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駅から散歩▪ 渋沢栄一「深谷市 故郷ゆかりの地訪れる」

2021年10月16日 | 日記

大河ドラマ「青天を衝け」で主人公である渋沢栄一の故郷、埼玉県深谷市に行ってきました。

深谷駅は東京駅をモデルとしたレトロな外観で「関東100選」にもなっています。

煉瓦の街深谷、のシンボル的存在ですが、実際には50万枚もの、レンガ風のパネル張りなんだそうです。

北口駅前の「青淵広場」の渋沢栄一座像です。

深谷市のイメージキャラクター「ふっかちゃん」。

中山道の深谷宿入り口にある常夜灯(東)は明治初頭に建てられました。深谷市指定文化財。

煉瓦工場まで敷設した専用鉄道は、明治28年に福川に架けられた鉄橋がブリッジパーク公園に保存されていました。

誠之堂外観 建築材は深谷の煉瓦を使用しています。国の重要文化財に指定されています

誠之堂は、大正5年(1916) に渋沢栄一の喜寿を記念して第一銀行行員たちの出資により建築されました。国立銀行であり、第一銀行となってからは初代頭取を務めました。

誠之堂の室内

各所の窓にステンドグラスが使われています。

清風亭の外観です

清風亭は、大正15年(1926) 、当時第一銀行当時であった佐々木勇之助の古希を記念して、誠之堂と並べて建設されてました。

尾高淳忠生家 深谷市指定文化財です。

明治維新後には富岡製糸場の初代所長を勤めました。渋沢栄一の従兄弟であり、論語の先生でもありました。

栄一はこのお屋敷の2階で尾高淳忠から論語などを教わった、最初の妻(千代)もここで生まれ育ちました。

境内には渋沢栄一によって尾高淳忠の業績をたたえる「頌徳碑」も建てられていました。

深谷市の渋沢栄一記念館 (入館料無料です)

館内の撮影は禁止されていますが、渋沢栄一に関する様々な資料が展示されていました。

記念館の裏手にひっそりと高さ4m超えの渋沢栄一の銅像が立っています。

視線の先には、隣接する「青淵公園」が、さらにその先には赤城山を望む事ができます。

血洗島の鎮守▪諏訪神社。現在の拝殿は、渋沢栄一が寄進したものです。

大河ドラマ「青天を衝け」でも獅子舞が登場していましたね。

薬師堂

水藩烈士弔魂碑は岡部藩に討伐された天狗党浪士2名が葬られた地。

常夜灯(西)

深谷宿の西のはずれにあたります。高さ4mもある中山道でも最大級のもの。深谷市指定文化財。

pm3時過ぎました、今日はここまで!

 


駅から散歩▪ 渋沢栄一「深谷市 誕生地 中の家を訪れる」

2021年10月09日 | 日記

 2024年から新しい一万円札の肖像に描かれることになった渋沢栄一の誕生の地である埼玉県深谷市を訪問して来ました。

埼玉県生まれの最も偉大な方でありますが、これまであまり馴染みがない方が多かったか知れてません。(個人の感想です)。

旧渋沢邸「中の家(なかんち)」の正門

堂々とした門や塀の構えから豪農だった雰囲気が感じられます。渋沢栄一が生まれた当時には農業▪養蚕▪藍玉染料製造など手広く事業を行なっていたそうです。

渋沢栄一は天保11年(1840年)にこの地で生まれました。

青淵翁とは渋沢栄一の雅号(がごう)本名以外につける風雅な名前のこと。

入口の門から直ぐの左手に等身大の渋沢栄一の銅像、24歳の時出家からの姿なのでしょうか▪▪▪

台座の銘板に「若き日の栄一  Eiichi in Paris 1867」とありますから、28歳のとき徳川昭武(15代将軍慶喜の弟)随員としてフランスのパリに行った時の姿なのだそうですが、マルセイユで撮った写真姿から造られています。

南向きに建つ旧渋沢邸「中の家」の母屋。

中の家を妹夫婦が明治28年に建てました。屋根に「煙出し」と呼ばれる高窓を付けた養蚕特有の母屋です。

どの建物内には入れませんが、外からの見学です、敷地を無料で見学できます。

母屋の室内。80歳代の渋沢栄一さんをモデルにしたアンドロイドが迎えてくれた。

母屋の家屋。「NHK大河ドラマ青天を衝け」吉沢亮さんイケメン

お庭側からの母屋。

屋敷の東側には第一土蔵と東門を挟んでその右に第二白壁。土蔵

土蔵「第2」

北面の屋敷林の一角に立派な石碑が三基、左から栄一の母 えい の石碑。隣接して 父 渋沢市郎左衛門の碑、右隅は平九郎の石碑。

「渋沢平九郎追懐碑」渋沢栄一の見立養子で幕末の飯能戦争で官軍との戦い敗れ、21歳で自刀した平九郎を偲び祀った石碑。

主屋の内部は見学出来ませんでしたが、思い出に残る渋沢栄一の生家でした。