鳴中ブログ

~鳴門中学校の日常をお伝えします~

ハウステンボス

2017年11月22日 07時47分51秒 | 日記
B組の集合写真です。

ハウステンボス

2017年11月22日 07時43分09秒 | 日記
A組の集合写真です。

修学旅行 ハウステンボス

2017年11月22日 07時39分14秒 | 日記
ハウステンボスで自由行動です。

修学旅行 2日目

2017年11月21日 08時04分23秒 | 日記
2日目の長崎市内自由研修に出かけていきました。みんな元気です。

修学旅行 ホテル到着

2017年11月20日 17時39分50秒 | 日記
平和記念公園にて平和式典、見学を行いました。その後、ホテルに到着しました。

修学旅行 長崎到着

2017年11月20日 14時23分25秒 | 日記
修学旅行団、長崎駅に到着しました。今から原爆資料館にて被爆体験講話を聞かせていただきます。

修学旅行 新幹線

2017年11月20日 10時00分48秒 | 日記
バスが渋滞でひやひやしましたが、無事に新幹線に乗っています。

修学旅行 出発式

2017年11月20日 06時32分23秒 | 日記
当日の体調不良者もなく出発式を終え、修学旅行団出発しております。

修学旅行 結団式

2017年11月19日 10時25分46秒 | 日記
本日、2年生の修学旅行に向けた結団式が行われました。
実行委員が中心となって、式の進行や隊形の最終確認を行いました。
明日は全員が元気に出発できることを願っています。

人権コンサート

2017年11月10日 11時12分35秒 | 日記

  


11月1日に、人権コンサートをおこないました。

サーティーグラスボーイズの方々が、珍しい楽器を紹介しつつ、素晴らしい演奏をしてくだいました。

鳴門西小学校、東小学校からも上級生が参加しました。

生徒たちも、手拍子をしたり、教えて頂いた手話をしたりして、会場は一体感に包まれました。

心に響く詞をすてきな音楽に乗せて届けてくださいました。

鳴門市中学校駅伝大会

2017年10月31日 19時01分44秒 | 日記


10月30日に大塚スポーツパークにて鳴門市中学駅伝大会が行われました。結果は男子が優勝し見事に2連覇!女子は惜しくも2位。しかし,1位との差は5秒というとても接戦したレースでした。
強風というコンディションの悪いなかではありましたが,3年生吉田君の元気いっぱいな選手宣誓通り,日頃の練習の成果を発揮し,仲間との絆をタスキに託した素晴らしい走りを選手全員が見せてくれました。また多くの区間での入賞を果たすことができました。
次は来月11月12日に行われる徳島県中学駅伝大会に向けて,さらにいい記録を残せるよう意気込んでいます。応援のほど,よろしくお願いいたします。

男子結果
1位 鳴門(1:02:23)
女子結果
2位 鳴門(49:04)


平和教育講演(横山先生)

2017年10月14日 08時46分45秒 | 日記



10月13日(金)に横山正先生が来校し、2年生に向けてご自身の空襲体験を話してくださいました。2年生は事前に、横山先生のお話をもとに作られた鳴門一中の人権劇の映像を見ていましたが、実際にお話をうかがうことで、今まで遠い話と感じていた戦争がより身近なこととして受けとめられたように思います。

