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気まぐれ本読み日記

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ギリシア・ローマ名言集

2025-03-22 18:10:59 | 古代ギリシア・ローマ史
『ギリシア・ローマ名言集』柳沼重剛編 岩波書店

『人生は短く、技術は長い』という古代ギリシアの医学者ヒッポクラテスの言葉が載っていますが、この言葉はしばしば「芸術は長く、人生は短い」と引用されているそうです。技術が芸術という日本語にされた理由について次のように書いてあります。

ラテン語ars longaは英語ならart is longで,artは「芸術」だと安直に理解され,しかもそのうえ,「技術は長く・・・・・・」というよりは「芸術は長く・・・・・・」とした方が,言葉として意味深長に響くからであろう.しかし18世紀以前に関しては,ars(あるいはart )を「芸術」と訳したら,ほとんどの場合誤訳になる.

『おまえは自分の頭上に月を引き下ろす』ということわざの意味は、自ら禍を引き寄せることだそうです。その由来は、テッサリアの魔女たちが、自分たちの魔術で月をひき下ろしたところ、盲目となり子供を奪われた伝説からきたものだそうです。そして月に関する説明の中で次のような記述があります。

月に関してもっと顕著なことは,日本の詩歌にあれほどよく歌われる月が,西洋では昔も今も,詩の題材になっていないということである(それに代わるのが星座で,今度はその星座は,日本の詩歌ではあまり取り上げられていない).そして,上のことわざでもそうだが,月は何らかの狂気と関係づけられる.本来「月の」を意味する英語lunaticが実は「狂気の」という意味で使われる.

また『点滴石を穿つ』とか『大山鳴動して鼠一匹』といったことわざは、いままで中国由来のことわざかと思っていましたが、ギリシア・ローマ時代に由来するものだと、この本で初めて知りました。

ローマの詩人ホラティウスの『詩集』に出てくる次の言葉は、現代においても同じことが言えるのではないかと思うようなものです。

父母の世代は祖父母より劣り,さらに劣って悪しきわれらを産んだ.われらはやがて,ますます悪徳にまさる子孫を産むであろう.

いい本に出会えたなと思います。
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ローマ皇帝伝(下)

