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嘯くセリフも白々しい

主に、「バックパッカー」スタイルの旅行情報を体験記のかたちで書いています。少しでもお役に立てば嬉しく思います。

ソフィア ブルガリア旅行6

2012年07月30日 | ブルガリア旅行(2012年6月、7月)
2012年6月29日~7月2日

 この街には3泊した。以下に、その経験から得られた情報などを雑多に記述する。

宿について
 私は外国を旅行する場合、原則として泊まる所に予約を入れることをしない。そのやり方でほぼ毎年のように日本を出て10年以上になるが、ここ数年は、周囲の風潮がちょっと変わってきたなと感じていた。それは、事前に宿を比較検討して予約する利便性や効率性が、ネットの普及により飛躍的に高まってきたと思えることである。旅行情報を検索しているとホテル予約サイトがやたらと出てくるが、そこでは自分のような貧乏旅行者が泊まる安宿も多く紹介されている。それらについて最新の料金などを比較し、好みの所が見付かったら即座に寝床を確保することのメリットは、決して小さくない。私はブルガリア旅行1で書いたように、細かく予定を立てずいろいろなことを行き当たりばったりに決めるのが好きだ。予定がいちいち決まっていたのでは、急に気が変わったり、交通機関のストライキや気象の急変に遭遇したりと状況が変化した場合、柔軟に対応できない。しかし泊まる所を予約した方が、経済的にも、現地で宿探しをする労力の観点からも、より効率良く旅行できるとなると幾分心が揺らぐ。そこで今回は、最初に訪れる都市であるソフィアの宿だけ、ネットで予約を入れてから出発した。

 選んだのはeasyHotel Sofia(108 Aldomirovska Street, Sofia 1330)で、Agodaというホテル予約サイトを通して手配した。ここへ決めた理由を以下に列挙する。
・個室へ泊まりたかったが、共同のシャワー・トイレは避けたかった。私にとって、これらの設備が部屋に備わり自分だけがいつでも使える状態にあるかどうかは、宿の居住性へ重大な影響を与える。選んだホテルは全室シャワー・トイレ付きだった。
・今回の旅行では、1泊の宿代について上限を40Lvか20ユーロと決めていた。このホテルにおけるシングル又はダブルの1泊は、ネットで予約すれば19ユーロだった。なお、飛び込みで行った場合は23ユーロとのこと。
・実際に泊まった人がブログでここを紹介していた。夫婦らしいその人たちは何回かブルガリアを訪れており、ソフィアでは決まってこのホテルを使うようだった。後述するがここは他の一般的なホテルと少し違った特徴を持っていて、そのブログにも好き嫌いが分かれるだろうという意味のことが書かれている。しかし私には気にならなかった。

 ではその、他のホテルとは違う特徴とは何か。主なものは次のとおりである。
・チェックインは15:00からだが、8ユーロで13:00からが可能
・チェックアウトは10:00までだが、8ユーロで12:00までが可能
・部屋の掃除8ユーロ
・ベッドシーツ交換4ユーロ
・タオル交換1枚2ユーロ
・テレビ視聴24時間2ユーロ
・Wi-Fi利用24時間2ユーロ
・荷物預かり1個2ユーロ
 私の泊まった部屋はダブルベッドをやっと置ける程度の広さで、もちろん机や椅子などない。窓から見えるのは、中庭のような物を挟んで50メートルほど離れた対面にあるマンションのベランダだった。通りに面した部屋ではもっとマシな景色かもしれない。壁は薄い。隣の部屋へ朝5:00に出発するカップルが泊まった時は、3:00からその話し声などが聞こえた。
 要するに、必要最低限のものしか提供しません、それ以上のことを要求するならカネが必要ですよという姿勢を徹底した宿なのだ。これで建物や設備が古く、シャワーからの湯量が貧弱で、エアコンも有料なら誰も泊まらないだろうが、これらは幸いにもそうしたことはなかった。清潔かどうかも大きな問題だが、これは個人の主観に大きく依拠すると考えるため言及を避ける。なお、私が接したスタッフは全員英語を話したのでコミュニケーションに問題はなかった。

