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気まぐれ本読み日記

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明清学術変遷史 出版と伝統学術の臨界点

2024-08-22 07:54:23 | 中国史
『明清学術変遷史 出版と伝統学術の臨界点』井上進著 平凡社
明代はその初期に永楽大典や五経大全といった国家的編纂事業がすすめられたことがあるので、当初から出版も盛んだったのだろうと思っていましたが、この本によると、建国後100年くらいたった成化・弘治年間から盛んになってきたということです。宋·元と出版の中心だった浙江地方が、明王朝の重税政策で出版しにくくなり、福建省が浙江に代わり出版の中心になったそうです。
16世紀半ばの嘉靖年間になると、唐代の有名な詩人の作品はすべて印刷物で読めるようになったそうです。
明代末期には様々な出版物が登場し、「天工開物」「農政全書」といった学術的価値の高い技術書も出版されました。ところが次の清代になると、これらの本は見向きもされなくなり、どちらも200年以上に渡って重版されない状態が続いたそうです。
また版画も明代末期には優れた作品が多かったようですが、清代になると作品の質が極端に落ちたそうです。従って清代の全盛期である康熙·雍正·乾隆の3代130年間は、むしろ文化不毛の時代だったようです。特に乾隆60年間は四庫全書の編纂に合わせて、文字の獄が多かったようです。四庫全書を見ると、途中で延々と罫線だけ引かれているページがつづくことがあります。これは単なる印刷ミスではなく、本来文字で埋まっているページを検閲によって削除したことを示すものです。四庫全書編纂期には、天文·地理·軍事·暦などの本が家に一部でもあれば、発禁対象の本であろうとなかろうと全部焼き捨ててしまったそうです。乾隆帝は89歳の長寿を保ちましたが、晩年は認知症の疑いがあったそうです。こういう言論統制の報いを受けたのかなと、ふと思ってしまいました。
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中国中世都市紀行 宋代の都市と都市生活

2024-07-21 16:02:04 | 中国史

『中国中世都市紀行 宋代の都市と都市生活』伊原弘著 中公新書

この本では、宋代の四つの都市を取り上げています。開封・建康・臨安・平江です。

開封は北宋時代の首都であり、現在も同じ名前で呼ばれています。残る三つの都市は、現在は違う名前がついています。

建康は現在の南京のことです。三国志に出てくる孫権がこの町を作ったときには建業とも金陵とも呼ばれました。そのあとの六朝時代には建康という名で呼ばれました。宋代までこの名前が続いていました。現在の南京になったのは明代からです。

臨安は現在の杭州です。唐代まではさびれた土地だったそうです。南宋がこの地に都を置いてから急速に発展し、「天に天堂、地に蘇杭」と呼ばれ、蘇州とともにこの世の天国に例えられるくらいの繁栄を誇りました。すぐそばには銭塘江という大きな川が流れ、毎年、夏の終わりには銭塘江の大海嘯と呼ばれる津波が東シナ海から杭州湾に押し寄せて、銭塘江を逆流することで有名です。

平江は現在の蘇州です。もともと春秋時代に呉の都・姑蘇がこの地に置かれたことから蘇州と呼ばれるようになりました。平江という名前は宋代と次の元代だけで、明代からは蘇州に戻っています。

この本を読んで初めて知りましたが、唐の都長安の城壁はレンガで被われたものではなく、土塁だったようです。また、後の時代になりますが、元の都である大都も、その城壁は土塁だったようです。

宋代において、井戸を掘る工事に携わっていたのが僧侶であったそうです。わが国でも、弘法大師がため池を作った話はよく知られていますが、唐代末期と五代十国時代に大規模な仏教弾圧のあっただけに、そういうところで自分たちの生き残る道を切り開いていったのかなと思いました。

また開封では北宋時代に賃貸業が発達していて、家でパーティーをする時にはパーティーの準備から料理に至るまで一切合切請け負ってくれる業者がいたということです。この時代には、現代とほとんど変わらないくらい様々な商売が発達していたようです。

