一員です。一族に数多くの高官を輩出し、自身も工曹判書の要職に就きました。また音楽に詳しかったので『楽学規範』という音楽書を編纂しています。
この本は、有名人のエピソード等自分が見聞きしたことをまとめたものです。
この本によると、ソウルと開城以外で、古代から都の置かれた町が紹介されています。
金海・・・金官国 南原・・・帯方国 江陵・・・臨瀛国 春川・・・穢貊国
慶州・・・新羅国 平壌・・・高句麗国 成川・・・松譲国 扶余・・・百済国
鉄原・・・泰封国 全州・・・後百済国
また、この本には、この当時の有力な豪族が紹介されています。
坡平(パピョン)尹氏・漢陽(ハンヤン)趙氏・利川(イチョン)徐氏・驪興(ヨフン)閔氏・水原(スウォン)崔氏・陽川(ヤンチョン)許氏・徳水(トクス)李氏・幸州(ヘンジュ)奇氏・交河(キョハ)盧氏・仁川(インチョン)李氏・仁川蔡氏・南陽(ナンヤン)洪氏・龍駒(ヨンク)李氏・竹山(チュクサン)朴氏・竹山安氏・陽城(ヤンソン)李氏・広州(クァンジュ)李氏・江華(カンファ)奉氏・清州(チョンジュ)韓氏・清州慶氏・瑞山(ソサン)柳氏・瑞山韓氏・瑞山李氏・全義(チョンウィ)李氏・丹陽(タンヤン)禹氏・新昌(シンチャン)孟氏・沃川(オクチョン)陸氏・慶州(キョンジュ)金氏・慶州李氏・金海(キムヘ)金氏・金海李氏・安東(アンドン)金氏・安東権氏・晋州(チンジュ)姜氏・晋州河氏・星州(ソンジュ)李氏・尚州(サンジュ)金氏・密陽(ミルヤン)朴氏・密陽孫氏・青松(チョンソン)沈氏・昌寧(チャンニョン)成氏・昌寧曹氏・霊山(ヨンサン)辛氏・高霊(コリョン)申氏・東莱(トンレ)鄭氏・河東(ハドン)鄭氏・延日(ヨニル)鄭氏・河陽(ハヤン)許氏・漆原(チルウォン)尹氏・順興(スンフン)安氏・宜寧(ウィリョン)南氏・善山(ソンサン)金氏・完山(ワンサン)李氏・光山(クァンサン)金氏・羅州(ナジュ)朴氏・羅州羅氏・長水(チャンス)黄氏・順天(スンチョン)朴氏・綾城(ヌンソン)具氏・霊光(ヨングァン)丁氏・礪山(ヨサン)宋氏・済州(チェジュ)高氏・海州(ヘジュ)崔氏・平山(ピョンサン)申氏・延安(ヨンアン)李氏・白川(ペクチョン)趙氏・文化(ムンファ)柳氏・信川(シンチョン)康氏・原州(ウォンジュ)元氏・江陵(カンルン)崔氏・江陵咸氏・平壌(ピョンヤン)趙氏・咸従(ハムジョン)魚氏・豊川(プンチョン)任氏
この中で完山李氏は全州李氏とも言われ、李氏朝鮮王朝の王室となった一族です。また、坡平尹氏はこの時代の前後に5人の王妃を輩出し、16世紀には坡平尹氏が政治の実権を握った時代がありました。尹錫悦・現韓国大統領も坡平尹氏の一員だそうです。
この本で初めて知ったことの中に、倭料ということばがあります。これは対馬の人で朝鮮の官職を得た人々が年一回朝鮮にやってくるときに、朝鮮側から与えられる米穀のことだそうです。対馬の人々は五十隻の船を連ねてやって来て二か月間妻子とともに滞在するそうです。そのため、慶尚南道の米穀の半分以上は彼らによって消費されたそうです。
朝鮮半島の歴史に関する本が少ない中で、こういう本は貴重だなと感じました。
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櫟翁稗説・筆苑雑記

