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気まぐれ本読み日記

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中国の禁書 その2

2025-05-27 22:55:33 | 中国史
『中国の禁書』章培恒・安平秋 主編 氷上正・松尾康憲 訳 新潮選書
西暦960年に成立した宋王朝は開封を都にしていた時代を北宋時代といい、金の侵略を逃れて浙江省の杭州を都とした時代を南宋時代といい、300年余り続きました。宋の時代は様々な文人を輩出し、自由な文化が栄えた時代かと思っていましたが、この本によると、建国当初から禁書政策を推し進めていたようです。
北宋初期には天文書や兵書を禁書とし、特に天文学者と占い師には、政府が統一試験を実施して、合格すれば政府の役所に採用し、不合格の場合は顔に刺青を入れて島流しにしたそうです。宋王朝は近衛兵のクーデタで成立した経緯があり、さらに唐の末期から各地の節度使とよばれる地方長官が軍閥化していたこともあるので、天文書や兵書に厳しかったようです。中期には、王安石の新法とよばれる政治改革によって、国論が二分し、王安石の政策に反対を唱えた司馬光や蘇軾らの著作が禁書となって焼却されました。
金の侵略によって、徽宗・欽宗の皇帝親子が捕虜となって北に連行され、北宋は滅亡しました。欽宗の弟の高宗が、杭州に逃れて皇帝となり、南宋王朝を始めました。南宋にとって、徽宗親子の拉致は触れてはならない問題となり、これに触れた民間の歴史書は再三にわたり禁書の対象となり、当局の弾圧を受けたそうです。また宋王朝は大量印刷が可能になった時代なので、禁書になると、本を焼却するだけでなく、原版を廃棄するようになったそうです。

南宋を滅ぼした元王朝において、禁書事件は初代皇帝の世祖・フビライのときに集中していました。フビライは天文や占い、偽の道教の本を禁書にしたそうです。したがって南宋に比べると禁書の取り締まりは非常に緩やかだったそうです。この本では、元の支配層が低次元の学識だったからだろう、としていますが、元の場合は、フビライ以降、支配層内部の権力闘争が激しかったので、禁書を取り締まる余裕がなかったのではないかと思います。元が文化面で鷹揚だったおかげで、元曲と呼ばれる歌劇が人間性を重視するレベルの高い作品を生み出した、としています。

元をゴビ砂漠の北に追いやって成立した明王朝は、王朝の創業者である太祖洪武帝・朱元璋が、文人に対して憎悪の念が強かったようです。特に、当時文化の中心地となっていた蘇州は、洪武帝のライバルの張士誠の本拠地であったことから目の敵にされました。洪武帝は皇帝に即位後、胡藍の獄と呼ばれる大獄を起こして、臣下とその関係者数万人を粛清したことで知られていますが、それとは別に、文字の獄と呼ばれる疑獄を起こして、多くの文人たちが犠牲になりました。ある人物は皇帝に感謝をする上奏文の中で「則を作り」と書いただけで処刑されたそうです。処刑された理由は、則と賊の音が似ていることから、洪武帝が過去に紅巾賊に加わっていたことをあてこすったものと解釈されたためです。犠牲になった文人たちの著書は、皇帝の命令がなくても禁書となりました。明代は錦衣衛、東廠といった秘密警察が活動していた時代でもあったので、演劇や小説、科挙受験の問題集も禁書の対象になったようです。また朱子学を国の学問の中心に位置づけたことから、朱子学に反する学問の書物も禁書の対象となり、明代中期に起こった陽明学も当局の弾圧の対象となりました。明代末期の万暦年間以降は、政権の派閥争いと内外の情勢の悪化によって、禁書の対象も多岐にわたり、明朝滅亡直前には水滸伝が禁書となったそうです。