【横山先生の講演内容】
 横山先生は昭和9年生まれ、両親は和菓子屋を営んでいた。しかし、戦争が始まるとお菓子は贅沢品として販売できなくなる。唯一販売を許されたのは『いも』だけだった。
 横山先生が小学校(当時は国民学校)1年の時にアメリカとの戦争が始まった。陸軍養成学校の12,3歳の生徒が国民学校に来て「諸君!戦争に負けないようにがんばろう!」と檄を飛ばしていた。世の中全体が戦争の雰囲気だった。
 戦争が始まると物資がなくなり、配給制になった。数か月に一度、学校で靴の抽選があり、当たったら担任の先生から切符をもらって買いに行くことができた。武器をつくる鉄が不足して、家庭にある鉄は供出させられた。鉄の門扉などはなくなった。横山先生の家では、栗まんじゅうを焼く機械を出さなくてはいけなかった。
 6歳上のいとこは撫養中(現在の鳴門高校)に通っていたが、空軍に志願し、テニアン島で死んだ。親戚の中でいちばん優秀だと言われていた子だった。夢もあっただろうに。命を命と思わない風潮だった。
   *資料〈 神風特別攻撃隊の出陣前の手紙(19歳・レイテ島没) 〉
   *資料〈 召集令状(赤紙) 〉
 5年生の頃、日本はどんどん玉砕していき、戦場の島はアメリカに占領されていった。アメリカは占領した島に飛行場をつくり、そこからB29戦闘機で日本まで日帰りで爆弾を落としに来た。空襲の標的は、まずは軍需工場のある所、それから大都市、中都市へと移っていき、そのうちに徳島のような小都市も標的になった。アメリカは日本の家屋の模型を造り、よく燃える爆弾や油を研究していたらしい。
 6月22日は空襲警報が出ていたので学校は休みだった。空襲警報から警戒警報になったので、母からおつかいをたのまれ、近所のおばさんのところへもんぺを持って行った。弟もついてきていた。おばさんは真新しい鉛筆を横山先生と弟に1本ずつくれた。物のない時代で、新品の鉛筆はとてもうれしかった。弟と二人、畳に寝そべって鉛筆で字を書くまねをしていた。そこからの記憶はない。正気を失ってぼんやりしていたのだと思う。気がついた時、周りは土けむり。顔が濡れているような気がしたので手をやると、血が出ていた。富田小学校が救護所になっていて担架で運ばれた。隣にいたはずの弟のことは忘れていた。手当をしてもらい、家がどうなっているか気になって帰る途中、担架で運ばれて来た弟と出会った。その時に弟と一緒におつかいに行っていたことを思い出した。弟はずっと重傷だった。そのまま弟に付き添い富田小学校に戻った。小学校の保健室が仮の救護所になっていたが傷病者がとても多く、弟は待合室で手術した。お医者さんは、傷があと1㎝ずれていたら即死だった、と言った。廊下で手当てを待つ人たちと一緒に並んで座って、大人が迎えに来るのをじっと待った。隣に座っていたおじさんが励ましてくれた。
 父が来てくれて、母が若林病院に入院しているということで、弟を担架に乗せて運んでいった。一緒に担架を担いでくれていたおばさんが、途中で横山先生が裸足なのに気づいて、自分の靴を脱いで履かせくれた。自分は裸足のまま歩いていったおばさんの優しさが心にしみた。母は家の下敷きになっていたところを近所の人が助け出してくれていた。肋骨が2,3本折れていた。
 母と弟はそのまま入院し、一家は板東の親戚の家に疎開することにした。小学校の担任の先生が、転校することを残念に思って先生の家に下宿することを提案してくれた。とてもありがたかったが、空襲の時のことを思うと、徳島にいるのは怖くて、鳴門に行くことにした。
 7月3日の夜中から4日の未明にかけて100機のB29が徳島に爆弾を落とした。(徳島大空襲)焼夷弾が街の周りから中へ中へと焼いていき、逃げ道を断っていた。横山先生は板東へ疎開した後だった。下宿を勧めてくれた担任の先生の家も焼けてしまっていた。
   *資料〈 空襲後の徳島市内の写真 〉
 その後、お母さんは退院したが、病気で亡くなった。弟は重傷で1年入院していた。戦争が終わっても物資は不足していて配給が続いていたので、配給の日は横山先生が学校を休んで並んだ。同級生が勉強している中、学校を休むのはつらかった。
   *資料〈 空襲警報の音 〉
 空襲警報の音を聞くと今でもどきっとする。転校先の学校ではお昼にサイレンが鳴るのだが、その音と空襲警報の音が同じで、その音を聞くのがとてもいやだった。
 戦争は、その街の文化・歴史・自然すべてを奪っていく。たくさんの命を奪い、人々の心や体に大きな傷を残し、人生も変えていく。戦争は始まったら止められない。二度と起こしてはならない。修学旅行地の長崎でも、現実に何があったのかをよく学び、戦争や平和についてしっかり考えてきてほしい。
  