2023-08-15 10:44:08 | 韓国・朝鮮史

『櫟翁稗説(れきおうばいせつ)・筆苑雑記』李斉賢・徐居正著 梅山秀章訳 作品社

櫟翁稗説は高麗末期の宰相だった李斉賢(1288ー1367)の随筆です。筆苑雑記は李朝初期の政治家だった徐居正(1420ー1488)の随筆です。2冊をひとまとめにしたこの本は朝鮮半島の歴史を知るうえで非常に興味深いだけでなく、日本や中国の歴史についても興味深い記述があります。

櫟翁稗説によると、新羅時代に新羅王は「麻立干(まりはん)」と呼ばれていましたが、麻立とは棒杭のことで、新羅の初期に王と臣下が集まって話をするときに、王のところに棒杭を立てたのが由来となっているそうです。そして干は敬称だそうです。はんという敬称は日本でも京都が何々はんという言い方をします。ひょっとして新羅と京都はつながっていたのかなと思いました。新羅の第四代国王・脱解王は倭国の東北一千里離れた多婆那国の生まれとされ、多婆那国は丹波や但馬、蝦夷といろんな説があるようですが特定されていないそうです。そして脱解王を補佐した瓠公という人物は日本人だったそうです。新羅は別名鶏林といいますが、その名前ができたのは脱解王のときでした。また日本の新撰姓氏録という本によると、神武天皇の兄の稲飯命が新羅国王の祖であると記されているそうです。新羅の建国に日本人がかかわっていたということは、我々の持っている古代史の知識が一層混乱することではありますが興味深い話でもあります。

櫟翁稗説は高麗末期に書かれたので、元に関する事柄も結構出てきます。元の第四代皇帝・仁宗は世祖フビライの曾孫にあたりますが、仁宗のときに、鮮卑族の僧侶がチベットの名僧パスパの功績を称えて、中国全土でパスパを祀るよう皇帝に請願しました。仁宗は早速パスパを中国全土で祀るよう指示しましたが、そのとき元の宮廷にいた高麗第26代国王の忠宣王がパスパと孔子を一緒にするなと反対したそうです。高麗は建国以来仏教を厚く保護した国ですし、元の宮廷で生まれ育った忠宣王ですが、チベット仏教にはさほど親近感を持っていなかったというのは興味深い話だなと思いました。忠宣王の母はフビライの娘で、仁宗の父ダルマパラやダルマパラの弟で元の第二代皇帝・成宗とは従兄弟になります。この時の反対が災いしたのか1320年、仁宗の息子で元の第五代皇帝・英宗のときに忠宣王は3年間チベットに配流されたそうです。英宗が殺害され、妻の弟でフビライの曾孫だった泰定帝が元の第六代皇帝になったときに許されて大都に戻り、大都で亡くなったということです。

李斉賢がなぜ櫟翁稗説という書名にしたかについて、つぎのように説明しています。

そもそも「櫟」(くぬぎ)という字の音は「楽」である。その理由というのは、材木としては役に立たず、棄てたところで害を遠ざけるだけのことで、木としては気ままな境涯で楽しいかぎりだから、「櫟」というのである。私は一時、官職に就いたが、それをみずから辞めて、拙いわが身を養った。そのとき、櫟翁と名乗ったが、それは材木としては役立たずだが、かえって長生きできるようにと望んだためである。「稗」(ひえ)もまた「卑」の音で読む。その意味を考えるに、「稗」は「禾」(いね)の中でも低いものというのであろう。私は若い時分に本を読むことを知ったが、壮年になって学問を止め、今やすっかり年老いてしまった。読み返してみると、まことに雑駁な文章を気楽に書きためたものだが、実りがなく、卑賎であることは稗と同じである。そこで、この書きためた文章を『櫟翁稗説』と名づけたのである。

私もブログで日々拙い文章を作っていますが、とにかく続けられるだけ続けてみようと、この本を読んで、その思いを強くしました。

 

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朝鮮王朝史(下)