 こうした特徴を持つeasyHotel Sofiaだが、私は日本から3泊の予約を入れ、そのとおりに3泊した。繰り返しになるが自分にはこれらの特徴が全く気にならなかったし、不要なサービスが削られることで料金が安くなるなら、むしろ大歓迎である。自分が経験したり調べたりした限りでは、シャワー・トイレが付いた1泊40Lvか20ユーロ以下の部屋を首都ソフィアで探し出すのは決して容易ではなく、地方でも都市によって難しい場合がある。このホテルを知ることができ、実際に泊まれたのは僥倖だった。私は毎日、ベッドの上に新聞紙を敷いて、FM放送の受信もできるMP3プレーヤーに外部スピーカーを接続し地元のラジオを聞きながら、近くのスーパーで買ったワインとパン、肉のパテやサラミで一人宴会をした。

ツーリストインフォメーションについて
 前回書いたように、到着初日にホテルを目指す際、道に迷った。原因は地図の読み間違いという単純なものだったが、初めて訪れる国と都市、しかも入国した当日、時間はもう夕方とあってほんの少し焦った。もう自分の力ではどうにもならんと判断し、現地人に尋ねることとしたが、そこら辺を歩いている一般人では心もとない。この国に限ったことではないが、人々には自分の知らないことでも自信満々で口にする傾向があるようで、その被害に遭った経験を記してくれているブログを事前に見ていた。信頼できる情報源に頼る必要があった。
 この街にツーリストインフォメーションは二つあり、まず、その時にいた場所から近い方を目指した。これは歩き方によるとブルガリア全体のインフォメーションで、しかもよく見るともう閉まっている時間だった。場所も結局よく分からず、二つ目の物へ向かった。
 こちらはソフィアのインフォメーションで、ソフィア大学そばの地下鉄駅施設内にある。ほんの小一時間前に空港からバスで着いた場所であり、やれやれそこへ戻ることになるのかよと思ったが、ほかに選択肢はない。
 結果は、このインフォメーションに大感謝であった。流暢に英語を話し説明も分かりやすい職員のにいちゃんと、彼がくれた市街地図のお陰で、今度は全く迷うことなくホテルへ着くことができた。そしてバス、トラム、トロリーバスの路線図も兼ねているこの地図は、ソフィア滞在中ずっと役に立った。

地下鉄などについて
 道へ迷った時に地下鉄へ乗ったり降りたりを繰り返し、また投宿後は地下鉄駅を使うのが一番便利だったこともあって、これがこの街で最も頻繁に乗った交通手段だった。歩き方には料金が1.40Lvとあるが、バスなどと同じ1Lvだった。切符は、小銭があれば自動券売機で、なければ窓口で買った。

 カルタという一日乗車券を買ってみた。地下鉄、バス、トラム、トロリーバスに乗り放題で値段は4Lv、これらに4回乗ればもう元が取れたことになる。後述する国立歴史博物館を訪れた日に使ったのだが、地下鉄駅へ行き窓口へ「カルタ」と言うも、なぜか通じない。もう一度言っても、やっぱり通じない。綺麗な顔立ちをした窓口のおばちゃんは「はぁ?」という表情で何か別の名前を言った。私は、いやそれじゃない、ちょっと待ってくださいというジェスチャーをしてそこから少し離れた。なぜ通じない? 何が悪いんだ? カルタという名前じゃないのか? 悩んでいると突然、おばちゃんがこちらへ向かって叫んだ。
「カルゥゥタァ?」
 ものすごい巻き舌である。そうか、こう言わなければ通じないのか。だが私は、世界各地の言語でたまに聞くこの発音が苦手だ。「ダー(はい)」を連発し、首を10回くらい縦に振った後、おばちゃんを真似して言ってみた。
「カるータぁ」
 彼女の発音の足元にも及ばない。おばちゃんは綺麗な顔に微苦笑を浮かべながら、名刺くらいの大きさの紙を取り出した。印刷された年・月・日のうち、今日に相当する箇所へそれぞれパンチ用の鋏で星形の穴を開けていく。明るめの紫1色で刷られた、偽造防止用のデザインが美しい切符だった。