この本を読んで初めて知った言葉の中に、マタイ効果という言葉があります。「富めるものはますます富み、貧しきものはますます貧しく」という旧約聖書マタイ伝の言葉を引用してこう呼ばれるそうですが、宋代の中国も現代の日本も本質的には大差ないなと感じるとともに、現代を生き残るためのヒントが、歴史の中に隠されているのではないかとも感じました。

 

 

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則天武后 

2023-09-06 15:01:36 | 中国史

『則天武后 女性と権力』外山軍治著 中公新書

則天武后は唐王朝第3代皇帝・高宗の皇后であり、中国史上唯一の女性皇帝、王朝を創業した唯一の女性です。武則天とも呼ばれます。姓は武氏で、名は照といいます。

この本によると、武后の死からおよそ40年後、日本で聖武天皇が全国に国分寺・国分尼寺の建立を命じましたが、これは武后が皇帝即位後、全国に大雲寺を設置させたのが由来になっているそうです。聖武天皇と孝謙天皇の時代に四字の年号が多かったのも、武后の影響と考えられます。また水戸光圀の「圀」の字は、武后が制定した則天文字の一つであり、京都の本圀寺は水戸光圀から「圀」の字をもらって現在の名に変えたそうです。

則天武后が成し遂げた大きな功績として、貴族制に大打撃を与えたことがあげられます。唐王朝の初期には、隋やその前の北周、その前の北魏王朝からの貴族がたくさんいました。高宗が皇帝になったとき、彼の母方の伯父で筆頭宰相の長孫無忌は北魏の皇室に連なる名門の出身でした。そのため朝廷の主流派を貴族が占め、当時の言葉で寒門と呼ばれた非貴族出身者はなかなか出世できない状態でした。彼女は寒門出身の人々を巧みに利用して自身の権力闘争を進めていきました。皇后となってから4年後に、彼女の最大の敵であった長孫無忌を失脚させ自殺に追い込み、あわせて長孫一族をはじめ勢威を振るった名門貴族たちを朝廷から一掃し、北魏以来続いていた貴族制に打撃を与え、科挙出身者をどんどん登用するようになりました。

武后が長孫無忌を排除できた要因は、夫の高宗が彼女を全面的に支持したことにあるように思います。高宗はのちに高句麗遠征を敢行し、ついに高句麗を滅ぼしました。隋の煬帝、唐の太宗という自分と血のつながる二人の有名な皇帝が失敗した事業に成功したわけです。高宗には何としてでも父・太宗の悲願であった高句麗征服を成し遂げたい思いがあったことは容易に想像できます。しかし父の高句麗遠征に批判的だった伯父が権力を握っている間はどうすることもできません。そこで高宗は武后を利用して、高句麗遠征の抵抗勢力を排除したのだと思います。武后が皇后に冊封されたとき、前代からの元老は四人いました。太尉・趙国公の長孫無忌、司空・英国公の李勣、尚書左僕射・燕国公の于志寧、尚書右僕射・河南郡公の褚遂良の四人です。このうち太宗の遺言を聞いたのは長孫無忌と褚遂良の二人でした。李勣は太宗の晩年に地方に左遷されていましたが、衛国公・李靖と並び称せられた唐王朝を代表する名将でした。于志寧は北周建国の功臣・于謹の子孫で、長孫無忌とともに名門貴族を代表する存在でした。太宗がまだ秦王と呼ばれていたころに集めた秦王府十八学士の一人で、褚遂良の父・褚亮を秦王に推薦したのがこの人でした。長孫無忌とは距離を置いた関係でしたので、高宗は于志寧を長孫無忌の対抗馬にしたのかもしれません。高宗は立后に強硬に反対した褚遂良をまず罷免して配流に処しました。次に褚遂良をかばった長孫無忌を配流したうえで自害に追い込みました。高宗は伯父のやり方には我慢がならなかったのでしょう。長孫無忌が亡くなると、許敬宗の告発を受ける形で于志寧を栄州刺史に左遷しましたが、褚遂良と長孫無忌が長安から遠く離れた南方に流されましたが、于志寧は長安から近いところに左遷され、前の二人と待遇が違っていました。そして于志寧は朝廷に復帰することなく退官した後、78歳で天寿を全うしました。高宗は武后を利用して、巧みに北魏以来の貴族勢力に打撃を与えて、高句麗遠征の抵抗勢力を弱めることに成功しました。高宗はある意味で父の太宗を上回る策士だなと思います。