【生徒の感想から】
○徳島の空襲について、僕は正直、小規模なものだと思っていましたが、実際には大規模なも のであったと聞いて驚きました。横山先生のお話からどれほど悲惨なものだったか想像する ことができました。焼け野原と化した徳島の写真を見たときは、とても悲しく感じたのと同 時に、戦争に対する怒りがわいてきました。
○横山先生の話を聞いて私の心にいちばん深く残った言葉は「二度と空襲警報が流れる世の中 が来ないように平和を守っていく」という言葉です。私は今日初めて空襲警報を聞いて、怖 くて鳥肌がたちました。実際にこの警報が鳴って、たくさんの人々の尊い命がこの徳島県で も奪われたことを聞いて、とても悲惨なことだと思いました。
○長崎や広島の原子爆弾については知っていたけど、自分の住んでいる徳島の空襲のことはあまり知らなかったのでいい勉強になりました。実体験だったのでさらに戦争の悲惨さが伝わってきました。コンクリートの建物以外焼けてしまっている写真を見て、徳島もこんなにな ってしまっていたことにびっくりしました。これから先、たくさんの犠牲者が出た戦争が起 こらないように、今、自分たちができることを精一杯していきたいと思います。
○戦争をして、得るものより失うものの方が圧倒的に多いと思います。こんなに簡単に人の命 を奪えるものはないと思うので、戦争というものはあってはならないものだと思います。改 めて平和の大切さやありがたさがよく分かりました。
○お話の途中、空襲のサイレンを聞いていたら頭の中に逃げまどう人々の声やB-29 が飛ぶ音 や炎の燃え上がる音が聞こえてきます。とてもむなしいです。僕たちはその現場を見たこと はないですが、それを他の人に伝えていくことが、今、僕たちにできることだと思いました。
○おどろいたことがたくさんあって、一つは18歳や19歳といった少年が戦争に行かなけれ ばならないということです。横山先生が言っていたように18歳や19歳という年は夢や希 望をたくさん持っています。それなのに、戦争によってそれらが壊されました。私は話を聞 くまであまり実感がわきませんでした。話を聞いたり、写真を見たり、サイレンの音を聞い たりして、戦争は少し前まで起こっていたんだと思いました。これからもたくさん勉強して いこうと思いました。
○家にある鉄をとられたり、くつが抽選で買える人が決まったりという話を初めて聞きました。 今の自分たちは、ほしい物を親に買ってもらって、好きなものを好きなだけ食べて、本当に 贅沢しすぎているなと思いました。戦争についてもっと学習して、平和につながることで自 分たちにできることを考えて行動に移していきたいと思います。
○横山先生のお話を聞いて、やっぱり戦争は二度としてはいけないことを改めて思いました。 先生が最後に言っていた「戦争は殺し合いだ」という言葉が心に残っています。人の尊い命 を簡単に奪ってしまうことをしてしまうのはあまりにも無残で恥ずかしいことだと思いまし た。今、私たちが平和に一日一日を何とも思わずに過ごせていることは、とても幸せなこと なんだ、と思い知りました。
○横山先生のお話を聞いて心に残ったことは、銃の弾を作るために鉄製の物を国に供給しなけ ればいけないということでした。自分は、たくさんの思い出がつまった物を供出するという ということは考えられません。戦争によって、たくさんの物や命を失ってしまうことを改め て痛感させられました。
○いちばん心に残ったのが「赤紙」です。いつ郵便で来るかも分からないのに、家に「赤紙」 が来たら絶対に戦争に行かなければならないのは僕には考えられないぐらいつらいことだと 思いました。なぜなら、今まで育ててくれたお母さんやお父さんがいて将来の夢がある今、 いろんな人と別れてしまうのはいやだからです。これからも「戦争」のことについていろい ろなことに疑問を持ち、学習していきたいと思います。

生徒総会

2017年10月12日 18時38分01秒 | 日記
  


 10月5日(木)5時間目に生徒総会が行われました。
1学期に1度生徒全体で意見を出し合い、学校をよりよくするために話し合っています。

 各クラスや専門委員会からは1学期の反省と2学期の目標について発表がありました。
クラスからは
「みんなが仲よく元気に生活できた」
「行事を通してクラスの団結が高まった」など、
よかったことが多く発表されました。

また、「3分前学習が十分にできていなかったので2学期はがんばりたい」など、
今年度の生徒会の目標の『3分前学習』について意識して努力する姿勢も見られました。

 最後に生徒会長が、学級や委員会からの目標をしっかりと守り気を引き締めていこう、
去年の生徒総会の要望で改善した設備などを大切に使っていこう、
3分前学習を徹底し、学校全体で高め合ってよりよい鳴門中学校をつくっていこう、
と力強い呼びかけをして閉会しました。

一人一人が鳴門中学校をつくっていることを自覚し、さらにがんばってほしいと思います。

人権問題意見発表会

2017年07月03日 12時26分02秒 | 日記


6月30日に、人権問題意見発表会をおこないました。

各クラスの代表が、人権問題について、日頃感じていることやこれまでに学習してきたことについて発表をしました。
どのクラス代表も、自分の意見をはきはきと発表できました。