2023-08-07 19:09:44 | 韓国・朝鮮史
『朝鮮王朝史(下)』李成茂著 李大淳監修 金容権訳 日本評論社
顕宗の後を継いだのは、13歳の長男でした。これが第十九代国王粛宗です。
粛宗は在位46年、60歳で亡くなりました。粛宗の亡きあと、長男の世子が後を継ぎました。第二十代国王·景宗です。
景宗は子供がなく弟の延礽君を世弟としました。そして在位4年、36歳で景宗が亡くなると、世弟は後を継ぎました。第二十一代国王·英祖です。
英祖は朝鮮王朝の中で最も長命の国王で82歳まで生きました。在位期間も52年と歴代国王の最長記録でした。しかし、長男の思悼世子と対立し、何と世子を米びつに閉じ込め餓死させるという悲劇に至りました。英祖は思悼世子の長男を世孫とし、自分の後継者としました。英祖が亡くなると、世孫が王位に即きました。第二十二代国王·正祖です。
正祖は在位24年、49歳で亡くなりました。正祖の後を継いだのは彼の次男で、これが第二十三代国王·純祖です。
純祖は在位34年、45歳で亡くなりました。純祖の後を継いだのは彼の孫にあたる第二十四代国王·憲宗です。
憲宗は子供がないまま在位15年、23歳の若さでこの世を去りました。憲宗には兄弟がおらず、純祖の従兄弟にあたる全渓君の三男で江華島に配流されていた李元範を跡継ぎに迎えることとなりました。これが第二十五代国王·哲宗です。
哲宗も子供がないまま在位14年、33歳の若さで世を去りました。
哲宗も近い血筋の王族はおらず、正祖の弟のひ孫にあたる興宣君の次男が後を継ぎました。これが第二十六代国王・高宗です。1897年に国号を大韓帝国と改め、皇帝に即位しましたので大韓帝国初代皇帝にもなります。 1907年、高宗は在位44年で譲位し高宗の次男の皇太子が即位しました。大韓帝国第二代皇帝で最後の皇帝でもある純宗です。1910年8月、日韓併合条約が調印され、大韓帝国は消滅しました。
朝鮮王朝500年の歴史がよくわかる本でした。




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朝鮮王朝史(上)