彼女が政敵を倒すときの冷徹非情な仕打ちを目の当たりにしてもなお、朝廷で彼女に反対するものがあまりいなかったのは、身分や人柄、品行に関係なく彼女が役に立つと思った人材をどんどん登用したことが大きかったのかなと思います。武后の孫の玄宗は、開元の治と呼ばれる善政を行いましたが、開元の治を支えた二人の名宰相姚崇と宋璟は、武后の時代に頭角を現しました。そして唐王朝以降は王朝をまたいで影響力を発揮する貴族層は現れなくなりました。

また彼女の文化的な業績も大きなものだと思います。唐王朝の全盛期は彼女の孫の玄宗の時代ですが、武后から玄宗の時代に至る100年近い間は女性が歴史の表舞台に出て活躍しました。こんな時代は中国史上他に例のないことだと思います。唐三彩の陶器類もそうですし、日本の高松塚古墳の壁画に見られるような女性の華やかさが、この時代の雰囲気に大きく貢献していますが、これは則天武后がいればこそ実現したことだと思います。

14世紀の高麗王朝の政治家・李斉賢が高宗と武后の墓である乾陵の近くを通り過ぎたとき、地元の人が乾陵のことを「阿婆陵」と呼んでいたと、その著書『櫟翁稗説』の中で記しています。時代が下ってもなお、人々の武后に対する尊敬の念が失われていなかったことがわかります。


 

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諸葛孔明語録

2023-08-24 07:22:36 | 中国史
『諸葛孔明語録』中林史朗著 明徳出版社
この本は、三国志の作者・陳寿が編纂した『諸葛亮集』をもとにしています。
諸葛孔明は丞相当時、恩赦を実施しないとの批判に対して「世を治むるに大徳を以てし、小徳を以てせず」(世の中を治めるには大きな恩沢を用いて治め、小さな恩恵は用いないものだ)と反論し、劉表や劉璋は毎年のように恩赦を実施したが、それが政治にどれほどの利益になったのか、全くなっていないとしました。蜀の場合、劉備の建国から諸葛孔明の死にいたるまで、恩赦は2回しか行われませんでした。孔明の死後、蒋琬と費禕の治めた約20年間で恩赦は4年に一回の頻度になり、それ以降になると、蜀滅亡までの10年間に6度の恩赦が行われ、中には3年連続で恩赦のあった時期もあるということです。
劉備の部下の黄忠という武将がいました。三国志演義では五虎大将軍の一人とされ、老黄忠と呼ばれることもある人物ですが、黄忠の最大の武勲は、漢中の定軍山において魏の名将・夏侯淵を打ち破り、夏侯淵の首を取ったことでした。劉備は黄忠の功績をたたえ彼を後将軍に任じました。同時に関羽が前将軍、馬超が左将軍、張飛が右将軍に任命されました。孔明はこのことに不安を覚え、劉備に進言します。「黄忠の名声は、関羽や馬超にはとても及びません。それなのに主君には黄忠を後将軍に任命され、関羽・馬超・張飛と同列にされました。馬超・張飛は近くにいて黄忠の功績を見ているからまだ納得させられますが、遠く離れた荊州にいる関羽は不満に思うでしょう。」
孔明の不安は的中し、関羽は黄忠と同列の前将軍への就任を嫌がりますが、いろいろなだめすかされて結局は前将軍に就任しました。呉の孫権の息子と、自分の娘の縁談が持ち上がった時に「虎の娘を犬ころにやれるか」と暴言を吐いた関羽ですから、関羽の目上や同僚に対する傲慢さを孔明はよくわかっていたわけです。
この本には「陸遜に与ふるの書」というのがあり、孔明が呉の大将軍・陸遜に対し、自分の甥の諸葛恪が軍糧担当の官僚に抜擢されたと聞いて、恪は性格が荒っぽいのでそんな重要な立場にしてはダメだから、そのことを孫権に進言してほしいと言っています。孔明の不安は後年的中し、孫権亡きあと呉の政治の実権を握った諸葛恪は魏征伐を独断で起こして失敗し、政敵によって一族もろとも皆殺しにされました。
孔明の兄・諸葛瑾は当時呉の重臣として健在でしたが、孔明より7年長生きしました。西暦222年、劉備が孫権に大敗を喫した夷陵の戦いのあと、諸葛瑾は蜀の捕虜たちを呉の兵士にすべく訓練していましたが、蜀の兵士の質が悪いことを気にしていました。それを聞いた孔明は手紙を送り、瑾が訓練している兵士たちは、蜀の精鋭であるといって兄を注意したそうです。もともと孔明は夷陵の戦いにも反対していたように、呉を終始同盟国とみていました。そういう姿勢があったからなのでしょうが、あまりにも気安く隣国の人事や軍事面に口出ししているのには驚きました。こういうところは昔の人々が持っていた大らかさなのかなと思いました。
孔明の残した文章は、どれも事象を的確に表現し、変に修飾を施さない点で、非常にすがすがしさを感じます。諸葛孔明のようになるのは無理としても、こういう清々しい文章を書ける人になりたいなと、この本を読んで今更ながら思いました。
 