国立歴史博物館への道
 私は外国へ行くと大抵、こうした「国立博物館」とか「国立歴史博物館」の類いを訪れる。その国の現在や過去における全体像を比較的簡単に把握できる気がするからだ。
 ブルガリアの国立歴史博物館は首都の郊外にあるが、歩き方には「2番のトロリーバスで終点下車。所要25分、そこから徒歩1分。」とある。行き方が簡単なので覗いてみることにした。地下鉄でまたもやソフィア大学そばの駅へ行き、地上へ出て2番のトロリーバスへ乗る。しかしこのバスは途中の軍病院がある所で車両基地のような施設へ入って、乗客が全員降り、私も車両から追い出されてしまった。わけが分からないまま近くの停留所へ行き、そこにある掲示やインフォメーションでもらった地図を参考にして、博物館付近の地区を目指す他の路線バスへ乗り継ごうとした。だがそうした車両は一向にやってこない。それならばと思い、2番と同じ道を走るが途中までしか行かない9番のトロリーバスを使って、残りは歩くこととした。
 9番を降り、地図と、頭上にある架線を頼りに歩き始める。これを目印にすればトロリーバスの通る道をたどる場合に迷いようがない。そして少し歩いただけで、一連の事情を理解した。2番や他の路線バスが走るはずの博物館近くへ至る道は、1キロ以上にもわたって工事中だったのである。長い工期なのか、あるいはもうトロリーバスがここを走ることはないのか、架線は寸断されていた。
 帰りは107番の路線バスが通る場所まで歩き、そのバスからトラムへと乗り継いで宿に戻った。


※本記事中の「歩き方」とは、「地球の歩き方」編集室の著作編集による「地球の歩き方」シリーズのA28『ブルガリア ルーマニア』2011年~2012年版(ダイヤモンド・ビッグ社、2011年2月改訂第8版)を指します。

ソフィア空港~ソフィア市街 ブルガリア旅行5

2012年07月27日 | ブルガリア旅行(2012年6月、7月)

2012年6月29日

 入国に際して提出しなければならない書類は一切なかった。入国審査では初めての国なので多少緊張しながら、ブルガリア語で「ドーバルデン(こんにちは)」と言いパスポートを差し出した。だが審査官はしばらく端末の画面をにらみ、「First time?」と英語で念を押してきた程度だった。税関に至ってはフリーパス状態で、ほとんど記憶に残っていない。

 到着ロビーへ出て、ATMでカネを引き出す。今回の旅行では、現地通貨調達をほぼ全てクレジットカードのキャッシングで済まそうと考えていた。予備としてユーロの現金を少し持っていったが、最後まで両替することはなかった。
 ブルガリアの通貨はレフといい、複数形だとレヴァとなる。つまり1だけが「レフ」で、それ以降の金額は全て「レヴァ」。この金額単位をブログでどう表示しようか少し迷った。タイ旅行編と韓国旅行編ではそれぞれ「バーツ」「ウォン」と片仮名で書いたが、このブルガリア旅行編では、歩き方やネット上にある多くのサイトで使われるラテン・アルファベットの表記「Lv」を使うこととした。もちろん現地では「ЛВ.」などとキリル文字で書かれる。なお、レフより下の補助通貨はストティンキで、100ストティンキが1Lvである。
 空港のATMでは、画面で表示された最高額の400Lvを引き出した。

 空港の建物を出て、市街に向かうためバスの停留所へ行く。歩き方には「第1ターミナルからは84番、第2ターミナルからは284番のバス」とあり、私が該当するのは後者だ。他の人のブログなどにも、284番を使った内容の書かれているものがある。だがバス停へ行っても284という表示はどこにもなく、書いてあるのは84番と384番だけだった。出鼻をくじかれた格好で、どうすりゃいいんだと思いながらその辺を歩き回り、停留所がほかにないかどうか調べた。しかし空港建物の両端に相当する場所へそれぞれ1か所ずつあるのみで、どちらも84と384だけを表示している。一方のバス停に交通機関の路線図があり、見ると、市街へ向かうのは84番らしい。なーんだ、第1と第2の、どっちのターミナルからでもこの番号でいいのか、やれやれだぜと思いながらふと気付いたが、そういえば切符をどこで買えばいいのか。新聞などを売っているキオスクでと書いてくれているブログを読んだ記憶があり、周囲を見回したがどこにもそんな物はない。運転手からでも買えるらしいのでまあいいやと思いながらバスを待った。後で帰国する際に再びここへ来て分かったのだが、そのキオスクは空港の建物内にあった。

