『中国の禁書』章培恒・安平秋 主編 氷上正・松尾康憲 訳 新潮選書
西暦960年に成立した宋王朝は開封を都にしていた時代を北宋時代といい、金の侵略を逃れて浙江省の杭州を都とした時代を南宋時代といい、300年余り続きました。宋の時代は様々な文人を輩出し、自由な文化が栄えた時代かと思っていましたが、この本によると、建国当初から禁書政策を推し進めていたようです。
北宋初期には天文書や兵書を禁書とし、特に天文学者と占い師には、政府が統一試験を実施して、合格すれば政府の役所に採用し、不合格の場合は顔に刺青を入れて島流しにしたそうです。宋王朝は近衛兵のクーデタで成立した経緯があり、さらに唐の末期から各地の節度使とよばれる地方長官が軍閥化していたこともあるので、天文書や兵書に厳しかったようです。中期には、王安石の新法とよばれる政治改革によって、国論が二分し、王安石の政策に反対を唱えた司馬光や蘇軾らの著作が禁書となって焼却されました。
金の侵略によって、徽宗・欽宗の皇帝親子が捕虜となって北に連行され、北宋は滅亡しました。欽宗の弟の高宗が、杭州に逃れて皇帝となり、南宋王朝を始めました。南宋にとって、徽宗親子の拉致は触れてはならない問題となり、これに触れた民間の歴史書は再三にわたり禁書の対象となり、当局の弾圧を受けたそうです。また宋王朝は大量印刷が可能になった時代なので、禁書になると、本を焼却するだけでなく、原版を廃棄するようになったそうです。
南宋を滅ぼした元王朝において、禁書事件は初代皇帝の世祖・フビライのときに集中していました。フビライは天文や占い、偽の道教の本を禁書にしたそうです。したがって南宋に比べると禁書の取り締まりは非常に緩やかだったそうです。この本では、元の支配層が低次元の学識だったからだろう、としていますが、元の場合は、フビライ以降、支配層内部の権力闘争が激しかったので、禁書を取り締まる余裕がなかったのではないかと思います。元が文化面で鷹揚だったおかげで、元曲と呼ばれる歌劇が人間性を重視するレベルの高い作品を生み出した、としています。
元をゴビ砂漠の北に追いやって成立した明王朝は、王朝の創業者である太祖洪武帝・朱元璋が、文人に対して憎悪の念が強かったようです。特に、当時文化の中心地となっていた蘇州は、洪武帝のライバルの張士誠の本拠地であったことから目の敵にされました。洪武帝は皇帝に即位後、胡藍の獄と呼ばれる大獄を起こして、臣下とその関係者数万人を粛清したことで知られていますが、それとは別に、文字の獄と呼ばれる疑獄を起こして、多くの文人たちが犠牲になりました。ある人物は皇帝に感謝をする上奏文の中で「則を作り」と書いただけで処刑されたそうです。処刑された理由は、則と賊の音が似ていることから、洪武帝が過去に紅巾賊に加わっていたことをあてこすったものと解釈されたためです。犠牲になった文人たちの著書は、皇帝の命令がなくても禁書となりました。明代は錦衣衛、東廠といった秘密警察が活動していた時代でもあったので、演劇や小説、科挙受験の問題集も禁書の対象になったようです。また朱子学を国の学問の中心に位置づけたことから、朱子学に反する学問の書物も禁書の対象となり、明代中期に起こった陽明学も当局の弾圧の対象となりました。明代末期の万暦年間以降は、政権の派閥争いと内外の情勢の悪化によって、禁書の対象も多岐にわたり、明朝滅亡直前には水滸伝が禁書となったそうです。
明朝滅亡のあと、北方より清王朝がやって来ました。清朝の禁書政策は巧妙に行われ、その最たるものが、清朝第6代皇帝の乾隆帝による四庫全書編纂事業でした。乾隆帝は四庫全書編纂を名目にして、中国全土からあらゆる書物を集めさせ、清朝に不利な記述のある書物を全部焼却したり、一部焼却したりしたそうです。この本によると、四庫全書に収録された書物の数は3470種で、焼却処分の書物は2453種、一部焼却は402種にのぼり、「秦の始皇帝の焚書以後、中国文化がこんなに大きな災いに遭遇したことはなかった」と書かれています。以前に四庫全書を見たことがありますが、何も書いていないページが延々と続いているのを見て、驚いた記憶があります。また「弘」の字の「、」が抜けていたり、「暦」という字が「歴」に代わっているのも目にしました。これは避諱といって、乾隆帝の名前が弘暦のため、このような措置を取ったものですが、その気の遠くなるような仕事ぶりに感服しました。