明朝滅亡のあと、北方より清王朝がやって来ました。清朝の禁書政策は巧妙に行われ、その最たるものが、清朝第6代皇帝の乾隆帝による四庫全書編纂事業でした。乾隆帝は四庫全書編纂を名目にして、中国全土からあらゆる書物を集めさせ、清朝に不利な記述のある書物を全部焼却したり、一部焼却したりしたそうです。この本によると、四庫全書に収録された書物の数は3470種で、焼却処分の書物は2453種、一部焼却は402種にのぼり、「秦の始皇帝の焚書以後、中国文化がこんなに大きな災いに遭遇したことはなかった」と書かれています。以前に四庫全書を見たことがありますが、何も書いていないページが延々と続いているのを見て、驚いた記憶があります。また「弘」の字の「、」が抜けていたり、「暦」という字が「歴」に代わっているのも目にしました。これは避諱といって、乾隆帝の名前が弘暦のため、このような措置を取ったものですが、その気の遠くなるような仕事ぶりに感服しました。
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中国の禁書

2025-05-16 16:49:38 | 中国史
『中国の禁書』章培恒・安平秋 主編 氷上正・松尾康憲 訳 新潮選書
この本は、春秋戦国時代から中華民国初期までの、中国の禁書政策について書かれたものです。

春秋戦国時代は諸子百家の時代ともいわれ、様々な思想が花開いた時代です。そんな時代に禁書を定めたのは秦で、商鞅が変法を行って富国強兵政策を推進していた時に、「詩経」「書経」を焼却処分にしました。秦では商鞅以降も始皇帝に至るまで禁書を続け、始皇帝の時には有名な焚書坑儒を行いました。また秦の宰相・李斯は秦以外の国々の歴史書の焼却を命じ、国民に対しては、「詩経」「書経」をはじめ諸子百家の書物を所持を禁じ、現在持っている場合は、役所に提出して焼却するように命じたそうです。
 
秦を滅ぼし、秦の都・咸陽に入城した劉邦は、始皇帝時代の煩雑な秦の法律を廃して、殺人と傷害と窃盗のみを処罰する法三章を定めたことが有名ですが、いざ自分が漢王朝を創業し、皇帝になってみると、それでは不都合だったのか、秦の禁書政策をそのまま残したそうです。劉邦=漢の高祖が亡くなって、太子・劉盈が即位し恵帝となりました。恵帝は即位後4年目(紀元前191年)に、秦から受け継がれてきた禁書政策を廃止したそうです。そしてこれ以後、西晋の泰始3年(紀元267年)までの450年あまりの間、中国で禁書政策が行われなかったそうです。漢代400年間に禁書がおこなわれなかったということを、この本で初めて知りました。中国人が現在に至るまで自国語を漢語というのも、もっともなことなんだなと思いました。また「文章は経国の大業にして不朽の盛事なり」という曹丕の言葉を思い出しました。
 
この本によると、西晋以降、五代十国の時代まで10の王朝(西晋、後趙、前秦、北魏、北周、宋、梁、隋、唐、後周)で禁書事件があり、讖緯は10回、天文書は6回、陰陽・占いの書は3回、仏典・道書は2回、老子・荘子・兵書はそれぞれ1回ずつ禁書となったそうです。

また 唐王朝では、第3代皇帝・高宗の時代に、日月火水木金土の曜日からなる七曜暦が禁止され、七曜暦はインドの仏教徒が中国に持ち込んだもので、現在のカレンダーのもとになったものです。当局は七曜暦のなかに、多くの迷信が含まれ、内容がでたらめであったことを憎んで禁書にしたそうです。 ちなみにウィキペディアによると、日本には平安時代に七曜暦が入ってきたようです。また日本において、曜日が一般に定着したのは、明治時代になってグレゴリオ暦が導入されて以降のことだそうです。江戸時代までは一般には曜日の感覚はあまり必要ではなかったようです。

禁書は北方の諸王朝で出されたものが多く、南方の諸王朝では、禁書を実施した時もありますが、比較的に緩やかだったそうです。この本には、その原因について書いていませんが、南朝最初の王朝である東晋やその次の劉宋では、陶淵明や謝霊運に代表される隠遁思想や、西晋末期からの竹林七賢に代表される清談の流行も背景にあるのかなと思いました。