第3学年『識字学級の皆さんとの交流学習会』

2017年05月30日 19時38分55秒 | 日記
5月25日(木),「市場・川崎識字学級」で活動されている皆さんと交流学習会を行いました。第2学年の1月に計画していたところ,インフルエンザによる学年閉鎖で延期になっていましたが,去る5月25日(木)鳴門市人権福祉センターにおいて,識字学級生の皆さんや共学者という立場で参加されている皆さんと交流学習をすることができました。
3年生は今まで様々な人権学習を重ねてきました。同和問題を学習していく中で,差別の起こりや許せない差別と闘ってきた歴史について学んできました。昨年12月の中原サヲ江さんのお話からも,現在もなお形を変えながら明らかに差別が存在していることを学ぶことができました。しかし,差別が見えにくい形で存在する現在,生徒たちもなかなか「自分のこと」として捉えにくいのが現状です。今回の交流学習会では,中原サヲ江さんから識字学級の活動についてや,問題についていろいろ聞いて帰って下さいというお話の後,「解放歌」「市場・川崎識字学級の歌」をいっしょに歌い,その後6班に分かれていろいろな質問に答えていただきながらたくさんのことを教えていただきました。
班ごとに内容は異なりましたが,仕事のための資格を取るために数学をまず習おうと思い識字学級に通われたり,小学1年生の時に,小さい弟や妹の面倒を見るためきょうだいたちを連れて学校に通ったところ,先生にひどく怒られ学校に行かなくなって勉強ができなかったお話や,差別を恐れず地区外から嫁いできて自分の生き方を貫いている方のお話など,本当にたくさんのことを学び,教室では聞けない生の声を聞かせていただき,生徒たちも真剣に耳を傾けていました。



    (中原サヲ江さんのお話) (班に分かれて交流学習)

 
 班での交流学習のあとは,「母は闘わん」の歌を手話を交えて教えていただいたり,「宣言」をいっしょに朗読したり,1時間30分という時間でしたが,「自分の生き方」についても真剣に考える貴重な時間となりました。生徒代表のお礼のことばの中にもありましたが,差別をする人がいるから差別がなくならない,僕たちはまよわず差別をしない人になるということをしっかり心に刻むことができたと思います。
 「市場・川崎識字学級」の皆さん,本当にありがとうございました。



   (生徒代表お礼のことば) (「母は闘わん」を一緒に手話を交えて歌う)


【生徒のお礼の手紙から】
○私が識字学級の皆さんとの交流学習会でいちばん感じたことは,あまり見えなくなってきているだけで差別は残っているということと,それをなくしていくのは今の私たちなんだということです。今まだ残っている結婚差別や就職差別など詳しいお話や体験したお話を直接伺うことによって改めて自分の知らないところでこんなにもはっきりと差別があるんだと感じました。それを私たちがなくしていかなければいけないと強く思いました。
○識字学級や差別についてお話くださり,ありがとうございました。とても貴重なお話を聞くことができました。差別の厳しさや辛さを改めて知ることができました。今回の交流学習で「差別はダメ」「差別をなくしていきたい」と考えるだけでなく,差別をなくすために私たちの力で,行動で差別をなくしていこうと思いました。私は差別をなくすために,差別についてまわりの人に,様々な人に伝えていきたいと思います。
○私の心に残ったお話は3つあります。ひとつめは,自分の住所をいうことがとても苦痛だったということです。今私は自分の住所を抵抗なく言えます。もし言えなかったらと考えてみると本当につらいことだと思います。ふたつめは,市場・川崎識字学級の歌の歌詞についてです。この歌の歌詞は当時の識字生の方が話し合って悩んで悩んで,やっと作り上げた歌だと教えてもらいました。その中の3番の歌詞の「ともに手をとり立ち上がろうよ・・・・・・」のところが,あたりまえのことを言っているはずなのになぜかものすごく心に響きます。仲間と一緒にがんばっていこうという勇気がもらえる歌詞だと思います。3つめは,差別がこれから先どうなっていくかは私たちにかかっているということです。私たちが差別をなくそうと努力すれば,いつかは必ず差別がなくなると思います。絶対に差別をしないという気持ちでこれから生活していきたいです。たくさんのことを学べました。本当にありがとうございました。