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物語 チベットの歴史 天空の仏教国の1400年

2023-08-12 14:16:36 | 中国史

『物語 チベットの歴史 天空の仏教国の1400年』石濱裕美子著 中央公論新社

今までチベットの歴史というのを、ほとんど知ることもなかったので、この本は大変役に立ちました。

チベット仏教の成り立ちや各宗派の沿革など、はじめて知ることばかりでした。

この本を読んで意外に思ったのは、チベット仏教は意外に歴史が新しいなということです。

特にダライ・ラマが所属するゲルク派というのは、日本の室町時代にできた宗派です。

中国に仏教が伝わったのが後漢の時代であることを考えると、不思議な気がします。

しかもチベット仏教は当然かもしれませんがインドの影響が強く、むしろ中国に対して反感をもっているようなところが見受けられます。

そしてチベットの歴史を見ると、理解しがたい史実が浮かび上がります。チベットには防霰税というのがあったそうです。

これはこの本ではなく、河口慧海という人が書いた『チベット旅行記』の中に出てきます。

その本によると、チベットでは季節でいえば夏と冬しかないそうです。太陽暦でいう3月15日から9月15日までが夏で、それ以外は冬だそうです。

3月4月になると、麦の種まきが始まります。そうするとその地域の僧侶が、その地域の山で一番高いところに建っているお堂に籠るそうです。

僧侶はそこで何をするかというと、霰を降らすもとになる雨雲の退散を行うのだそうです。

はじめはお経を読んで静かにやっているそうですが、なかなか雨雲が退散しない場合には、お堂の外に出て、自分の服を脱いでそれを振り回して雨雲退散を叫びまわるそうです。

もし霰が降って収穫に被害が出ると、僧侶は法律に基づいて処罰されるそうです。もし霰が降ることなく収穫が十分にあった場合は、農民は畑1反につき麦2升を僧侶に納めるそうで、これが防霰税なんだそうです。そしてこの税は通常の租税とは別に納めていたわけですから、農民にはかなりの負担だったそうです。

ブータンもチベット仏教の流れをくむ国で、一時期、マスコミでは世界一幸せな国という表現をされていたと思いますが、今となっては本当かなと非常に疑問に思います。いまでも防霰税のようなものが残っていたら、決して幸せな国とは言えないと思います。

チベットは祭政一致が長らく続いていたので、それはそれでよかったのでしょうが、日本がうらやむほどの国ではないと、この本を読んで感じた次第です。

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