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北京年中行事記

2025-04-26 22:11:52 | 中国史
『北京年中行事記』敦崇編 小野勝年訳註 岩波文庫
この本は原題を『燕京歳時記』といい、清王朝末期の北京の年中行事を記したものです。燕京とは北京の別名で、春秋戦国時代に燕国の都がこの地に置かれたことに由来します。著者の敦崇は満州人貴族の生まれで、康熙・雍正時代の大学士・馬斉の七代の孫にあたります。馬斉は雍正帝が即位後、総理事務大臣に任命した四人の重臣のうちの一人で、後の三人はみな雍正帝に粛清されましたが、この人は無事に生き残ることが出来ました。馬斉の姪は乾隆帝の最初の皇后となり、甥の傅恒は乾隆時代の重臣でした。
敦崇は科挙を何度も受験しますが落第し、官職を買って役人になりました。宣統三年(1911)七月に病気のため役人を退職しました。その直後に辛亥革命が起きました。これより門を閉じて外部との交流を立ちました。そして宣統帝の大婚が終わったあと、アロー号事件で戦場となった八里橋から川に身を投げて57歳で亡くなったそうです。

この本によると、北京では元旦になると餃子を食べたそうです。餃子の形が馬蹄銀に似ていることから縁起の良い食べ物だったそうです。この日には爆竹を鳴らして祝ったそうですが、爆竹は元々は竹を燃やしていたのですが、途中から紙筒に火薬を入れたものに代わっていったようです。また元日のことを三元ともいうそうですが、これは歳の元(はじめ)、時の元、月の元の三つが重なりために、そう呼ばれるそうです。

一月二日には財神の祭りをして、昼夜に渡って花火が打ち上げられたそうです。商家では、武財神といって関羽を祭っているところが多かったそうです。三国志で有名な関羽は、信義を重んじた武将として知られ、それが商売に通ずるとして、商売の神様として祀られるようになりました。関羽については、他の日にも年中行事で出てきます。北京に伝わる言い伝えとして、どんなに日照りが続いても、5月13日を超えることはないといわれていたそうです。その日は関羽が呉の孫権に会いに行ったときで、その日に雨が降ったため、関羽は自分の愛用する偃月青竜刀を雨にぬらして刀を研いだそうです。その故事から、この日に降る雨のことを磨刀雨と呼んだそうです。この関羽と孫権の会談については、以前に吉川英治の三国志で読んだことがありますが、劉備が益州に遠征して、関羽が荊州の留守を任されていた時の出来事で、関羽は単身、孫権の居城に乗り込み、孫権側が仕掛けた罠に陥ることなく無事に荊州に帰還しました。関羽は現在の山西省の出身ですが、劉備・張飛と義兄弟の誓いを結んだのは、劉備の故郷である北京の近くの涿郡楼桑村でしたから、いわば郷土の偉人といった感覚を北京の人々が持っていたのかもしれません。

北京のことわざでは、「正月は善月、五月は悪月」といっていたそうです。その理由は『荊楚歳時記』という南北朝時代の書物に載っていることですが、禁忌のことが多く、家屋を修繕したり建築することを忌むからだそうです。荊楚とは現在の湖北省・湖南省で、北京とはかなり離れた地域ですが、風俗には共通するところがあるようです。また日本でも江戸時代には五月五日は女の節句と呼ばれ、農作業をする女性が、農作業を始める前に身を清めるために、この日を休みにしたそうです。

毎年12月8日には、北京の宮廷では、文武百官に対して臘八粥と呼ばれる粥を振舞ったそうで、民間でも臘八粥を作ったそうです。臘八粥はもともと仏教の行事で、お釈迦様の誕生日を祝って、この粥を作ったそうです。日本ではお釈迦様の誕生日として、4月8日が一般的ですが、中国では、2月8日説や3月8日説、12月8日説があるそうです。また12月の別名を臘月ということから、臘八粥の名がついたようです。

釣魚台は、金の時代から皇帝の別荘とされ、建物の前に大きな泉があって、一年を通じて水が枯れることがなく、北京の西にある西山とよばれる山々を流れる数々の川の流れが、この地で合流するところだったそうです。元の時代には玉淵潭と呼ばれ、清の乾隆年間に大規模に改修したそうです。乾隆帝は自分の父・雍正帝が葬られている西陵に行く時と、頤和園から天壇に行って天壇の祭祀を行う時には必ず、釣魚台で朝食を食べたそうです。