2023-08-06 22:46:21 | 韓国・朝鮮史
『朝鮮王朝史(上)』李成茂著 李大淳監修 金容権訳 日本評論社
朝鮮王朝はまたの名を李氏朝鮮とも言います。古代の朝鮮半島には他に箕氏朝鮮、衛氏朝鮮という二つの朝鮮と名の付く王朝がありました。ただこの二つの王朝についてはあまりよくわかっていないので、朝鮮王朝といえば李氏朝鮮のことをいうようです。
高麗王朝後期の1170年、王朝に仕える武人である李義方、鄭仲夫らがクーデターを起こし、時の国王を退位させ新たな国王を擁立しました。クーデターの首謀者の一人である李義方の弟が朝鮮王朝を創業した李成桂の先祖にあたります。李義方はクーデターの5年後、鄭仲夫に殺されましたが、弟は助かって子孫が続いていたようです。
高麗王朝は武人政権が100年ほど続いた後、元の完全な属国となっていましたが、元の末期に中国で紅巾の乱が起り、その混乱が高麗にも及んでくると、また武人の権力が増大してきました。そんな中で李成桂は勢力を拡大しました。親元派の国王の命令で、元王朝を倒した明王朝へ軍を率いて遠征に行く途中で、引き返して高麗の首都・開城に入城し、高麗王朝を倒して朝鮮王朝を創業しました。李成桂は朝鮮王朝初代国王・太祖と後世呼ばれるようになります。李成桂は都を開城から漢陽、現在のソウルに移しました。
李成桂が国王になる前に亡くなった先妻との間にできた息子たちは既に成人していました。しかし李成桂は後妻との間にできた息子を後継者にしようと考えます。そのため先妻の息子たちと李成桂は次第に対立するようになり、先妻の息子の一人の李芳遠が挙兵し、後妻の息子たちとそれを支持する宰相の鄭道伝を殺害し、父王を退位させて、芳遠の兄・芳果を二代目国王にしました。この王はのちに定宗と呼ばれています。そして定宗の譲位により芳遠は国王となります。第三代国王・太宗です
太宗には複数の息子がいましたが、当初は長男を王世子として跡継ぎにしていました。ところが世子が素行不良のため廃嫡し、三男の忠寧大君を世子としました。忠寧大君は太宗の譲位を受けて第四代国王となりました。これがハングルの創始者・世宗大王です。太宗・世宗の時代が朝鮮王朝の全盛期でした。
世宗には嫡出の息子が数多くいましたが、長男の世子は体が弱く、次男の首陽大君、三男の安平大君が有力者と目されていました。
世宗が在位32年で亡くなると、長男の世子が跡を継いで国王となります。第五代国王・文宗です。文宗は在位2年で亡くなり、文宗の長男で12歳の世子が跡を継いで国王となります。第六代国王・端宗です。
端宗即位とともに王族と大臣たちの対立が激しくなります。そして王族内でも首陽大君と安平大君の対立が激しくなりました。首陽大君はついに側近たちとはかってクーデターを起こし、安平大君と大臣たちの勢力を滅ぼしてしまいました。政治の実権を握った首陽大君は甥の国王に譲位させて自らが国王となりました。第七代国王・世祖です。
世祖は反対派をことごとく粛清し、強権を振るいました。ところが長男の世子が父より先に亡くなり、世子の子供たちが幼かったことから世祖の次男・海陽大君が世子となり、父の死後その跡を継ぎます。第八代国王・睿宗です。ところが睿宗は在位1年で亡くなり、その息子も5歳だったので、睿宗の母・貞熹王后は世祖の長男の息子の者山君を国王としました。第九代国王・成宗です。
成宗は二番目の王妃尹氏との間に世子を授かりましたが、王妃尹氏があまりに嫉妬深いため、廃嫡し毒を飲ませて殺しました。そして三番目の王妃との間に晋城大君が生まれました。成宗が在位25年で亡くなった後、世子が国王となります。これが第十代国王・燕山君です。
燕山君は王権強化をはかり、自分の母・廃妃尹氏の毒殺に賛同した臣下を片っ端から殺したのをはじめ、多くの臣下を粛清しました。その政治に不満を持つ者たちが、燕山君の弟の晋城大君を担いでクーデターを起こし、燕山君を失脚させて晋城大君を国王としました。これが第十一代国王・中宗です。
中宗の時代は、韓国ドラマにも描かれているように政変の連続でした。中宗も二番目の王妃から長男をもうけて世子としました。ところが二番目の王妃が病死して三番目の王妃を迎え、三番目の王妃との間に慶源大君が生まれました。これによって宮廷の勢力が世子派と慶源大君派に分かれて対立するようになりました。中宗の死後、世子は王となります。第十二代国王・仁宗です。
仁宗はもともと病弱で子供がなく、慶源大君に後を託して在位わずか8か月で亡くなりました。慶源大君は兄の後を継ぎ第十三代国王となります。これが明宗です。
明宗は母の文定王后が長らく権勢をふるい、母の死から3年後に後を追うように亡くなりました。明宗も仁宗と同じく世子がなかったので、仁宗・明宗の甥にあたる河城君が後を継いで国王となりました。第十三代国王・宣祖です。
宣祖の時代は、こののち300年にわたって繰り広げられる党争が芽生えた時代でした。また朝鮮王朝を揺るがす大事件が起こりました。朝鮮史上にいう壬辰倭乱・丁酉再乱、日本でいう文禄・慶長の役です。このために宣祖の後継者争いも複雑なものになりました。宣祖は壬辰倭乱勃発時に、便宜的に次男の光海君を世子にしました。ところが長男の臨海君は健在でした。さらに戦争終結後、新たに迎えた王妃金氏から永昌大君が生まれました。そのうえ厄介なことに当時、明の皇室でも皇位継承のごたごたがあったので光海君の世子就任を明王朝に認可してもらえませんでした。明王朝に認可してもらえないということは世子の正統性が揺らぐわけで、光海君は八方ふさがりの状態でした。そんななか宣祖が亡くなり、光海君は第十四代国王に即位します。
光海君は7年間にわたった戦乱からの復興に全力を注ぎましたが、自分の王座を脅かす臨海君と永昌大君を抹殺しました。さらに義理の母にあたる大妃金氏を幽閉しました。また他の王族たちも次々に粛清されました。これに危機感を抱いた勢力は、光海君の甥の綾陽君を推戴してクーデターを起こし、光海君を失脚させ、綾陽君を第十五代国王に即位させました。これが仁祖です。
仁祖は清国に二回にわたって攻め込まれ、嫡出の二人の王子、世子と鳳林大君を人質にとられました。二人は数年後帰国しましたが、世子は謎の死を遂げ、
鳳林大君は兄の後を継いで世子となり、仁祖の死後国王となりました。第十六代国王・孝宗です。
孝宗は清国に対する北伐を準備して、そのために王権強化を図りましたが、在位十年で亡くなり、長男の世子が後を継ぎました。第十七代国王・顕宗です。
顕宗は在位十五年で亡くなりましたが、当時の朝鮮の「君弱臣強」という噂が清国にまで流れて、清国から調査団が派遣されるほどだったそうです。
結構分厚い本ですが、ちょうど韓国の時代劇を見ていてこういう本が欲しいなと思っていた時に見つけた本なので大変ありがたいなと思いました。