 目当ての車両がやってきたので乗り込んだ。ドライバーのにいちゃんへ「ビレート、モーリャ(切符、お願いします)」とブルガリア語で言ってみたら通じたようだったが、何か尋ねられた。訊き返すと「エディン?」と言っている。エディン・・・何だろう、出発前に憶えようとした言葉の中にあった気が・・・あー思い出した、これは数字の1だ、にいちゃんは「1枚?」と尋ねているのだ。急いでうなずきながら10Lv札を出すと、チケットとともに硬貨ばかりでお釣り9Lvが返ってくる。釣銭など大して持ち合わせていないのだろう。ATMから吐き出されたカネは50Lv札ばかりだったが、そのうちの1枚分がこの10Lvなど小額の紙幣で出てきて助かった。荷物が大きい場合は更にチケットを買わなければならないらしいが、私のカバンは飛行機内へ持ち込めるようなサイズなので必要ない。
 車内にあるパンチ機を使い、その切符へ自分でパンチ穴を開ける。これをやっておかないと検札が来た時に不正乗車とみなされてしまうのだ。私には昔、イタリアの列車内でパンチを忘れ罰金を払った苦い思い出がある。まあ検札などめったないんだろうけどと思っていたら、この時は本当にあったので驚いた。制服らしい物を着た鋭い目つきの中年女性二人組が乗り込んできて、一人一人のチケットや、電子式の乗車カードをチェックしていく。切符を渡すと、パンチ穴はそれぞれの車両で違うらしく、穿たれたそれが正しいかどうかを見てから半分に千切って返してきた。この84番へは帰国のため空港へ向かう時にも乗ったが、やはり検札があった。

 市街と空港とを往復するこのバスは、市街へ着くとソフィア大学や地下鉄駅がある場所の近くで緑地の区画を一回りし、再び空港へと元来た道を引き返す。つまり、ずっと乗り続けていたら空港へ逆戻りしてしまうわけだ。私は何としてもこの大学や地下鉄駅の所で降りなくてはと、窓外や歩き方の地図を凝視し、車の動きに神経を集中した。
 地図からすればそろそろか、と思われる場所へ来た時、乗客がほとんど全員降りてしまい、その後車両は左折した。ここで一つの区画をぐるっと回って方向転換し、再び空港を目指すようだった。ソフィア大学等のある場所へはまだ着いていないのに人々が皆降りたのは、そうしたバスを早々に離れて、駅や他の停留所などへ歩いて向かうためだろう。私がそのまま乗っていると車両は右折を繰り返し、ある場所を一周するような動きをした。もうここに間違いない。バスを降りると、目の前には大学らしき大きな建物と、地下鉄駅の入口のような物があった。

 こうしてまあまあ順調にソフィア市街まで来ることのできた自分だったが、宿を目指すこの後の過程では、地図の読み間違いから道に迷った。同じ道路を何度も歩いて往復し、地下鉄へ乗ったり降りたりを繰り返した。そうして得られた情報その他は、次回で記す。


※本記事中の「歩き方」とは、「地球の歩き方」編集室の著作編集による「地球の歩き方」シリーズのA28『ブルガリア ルーマニア』2011年~2012年版(ダイヤモンド・ビッグ社、2011年2月改訂第8版)を指します。


成田~ソフィア空港 ブルガリア旅行4

2012年07月26日 | ブルガリア旅行(2012年6月、7月)

2012年6月28日、29日

 カタール航空は成田の第1ターミナルを使っている。乗る便は21:20の出発予定なので夕方に空港へ行くと、建物内は閑散としていた。だが、このくらいの方が人混みで鬱陶しくなく好ましい。
 成田を出た飛行機は1時間ほどで関空へ着いた。ここでも客を乗せ、改めてドーハへ向け飛び立つ。着陸後、そのまま席へいるようにとのことなので機内にとどまっていると、程なく新たな乗客がぞろぞろやってきた。3割ほどしか埋まっていなかった客席がほぼ一杯になる。添乗員らしい人物が他の客へ声をかけており、そうした光景が幾つかあることを見ると、複数のツアーが乗っているらしい。読んでいるガイドブックなどからしてイタリアその他の西ヨーロッパへ行くようだった。