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朱鎔基 死も厭わない指導者

2024-10-13 08:29:13 | 中国史
『朱鎔基 死も厭わない指導者』楊中美著 河野徹訳 講談社
この本は中国の朱鎔基元首相の評伝です。朱鎔基は1928年生まれで、現在95歳になります。1998年から2003年まで中華人民共和国の国務院総理、つまり首相を務めました。

この本によると、朱鎔基は明の太祖洪武帝・朱元璋の第14男である寧王・朱権の子孫とされています。ただウィキペディアでは朱元璋の第18男の岷王・朱楩の子孫となっています。父親の名前も、この本では朱希聖とあり、ウィキペディアでは朱寛澍となっています。いずれにしても朱元璋の子孫には違いないようです。

朱鎔基は湖南省長沙の出身です。長沙は毛沢東、劉少奇、任弼時といった中華人民共和国建国の元老の出身地でもあります。朱鎔基家は毛沢東の最初の妻・楊開慧の生家とともに、長沙の名門として知られた家だったそうで、朱鎔基を幼いころ親代わりに育てた伯母は任弼時の親戚だったそうです。
朱鎔基は清華大学在学中に学生会の幹部として活躍し、卒業後は東北人民政府の仕事をするようになりました。当時は朝鮮戦争の真っ最中で、中国軍の前線基地として中国全土から多くの人材が東北部に集まっていたようです。

この本を読んでいて一番驚いたのは、この当時の中国政府は財政難になると、地方政府に借金を依頼していたということです。1989年に時の最高実力者・鄧小平が上海入りして、江沢民・上海市党第一書記と朱鎔基・上海市長に対し、25億元の借入を申し入れたとき、朱鎔基は難色を示し、江沢民が鄧小平のメンツをたてて25億元を用意したそうです。この話を読んだときに、まるで日本の江戸時代だなと思いました。江戸幕府が財政難になったとき、加賀藩からたびたび借金をしていたそうですが、その話を思い出しました。

この本を読んで初めて知った言葉の中に「三角債」ということばがあります。
三角債とは業績悪化などの理由で、A社がB社に債務を支払わず、B社はC社に債務を支払わず、C社はA社に債務を支払わずというような債務の先送りのことらしく、社会主義体制下の国有企業にこういう債務が多いということです。
朱鎔基は副首相在任中の1992年5月、5000億元の三角債のうち3000億元を整理したことから次期首相としての期待が高まることになったようです。

経済という言葉は、本来は経世済民の略語です。世を経(おさ)め民を済(すく)うという意味です。単に金の流れを追いかけるだけの意味ではなく、天下国家を治め、困っている民を救うというもっと大きな意味があった言葉です。もう一度、本来の意味に立ち返って経済を考え直す時ではないのかなと、この本を読んで感じました。


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台湾 人間・歴史・心性

2024-08-31 20:04:22 | 中国史
『台湾 人間・歴史・心性』戴國煇著 岩波新書
この本によると、台湾には先住少数民族として9つの部族があり、1985年当時の総人口は32万人あったそうです。また当時の国民党政府は先住民の入山下山を自由にした代わりに、一般の平地に住む住民に対し、観光区以外の入山には許可制にして、立ち入りを厳しく制限しているそうです。
また国民党政府の台湾移転に伴い、大陸から台湾に渡ってきた外省人は、本土の中華料理を持ち込みましたが、中華料理の担い手になった人々は、国民党政府に従ってやってきた元軍閥や国民党政府要人の料理人だったそうです。
台湾人は本省人、外省人を問わず、インフレの自衛策として金とアメリカドルの保持を生きがいにしてきたということです。
この本によると、蒋介石は台湾に渡った後、親米派の政治家や将軍を次々に排除していったようです。アメリカのせいで国共内戦に敗れたという思いが、蒋介石にそういう行動をとらせたのかなと思いました。

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