2024-09-10 16:01:05 | 古代ギリシア・ローマ史
『ローマ皇帝伝(下)』スエトニウス著 国原吉之助訳 岩波文庫
下巻で紹介されているローマ皇帝は第3代から第11代までの8人で、カリグラ、クラウディウス、ネロ、ガルバ、オト、ウィテリウス、ウェスパシアヌス、ティトゥス、ドミティアヌスの面々です。
カリグラというのは実はあだ名で、「可愛い軍隊靴」という意味です。カリグラが父·ゲルマニクスのいた軍隊の中で、一般兵士と同じ服装で育てられたことから一般兵士が何気なくそう呼んで、このあだ名が定着したそうです。本名はガイウス・ユリウス・カエサルで、上巻の最初に登場する偉大なカエサルと全く同じ名前でした。
カリグラはアウグストゥスの曾孫にあたります。カリグラの母の大アグリッピナが、アウグストゥスの一人娘であるユリアの娘にあたるからです。ちなみに小アグリッピナもいますが、これは大アグリッピナの娘でカリグラの妹にあたり、そしてネロの母になります。
同時に彼はマルクス・アントニウスの曾孫にもなります。マルクス・アントニウスといえば、アウグストゥスのライバルで、エジプト女王クレオパトラとの恋愛で有名ですが、アントニウスとアウグストゥスの姉・オクタウィアとの間にできた小アントニアがカリグラの父・ゲルマニクスの母になるからです。ちなみに小アントニアの姉にあたる大アントニアは第5代皇帝・ネロの父方の祖母にあたります。
そしてカリグラの父・ゲルマニクスの弟で、カリグラの叔父にあたるのが第4代のクラウディウスです。当然ながらクラウディウスはマルクス・アントニウスの孫にあたります。
またカリグラにとって、第2代皇帝ティベリウスは本来であれば父方の大伯父にあたりますが、アウグストゥスがティベリウスを養子にするときに、ゲルマニクスをティベリウスの養子にすることが条件となったため、カリグラはティベリウスの孫という立場になりました。しかもティベリウスの唯一の息子ドルススはティベリウスより先に亡くなり、ドルススの唯一の息子ティベリウスはまだ18歳だったため、ティベリウス死亡時に25歳だったカリグラが、すんなりと第3代ローマ皇帝になれたようです。
ネロは父方でいえばマルクス・アントニウスとアウグストゥスの姉・オクタウィアの曾孫となり、母方でいえばアントニウス・オクタウィア夫妻の曾孫であり、アウグストゥスの玄孫にあたります。
カリグラ・クラウディウス・ネロの3代30年余りは、外敵の侵入もなく、対外的には平和な時代が続いていました。しかしローマの政界では、皇帝たちによる上流階級の人々の殺害が相次ぎました。その理由として一つには自分の権力を狙いそうな人々の排除があり、もう一つの理由として皇帝の財政難から手っ取り早く金持から略奪しようとしたからでした。その結果、カリグラ、クラウディウス、ネロは非業の死を遂げ、ユリウス=クラウディウス朝は滅亡してしまいました。
ネロの死後、2年の間にガルバ、オト、ウィテリウス、ウェスパシアヌスという4人の皇帝が誕生しました。ガルバはネロから刺客を送られたため、折しもガリアにおけるウィンデクスの反乱に呼応して、自分が総督を務める属州ヒスパニアで反乱を起しました。オトとウィテリウスは莫大な借金でにっちもさっちもいかなくなって反乱を起しました。オトはローマの護衛隊を買収し、ウィテリウスは総督を務めていた属州ゲルマニアで挙兵しました。ウェスパシアヌスは皇帝となったオトから援軍を要請されたとき、アフリカ属州の総督でしたが、オトの死を知って、ローマを救うという大義名分のもとに、軍をローマに派遣してウィテリウス軍を破り、ウィテリウスが殺された後にローマに凱旋して皇帝となりました。
ウェスパシアヌスは戦乱で荒れ果てたローマの再建に努めました。今日に至るまで、ローマの観光名所として世界中にその名を知られるコロセウムはウェスパシアヌスによって建造され、次のティトゥスのときに完成しました。
ティトゥスはウェスパシアヌスの長男で、父の在世中から父を助けて帝国の統治にかかわりました。ベスビオ火山の大噴火が起こりポンペイの町が壊滅する悲劇が起こったのはティトゥスのときでした。名君と称えられましたが、皇帝になってから2年余りで急死しました。ティトゥスの死後、弟のドミティアヌスが皇帝となりました。
ドミティアヌスは兄とちがって評判の良くない人物でした。人の意表を突く残忍さで知られ、「恐ろしい最後が予告されるとき、あの元首の優しさほど確かな前兆はない」といわれていたそうです。ただドミティアヌスはよく次のようなことを言っていたそうです。「元首の境遇は、哀れなものだ。元首が暗殺されない限り、陰謀が確かにあったと信じてもらえないのだから」ドミティアヌスは在位15年目に側近によって暗殺され、ウェスパシアヌスから始まったフラウィウス朝は3代26年で断絶しました。このあとローマ帝国はネルバ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス=ピウス、マルクス・アウレリウスの五賢帝時代となり、全盛期を迎えます。
ローマ皇帝は最高司令官や元首と尊称され、世間からは何もかも思うがままにできる立場と考えられながら、実際にはいろんな制約があって思うようにできず、もがき苦しみながら生きていたことが、この本によってよくわかったように思いました。


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ローマ皇帝伝(上)