 ドーハ着の定刻は翌日未明の5:20だったが、それより数十分前に到着したと思う。飛行機はいわゆる沖止めにされ、客はバスに乗って目的地や搭乗クラス別に分かれたターミナルへ行く。ドーハが最終目的地の人は青色が目印の「Doha Arrival」の建物へ、私やツアー客たちなど、乗り継ぎ便で他の目的地へ向かうエコノミークラスの客は黄色の「Transfer and Departure」ターミナルへ行くことになっており、バスはそれらの間を巡回する。このことは出発地でチェックインする際に説明されており、搭乗券は自分の使うターミナルと同じ色の厚紙カバーに入れて渡される。間違えようがないのだが、夜明け前なので外は真っ暗であり、黄色いターミナルといってもこれじゃ分からないなあと思った。他の日本人客たちもバスの中でそう言いあっていたが、何度も来ているらしい添乗員が目当てのターミナルへ来た時に皆を誘導して降りていくので、私もそれに倣った。しかし後で気付いたのだが、建物も黄色だったのかもしれないが、ターミナル入口に掲げられた表示がその色で光り輝いており、しかもデカデカと「Transfer and Departure」と書いてある。外が暗くとも一目瞭然なのだった。

 ターミナル内で保安検査を受け、次に乗る飛行機のゲートへ行く。検査場を出た場所で日本人のグループが四つほどできており、やはり添乗員らしい人物がその中心にいて何か喋っていた。こんなにツアー客が乗っていたのだ。
 この乗り継ぎターミナルは広いものの、免税店や飲食店、それに大量に置かれたベンチで雑然とした印象を与える。それでも明け方は余り人影がなく静かであり、旅客たちは横たわることのできない構造になっているベンチへ座って仮眠を取っていた。が、時間がたって空が明るくなるにつれだんだん乗客が増えてきて、太陽が完全に昇った頃にはもうどこもかしこも人だらけである。肌や髪の色、話す言語、そして恐らく国籍はどの種類にも偏らず実に様々だった。

 ソフィアへ向かう便の出発予定は8:35なので、その1時間くらい前に搭乗ゲートへ行った。ベンチが並ぶ場所でぼーっと待っていると間もなく手続が始まり、え、もう?と思いながらゲートを通る。するとその向こうには更に、ベンチを二つか三つ置ける程度の小さな待合室があった。建物のオマケにしか思えないこんな空間を、どうしてわざわざ設計し、実際に作ったのか、世界にはいろんな考え方があるもんだと妙に感心した。ここから、やはり沖止めにされた飛行機へバスで向かうらしいのだが、このオマケのような空間へバスが既に待機しているわけでもなければ、すぐにやって来るわけでもなかった。だが、ゲートの職員は乗客の手続をどんどん進め、人を次々とこちらへ送り込んでくる。そんなことをすれば当然の結果としてどうなるかというと、あっという間にこのオマケ空間は日本の満員電車並みの混雑となってしまった。奇妙なこの空間の存在、職員による不可思議な状況判断、それらが織り成す我が祖国の交通機関に匹敵する人口密度。シュールな状況を自虐的に味わっていると、ようやくバスが来た。
 乗り込んだバスが飛行場を走り、機体の前に到着する。しかし車のドアが開いても、職員が通せんぼをしてなかなか客室への誘導が始まらない。ドアは開いたままで、朝っぱらから吹いている砂漠気候の熱風に我々乗客は容赦なく曝された。やっと搭乗が始まり、それが終わった。だが、離陸したのは定刻より約1時間も後だった。英語その他の言語を使って機長が説明と謝罪のアナウンスをしていたが、私の能力では原因が何なのか聞き取れなかった。

