『ローマ人盛衰原因論』モンテスキュー著 田中治男・栗田伸子訳 岩波文庫
著者は、ローマ人が他民族を服従させるやり方について次のように語っています「一つの民族を征服すると、彼らを弱めることで満足する。ただ、彼らを知らず知らずのうちに侵食してゆくような条件を押しつける。もし彼らが反乱を起せば、それまで以上にその力を殺ぐ。そして、この民族は、いつ服従したか分らないまま臣下となっているのである。」
著者は、そもそも「ローマ人は誰もが狂暴であった」としています。その強大で狂暴なローマ人が時代が下るにつれて腐敗していった原因について「共和政末期のローマに入ってきたエピクロス派がローマ人の魂と精神を堕落させるのに大いに影響した」と考えていたようです。エピクロス派は快楽主義とも表現される古代ギリシアの哲学です。
国家の繁栄は個人の財産の増加をもたらします。もともと際限なく富を求めるローマ人は、使う方も際限なく使い始めました。しかも、この本で初めて知りましたが、ローマ市民は農業か兵士以外の職業につくことを禁じられ、商業や手工業を奴隷の職業とみなしていたそうです。財産や時間にゆとりができたことで、快楽への追求が始まったようです。
「ローマの支配がイタリアに限られていた時、国家は容易に存続しえた」と著者は言います。ところがローマの支配がイタリア以外に拡大していったので、没落の原因となる二つの要因が現れました。一つはイタリア以外の地域に出て行った軍団が現地に駐屯するうちに軍閥に変わっていったことです。共和政末期の内乱の時期からそうですが、帝政期に入ってますますこの傾向が強くなってきました。もう一つはイタリアの諸都市や植民地にもローマ市民権を与えたことです。これによって古いローマの伝統は失われていき、国内が絶えず分裂するようになってしまったということです。
この本を読むと、帝政期のローマは例えが悪いかもしれませんがモンゴル帝国によく似ているなと感じました。どちらも世界の大部分を征服し終わると、今度は内部の闘争に明け暮れているわけです。二千年のローマの歴史を支えたのは、都市国家の昔から持っていたローマ人本来の闘争心のゆえかもしれないなと思いました。
『ローマ人盛衰原因論』モンテスキュー著 田中治男·栗田伸子訳 岩波文庫
この本は、モンテスキューが『法の精神』を書く前に発表されたものです。
ローマ建国の父ロムルスから東ローマ帝国滅亡まで二千年にわたるローマ興亡の歴史を評論した内容になっています。
ローマの地名の由来は、「クリミア半島の諸都市と同じように戦利品や家畜や農産物を貯蔵する」ことと関係しているそうです。たとえばローマは7つの丘で構成されていましたが、そのうちの一つで、共和政・帝政を通じてローマの政治の中心であったパラティヌス丘は、家畜の鳴き声(パラトゥス)に由来する地名だそうです。またローマとは直接関係ないですが、クリミア半島の諸都市も農産物等の貯蔵のために作られたということを初めて知りました。
ローマはできた当初には商業を持たず、ほとんど工芸もなかったため、略奪することによってしか富を増やすことができなかったようです。それが出発点となって、絶えず各地で戦争を繰り広げることにつながったようです。戦争によって持ち帰った戦利品を市民に披露することが凱旋式の由来となったそうです。
持ち帰った戦利品を市民に分配する代わりに、ローマは兵士に対して給料を支払いませんでした。そのため攻城戦は行わず、敵陣や敵の領土の略奪が戦闘の中心となったようです。
著者は、ローマの兵士が絶えず重労働を強いられるのに対して、現代の兵士は「極端な労働と極端な怠惰を絶えず繰り返している」とし、「これは、この世でわが身を滅ぼすのにもっとも適したやり方である」としています。
また著者は肉体鍛錬についても言及しています。「われわれはもはや肉体鍛錬の正しい観念をもっていない。肉体鍛錬に余りに時間をかけすぎている人間は軽蔑に値すると思われる。それは、そのような鍛錬の大部分が愉楽以外の目的をもたないからである。反対に、古代人においては、ダンスにいたるまで、あらゆることが軍事技術の一部をなしていた」
またローマの強敵となったカルタゴとの比較において著者はこう述べています。「古代的習俗、すなわち、貧乏を潔しとする慣習は、ろーまにおいて財産をほとんど平等な状態にした。しかし、カルタゴでは、個々人が王ほどの財産を有していた。」
この話に関連して、プルターク英雄伝の大カトー伝に出てくるマニウス・クリウス・デンタトゥスの話があります。
ローマの執政官を四回務め、凱旋式を三回行ったマニウス・クリウス・デンタトゥスは、紀元前290年にサムニウム戦争を終わらせ、紀元前275年にエピルス王ピュロスをイタリア半島から撤退させるなど、当時のローマ最大の英雄でした。
ところが、デンタトゥスの家は質素で敷地も大変狭いものでした。デンタトゥスが家の外にあったかまどの前に腰を下ろして、蕪を煮ていると、サムニウム人の使節がやってきて、巨額の黄金を彼に差し出しました。するとデンタトゥスは、「こんな夕飯で結構な者に黄金は無用だ、わしには黄金を貰うより黄金を持っている者に勝つ方が名誉なのだ」といって彼らを追い返したそうです。(『プルタルコス英雄伝(中)』村川堅太郎編 筑摩書房P257-258)
この本を読んでみて、ローマ人がなぜあんな大帝国を築くに至ったか考えてみると、ローマは土地があまり豊かでなく、商工業もほとんどないくらい貧しい都市だったので、ハングリー精神に駆られて絶えず周辺の諸民族との戦争に明け暮れていました。その中で他を圧倒する戦闘技術を確立し、強大な軍事力を背景にあくまで略奪にこだわって領土を拡大していったのが、王政から共和政にかけてのローマの姿だったのかなと感じました。ただローマには常に内側で、貴族と人民の対立が存在していました。それがやがて内乱へと発展していき、やがては共和政が崩壊し帝政へと変わっていくことになります。(つづく)