2024-09-07 17:54:38 | 古代ギリシア・ローマ史
『ローマ皇帝伝(上)』スエトニウス著 国原吉之助訳 岩波文庫
この本はユリウス・カエサルからドミティアヌスに至る12人のローマ皇帝の伝記です。上下2巻あり、上巻はユリウス・カエサル、アウグストゥス、ティベリウスの3人が記されています。下巻はカリグラ、クラウディウス、ネロ、ガルバ、オト、ウィテリウス、ウェスパシアヌス、ティトゥス、ドミティアヌスの9人です。
著者のスエトニウスはウェスパシアヌス帝の時代に生まれ、ハドリアヌス帝の時代まで活躍した人物のようです。
この本の特色は、これらの人物の食生活や生活態度に至るまで事細かに記されている点です。
たとえばカエサルは酒を殆ど飲まず、食事に関しても淡白だったということです。あるときカエサルは宴会に招かれたときに、招待主が新鮮なオリーブ油を出さずに、古い油を出したそうです。そのため他の客は古い油に手を付けなかったのに、カエサル一人だけ普段より多めに、かつおいしそうに食べたそうです。
アウグストゥスはカエサルの姉のユリアの孫にあたります。アウグストゥスから見ればカエサルは母方の大叔父にあたります。彼も大叔父に似たのか、食べ物には淡白で、ありふれた食べ物を好み、粗末なパンと雑魚と手造りの牛乳チーズ、二度なりの青いいちじくを好んで食べたそうです。しかも食べる量が少なかったため、晩餐会の料理には全く手を付けず、宴会の始まる前か終わった後に一人で食べていたそうです。またアウグストゥスは葡萄酒もごく少量しか飲めず、日中はむやみに飲まなかったそうです。そして彼は酒を飲む代わりに、冷水で湿らせたパンか、きゅうり1本か、若いレタスの葉か、果汁の酸っぱいリンゴを食べていたそうです。
アウグストゥスは大叔父カエサルとちがって元来、体が弱く、重い病気も何度か患い、さらには毎年春のはじめには便秘に悩まされ、南の烈風が吹くころには鼻炎で悩まされ、9月の誕生日のころにはいつも体調を崩していたということです。また右手の人差し指が寒さでかじかんで、動かずに困ったことがしばしばあったそうです。睡眠時間は多くても7時間までで、それも何度も目を覚ましながらの睡眠だったようです。そのためアウグストゥスは虚弱な体をいたわり、体を洗うことがめったになかったということです。
アウグストゥスは胸から腹にかけて、北斗七星をかたどったシミがあったそうです。漫画の北斗の拳はこういうところからヒントを得てキャラクターを作ったのかなと思いました。
8月を英語でオーガストといいますが、その語源がアウグストゥスにあることはよく知られた話です。それではなぜ暦に1ヶ月追加するのに、自分の誕生月の9月ではなく8月にしたかについて、アウグストゥスは次のように語ったそうです。「最初の執政官に就いたのがたまたまこの月で、そして特別輝かしい勝利を収めたのもこの月であるから」
アウグストゥスは雷鳴や稲妻を恐れ、いつもアザラシの毛皮をお守りとして持っていたそうです。また占いや前兆もおろそかにせず、朝間違えて右足を左の靴に入れると縁起が悪いと考え、9の日の翌日はどこへも出発しないようにし、7の日には重要な仕事を始めなかったということです。
万事に細心の注意を払いながら生きてきたアウグストゥスですが、自分の家族については配慮が行き届かなかったようで、彼の子孫はほとんどが不幸な最期を遂げることになりました。
アウグストゥスの後継者であるティベリウスは、アウグストゥスの妻リウィアの連れ子で、アウグストゥスの娘婿でもありました。
ティベリウスの人となりについては、その当時ローマで広く定着していた噂として、アウグストゥスの次のような言葉が残されていたそうです。
「あんなに鈍い顎で咀嚼されるローマ人は可哀想だ」
この言葉について当時の人々は、ティベリウスの、ゆっくりと人をいじめて楽しむ残酷な性格を風刺したのだと、考えていたようです。
ティベリウスは紀元14年にアウグストゥスが亡くなったことを受けて、ローマ皇帝となり、紀元37年まで23年間統治しましたが、最後の7年間は側近であった護衛隊長セイヤヌスの処刑に始まる大獄を起して、自分の邪魔になりそうな親族や貴族たちを片っ端から処刑していきました。アウグストゥスの予言が的中する結果となりました。
ティベリウスは体格も堂々としていて、握力も強く、もぎたての新しいリンゴに一本の指で穴をあけられるほどだったといいます。健康にも恵まれ、30歳以降は医者に頼らず自分の判断で健康管理をしていたそうです。皇帝となってからも無病息災だったようです。
カエサルやアウグストゥスもそうですが、ティベリウスもギリシア文化の愛好家でした。ティベリウスが晩年ローマを離れて暮らしていたカプリ島やナポリはギリシア人の移民が多い地域だったそうです。
ティベリウスが晩年に行った政敵の粛清は、後継者のカリグラ、クラウディウス、ネロにも引き継がれ、ユリウス=クラウディウス朝の滅亡へとつながっていきました。そういう意味で考えると、ティベリウスを名君とは呼べないように感じました。しかしそのティベリウスも、幼いころ母が無理やりアウグストゥスの妻にされ、マルクス・アグリッパの娘と幸せな結婚生活を送っていたのに突然離婚させられて、アウグストゥスの一人娘ユリアと結婚させられました。さらにアウグストゥスの養子となる時に、甥のゲルマニクスを自分の養子とするようにアウグストゥスから強制されました。そういうことを考えていくと、結局アウグストゥスの身勝手な振る舞いが王朝滅亡の下になったような気がします。
こういう記録があればこそ、こうした様々な人生の物語がわかるのであって、記録を残すことの大切さを改めて感じました。
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ローマ人盛衰原因論 その2