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韓国の族閥・軍閥・財閥 支配集団の政治力学を解く

2023-07-13 22:07:16 | 韓国・朝鮮史

『韓国の族閥・軍閥・財閥 支配集団の政治力学を解く』池東旭著 中公新書

この本は、韓国と北朝鮮の族閥、軍閥、財閥の外、文化や風俗についてもわかりやすく解説してあります。

この本で初めて知りましたが、韓国人は外国語習得にたけているようで複数の外国語を操る人が珍しくないそうです。また韓国の姓氏の数は260余りだそうで、そのうち金・李・朴・崔・鄭の五大姓が人口の約54%を占めているそうです。韓国の民法では同姓同本の男女の婚姻が禁止されているそうです。同本とは同じ本貫という意味で、本貫とは始祖の意味だそうです。例えば金氏でも安東金氏や金海金氏、慶州金氏などがありますが、この三つの金氏は同じではないので、安東金氏と金海金氏であれば同じ金氏でも結婚できるそうです。また韓国人の間では日記のような記録をほとんど残さないそうです。それは保身術だそうです。そうしないと、後で追及されたときに記録が証拠となってしまうからだそうです。だから今でも政治家や財界人はメモを書かないし残さないそうです。

そして日本の統治下にあったころ、朝鮮半島で作ったコメは全部日本に輸出され、朝鮮人は豆粕やコーリャンしか食べられなかったそうです。日本の支配に対する韓国人の恨みには、食べ物の恨みも大きかったそうです。

また韓国の初代大統領となった李承晩について、自身が黄海道の出身であることから黄海道出身者で側近を固めたそうです。黄海道は北朝鮮の領土ですから韓国の領土で生まれ育った人からすれば、わだかまりはあったことが想像できます。そして李承晩は李朝の王族である譲寧大君の子孫だったそうです。譲寧大君は李朝初期の有名な王族で、韓国の時代劇ドラマにもよく登場します。李朝第3代国王の太宗の長男にあたり、最初は王世子として将来を嘱望されていました。ところがよくわからない理由で王世子を廃嫡され、弟の忠寧大君が王世子となりました。これが後の世宗大王です。譲寧大君はその後、世宗大王より長生きして悠悠自適の生涯を送りました。しかし子孫にしてみれば、こちらのほうが世宗大王の子孫より血筋が上だと思っていたかもしれません。ちょうど徳川時代の越前松平家のような感じだったのかもしれません。李承晩はプライドの高い人物だったそうですが、そういう理由もあったのかと、初めて知りました。

現在の韓国財閥のほとんどが1950年代から1960年代にかけて、アメリカの援助や外資導入により急成長したそうです。
韓国は朝鮮戦争によって旧来の価値観が崩壊し、弱肉強食、金銭万能の風潮に染まってしまったため、心のよりどころを求めて宗教に救いを求める人が増え、新興宗教が激増したそうです。モラルの無秩序は日本もひどいですが、韓国もひどくなったそうです。

この本によって、今まで知らなかった韓国のことがよくわかったような気がしました。



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