 手際が悪い。これが、往路・復路共に経験した後における、カタール航空の総合的な印象だ。この時に発生したのとほぼ同じような状況は、日本へ帰る際の便でも起こった。早過ぎるゲートオープン、狭い待合室から溢れる乗客、来ないバス、そして飛行機のそばに着いても始まらない搭乗。さらに、物事がスムーズにいかないのは地上だけではない。機内でも、一方の列で食事が終わった頃に、もう片方の列で機内食を配り始めたという時があった。アルコール類を食べ物と同じカートへ積んでおらず、食事の提供が優先されたために、それを食べ終えてトレーが下げられるのと入れ替わりのようにやっと酒が来ることも経験した。
 しかしこれらは、この航空会社における通常のやり方だと考えるべきなのかもしれない。例えば、ゲートを出た後の待合室というものを私は今回初めて見たが、これはソフィアの空港でも存在した。構造の一部にそうした空間を持つ建物が世界に複数あるということは、それが「普通」であり、「一般的」であり、「常識」だと考える人たちがいて、その数は決して少なくないということである。私のような“ゲートを通ったら即搭乗”という手順しか知らない者は、こうした待合室の存在に激しく違和感を覚えるが、逆にこれしか知らない人は、その感覚を不思議に思うだろう。むしろ、こうした待合室が存在しない空港へ来た際、“ゲートを通ったら即搭乗”という手順へ違和感を覚えるのかもしれない。同じように、こう考える人たちがいるのかもしれない。それはつまり、ゲートはできるだけ早く開かれるべきで、そこを通った乗客は小さな待合室へ密集し、その状態でバスが来るまで待機し、飛行機のそばへ着いたら搭乗準備が終わるまで更に待つ、それが「普通」で、「一般的」で、「常識」だ、と考える人たちである。そして、こうしたやり方こそが、この航空会社における通常のやり方なのかもしれないのである。

 話を往路の飛行機へ戻すと、成田からドーハへ行く便が関空を経由するのと同じように、ドーハからソフィアへ向かう便はルーマニアのブカレストに一度着陸する。関空では人が乗ってきたが、ブカレストでは乗客の大半が降りていった。私たちソフィア組は機内にずっといて、人の去った座席へ横になったりした。ブカレストからソフィアへは1時間ほどのフライトで、出発時の遅れをどこで取り戻したのか知らないが、定刻を少し過ぎたくらいの時間に到着した。


旅行のブルガリア語 ブルガリア旅行3

2012年07月25日 | ブルガリア旅行(2012年6月、7月)

 言葉に関しては韓国旅行3で書いたような失敗を二度と繰り返さないために、相応の準備をして臨んだ。しかしいざ旅行を始めると、宿の従業員は大抵英語を話したし、歩き方に書いてある程度のブルガリア語で、交通機関の職員とも意思を通じさせることができた。言葉が分からないせいで極端に困った状況へ陥ることがほとんどなかったので、学習の必要性は結局、まあやらないよりはやっといたほうがいいよね、という程度のものだと思った。もっともこれは、私が人嫌いなので現地人とあまり触れ合わなかっためでもあるのだが。

 だが、人嫌いだからこそ、文字を読めるようになることへは力を注いだ。現地人へものを尋ねるのを最小限にし、自力で各種の表示を読んで行動できるようにするためである。韓国旅行3には現地語の文字読解能力習得に関する自分の考え方や態度も書いたが、旅行先が変わってもそれらは概ね同じだ。

 旅行前に文字を学習した方法はこうだった。まず、ブルガリア語に使われるキリル文字を、ラテン文字、いわゆるアルファベットと対応させて記憶していった。歩き方の「旅の言葉」にある一覧表を紙へ書き写し、トイレの壁に貼り付けて日々眺めた。機械的に憶えるのは難しいと思ったので、実際にそれらの文字がどう使われるのかの用例を添えた。これには「ソフィア」「プロヴディフ」「ヴェリコ・タルノヴォ」など、旅行中に訪れる予定の都市名を使った。これらの原語表記「София」「Пловдив」「Велико Търново」を読めるようになることで、一つ一つの文字に慣れるのである。

 余談だが、

(#゜Д゜)ゴルァ!!

(つД`)・゜・。

(;´Д`)ハァハァ

などの顔文字にある「Д」は、ブルガリア語やロシア語などで使われるキリル文字のひとつだ。ブルガリア語では「ドゥ」と読み、ラテン・アルファベットの「D」に相当する大文字である。小文字は「д」で、こちらの使用例は、

(゜д゜)ウマー

(゜д゜)ポカーン

(゜д゜)こっち見んな

など。え? セリフが違うだけで顔文字は同じだって? 細かいことはキニスンナ(#゜Д゜)ゴルァ!!