2023-07-06 18:34:25 | 古代ギリシア・ローマ史

『ローマ人盛衰原因論』モンテスキュー著 田中治男・栗田伸子訳 岩波文庫

著者は、ローマ人が他民族を服従させるやり方について次のように語っています「一つの民族を征服すると、彼らを弱めることで満足する。ただ、彼らを知らず知らずのうちに侵食してゆくような条件を押しつける。もし彼らが反乱を起せば、それまで以上にその力を殺ぐ。そして、この民族は、いつ服従したか分らないまま臣下となっているのである。」

著者は、そもそも「ローマ人は誰もが狂暴であった」としています。その強大で狂暴なローマ人が時代が下るにつれて腐敗していった原因について「共和政末期のローマに入ってきたエピクロス派がローマ人の魂と精神を堕落させるのに大いに影響した」と考えていたようです。エピクロス派は快楽主義とも表現される古代ギリシアの哲学です。

国家の繁栄は個人の財産の増加をもたらします。もともと際限なく富を求めるローマ人は、使う方も際限なく使い始めました。しかも、この本で初めて知りましたが、ローマ市民は農業か兵士以外の職業につくことを禁じられ、商業や手工業を奴隷の職業とみなしていたそうです。財産や時間にゆとりができたことで、快楽への追求が始まったようです。

「ローマの支配がイタリアに限られていた時、国家は容易に存続しえた」と著者は言います。ところがローマの支配がイタリア以外に拡大していったので、没落の原因となる二つの要因が現れました。一つはイタリア以外の地域に出て行った軍団が現地に駐屯するうちに軍閥に変わっていったことです。共和政末期の内乱の時期からそうですが、帝政期に入ってますますこの傾向が強くなってきました。もう一つはイタリアの諸都市や植民地にもローマ市民権を与えたことです。これによって古いローマの伝統は失われていき、国内が絶えず分裂するようになってしまったということです。

この本を読むと、帝政期のローマは例えが悪いかもしれませんがモンゴル帝国によく似ているなと感じました。どちらも世界の大部分を征服し終わると、今度は内部の闘争に明け暮れているわけです。二千年のローマの歴史を支えたのは、都市国家の昔から持っていたローマ人本来の闘争心のゆえかもしれないなと思いました。

 

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ローマ人盛衰原因論

2023-07-05 10:49:36 | 古代ギリシア・ローマ史

『ローマ人盛衰原因論』モンテスキュー著 田中治男·栗田伸子訳 岩波文庫

この本は、モンテスキューが『法の精神』を書く前に発表されたものです。

ローマ建国の父ロムルスから東ローマ帝国滅亡まで二千年にわたるローマ興亡の歴史を評論した内容になっています。

ローマの地名の由来は、「クリミア半島の諸都市と同じように戦利品や家畜や農産物を貯蔵する」ことと関係しているそうです。たとえばローマは7つの丘で構成されていましたが、そのうちの一つで、共和政・帝政を通じてローマの政治の中心であったパラティヌス丘は、家畜の鳴き声(パラトゥス)に由来する地名だそうです。またローマとは直接関係ないですが、クリミア半島の諸都市も農産物等の貯蔵のために作られたということを初めて知りました。

ローマはできた当初には商業を持たず、ほとんど工芸もなかったため、略奪することによってしか富を増やすことができなかったようです。それが出発点となって、絶えず各地で戦争を繰り広げることにつながったようです。戦争によって持ち帰った戦利品を市民に披露することが凱旋式の由来となったそうです。

持ち帰った戦利品を市民に分配する代わりに、ローマは兵士に対して給料を支払いませんでした。そのため攻城戦は行わず、敵陣や敵の領土の略奪が戦闘の中心となったようです。

著者は、ローマの兵士が絶えず重労働を強いられるのに対して、現代の兵士は「極端な労働と極端な怠惰を絶えず繰り返している」とし、「これは、この世でわが身を滅ぼすのにもっとも適したやり方である」としています。

また著者は肉体鍛錬についても言及しています。「われわれはもはや肉体鍛錬の正しい観念をもっていない。肉体鍛錬に余りに時間をかけすぎている人間は軽蔑に値すると思われる。それは、そのような鍛錬の大部分が愉楽以外の目的をもたないからである。反対に、古代人においては、ダンスにいたるまで、あらゆることが軍事技術の一部をなしていた」

またローマの強敵となったカルタゴとの比較において著者はこう述べています。「古代的習俗、すなわち、貧乏を潔しとする慣習は、ろーまにおいて財産をほとんど平等な状態にした。しかし、カルタゴでは、個々人が王ほどの財産を有していた。」

この話に関連して、プルターク英雄伝の大カトー伝に出てくるマニウス・クリウス・デンタトゥスの話があります。

ローマの執政官を四回務め、凱旋式を三回行ったマニウス・クリウス・デンタトゥスは、紀元前290年にサムニウム戦争を終わらせ、紀元前275年にエピルス王ピュロスをイタリア半島から撤退させるなど、当時のローマ最大の英雄でした。

ところが、デンタトゥスの家は質素で敷地も大変狭いものでした。デンタトゥスが家の外にあったかまどの前に腰を下ろして、蕪を煮ていると、サムニウム人の使節がやってきて、巨額の黄金を彼に差し出しました。するとデンタトゥスは、「こんな夕飯で結構な者に黄金は無用だ、わしには黄金を貰うより黄金を持っている者に勝つ方が名誉なのだ」といって彼らを追い返したそうです。(『プルタルコス英雄伝(中)』村川堅太郎編 筑摩書房P257-258)

この本を読んでみて、ローマ人がなぜあんな大帝国を築くに至ったか考えてみると、ローマは土地があまり豊かでなく、商工業もほとんどないくらい貧しい都市だったので、ハングリー精神に駆られて絶えず周辺の諸民族との戦争に明け暮れていました。その中で他を圧倒する戦闘技術を確立し、強大な軍事力を背景にあくまで略奪にこだわって領土を拡大していったのが、王政から共和政にかけてのローマの姿だったのかなと感じました。ただローマには常に内側で、貴族と人民の対立が存在していました。それがやがて内乱へと発展していき、やがては共和政が崩壊し帝政へと変わっていくことになります。(つづく)

 

 

 

 
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