 

※本記事中の「歩き方」とは、「地球の歩き方」編集室の著作編集による「地球の歩き方」シリーズのA28『ブルガリア ルーマニア』2011年~2012年版(ダイヤモンド・ビッグ社、2011年2月改訂第8版)を指します。


航空券を手配、ガイドブック ブルガリア旅行2

2012年07月24日 | ブルガリア旅行(2012年6月、7月)
 日本からこの国への直行便はなく、ヨーロッパかその周辺におけるどこかで最低1回は乗り継ぐ必要がある。安価な航空券を探していくと、航空会社とともにその候補地が絞られてきた。アエロフロートを使った場合のモスクワ、トルコ航空の場合のイスタンブール、カタール航空のドーハである。私はドーハを選択した。最も価格が安く、往路と復路の両方で乗り継ぎの際に現地泊がなく、往路では最終目的地であるブルガリアの首都・ソフィアへ着くのが昼間であることが決め手となった。中東の航空会社による、いわゆる南回りの便に乗るのは初めてだ。
 旅行代理店は前年タイへ行った時と同じく、トルノスという所を使った。こうして同じ業者の名前を続けざまに出すと昨今ネット上で話題となった「ステマ」かと言われそうだが、ここが自分の希望に最も沿った航空券を提供していて、実際にチケットを買ったのがこの店なのだからこう書く以外にない。それに、どの旅行代理店や航空会社が、いつ、幾らで、どんな商品を出していたかや、どういう対応だったかなどということは重要な情報だと思う。可能な限り実名を出してそれらに関する経験を記すことは、本ブログにおける趣旨のひとつである。
 2012年6月28日~7月19日の日程で、総額11万円弱だった。

 ガイドブックは、これまたステマかと言われそうだが、韓国旅行に続いて「地球の歩き方」シリーズを選んだ。同シリーズ中の『ブルガリア ルーマニア』2011年~2012年版である。
 だが同書にある「歩き方の使い方」の「現地取材および調査期間」を見ると、「本書は2010年8月~11月の調査をもとに編集しています。」とある。この期間表示にどれほどの信憑性があるのか定かではないが、真実だとすれば、記されている内容は私が現地を訪れる時点から約2年前のデータということになる。このことによる影響は旅行中に何度も経験した。様々なものの値段、交通機関のスケジュールなどが実際と異なるのである。当てにしていた交通機関がなかったり、逆に、歩き方へ書かれていない時間にバスの便が存在して移動がはかどったりした。編集部のサイトを見ると次回改訂予定は2013年1月以降とあるので、こうした齟齬が解消されるかもしれないのは少々先のようである。
 では他のガイドブックはどうか。「lonely planet」の『Bulgaria』最新版は2008年5月の刊行であり、したがって内容はそれより更に昔のものということになる。他の本については出発前にいろいろ調べている過程で全く情報に出会わなかったので、目立った物が特にないのだと判断した。優れたガイドブックがあればネット上などで話題になっているはずである。かつて中米を旅行した際には、情報収集段階で「Footprint」「Handbook」などと呼ばれるシリーズのメキシコ・中米編に関する記述を何度も見た。ロンプラより詳しい箇所があるとの評価も散見されたので、それを購入してから出発したことがある。
 こうしてやむなく歩き方を使ったのだが、前述のようにこのガイドブックと実際の状況との違いを複数回目の当たりにした。そうした体験もこのブルガリア旅行編においては記していく。その際できるだけ正確さを期すために、以下で「歩き方」と書く場合には、それは同シリーズ中の『ブルガリア ルーマニア』2011年~2012年版であることを記事の末尾へ逐一書き添えることとした。ただ漫然と「歩き方のあれが事実と違う。これも事実と違う」と書くのではなく、自分が旅行した時期と内容を明らかにした上で、どの「歩き方」がその経験と異なるのかを明らかにするためである。このブログを読んでくださっている方にはいちいち目障りかとも思うが、御了承願いたい。