大邱(テグ)から江陵(カンヌン)を目指す当日である。まずは大邱の北部市外バスターミナルへ。行き方は、ツーリストインフォメーションの中年女性職員から教えられた方法に、忠実に従うこととした。部屋を出る際にテレビの画面で時刻を見ると、9時を少しまわったところだった。
歩いて東大邱駅へ行き、インフォメーションの裏手にあるバス停へ。そこで708番へ乗るのだが、車両を待っている間に停留所の掲示を読んだ。パルタル市場(パルタルシジャン)という所で降りるので、そこまでにバス停がいくつあるのか数えておく。目当ての車両が来たので、1,200ウォンを払い乗り込んだ。
通過する停留所を数えていったが、予定の数を超えても目的の場所に着かない。どうやら私が読んだ掲示には、屋根やベンチのあるような主だったバス停だけが書かれていたらしい。道端に標識だけ立っているような所がそれ以外にたくさんあって、そういう停留所は省かれていたようなのである。
一方の車内では、韓国語と英語の両方でバス停に関するアナウンスが流れ、電光表示もあった。しかしどちらも何だか心許ない。車両が次の停留所へ向かっているタイミングと、音声や表示が同期しているのか疑わしいのだ。それに、同じアナウンスが2回流れたのでは、と思うようなこともあった。もちろん、自分の聞き取りや読み取りの能力不足という可能性は十分にある。それにしても、この街では少し前まで世界陸上が開催されていて、大勢の外国人が来ていたはずだが、こうした音声や表示に触れたひとはどう思ったのだろう。
だが、停留所を数えるのが無駄だとわかった以上、車内の音声や表示が心許ないと思っても、ある程度それらを当てにするしかなかった。私はそれに加え、窓外の風景へいつも以上に目を凝らした。大仰ないい方だが、自分の身を最後に守るのは、やはり自分なのだった。
どのくらいの時間乗っていたのか憶えていないが、かなり長くバスに揺られていた気がする。パルタル市場では乗り過ごさずに下車することができた。ここで乗り換えである。309、427、323-1の3種類が北部市外バスターミナルへ行くのだが、このうち427番がターミナルの中まで入る。その番号の車両をしばらく待ち、やって来たバスへ同じく1,200ウォンを払って乗り込む。
この車両には、思ったより短い時間しか乗っていなかった。いくつか停留所を通過した後、車が道を外れ、何かの敷地らしい広い場所へ乗り入れて行った。周囲のひとたちはほぼ全員、降りる準備をしている。窓の外にターミナルらしい建物が見えた。ほかの乗客とともに降りて、建物に掲げられたハングルを見上げる。その文字列の先頭は「北部」と読めた。
建物の中へ入って時計を見ると、10時ちょうどだった。宿を出てからバスターミナルへ着くまで1時間かかったことになる。インフォメーションでもらっていたタイムテーブルを見ると、10時出発の便があった。少し迷った。急げば乗れるのか、それともゆっくり次のバスを待つか。ターミナルの中は閑散としている。今日の江陵行きバスがすべて満席とは到底考えられないので、どの便を選んでも確実に乗れるだろう。10時のバスに乗れても乗れなくても、どっちでもいいやと思いながら、とりあえずチケット売場へ向かった。
そこでは職員のおっさんがカウンターにもたれて、窓口のおねえちゃんと和やかに談笑していた。周囲に客はひとりもいない。ふたりの顔にも周りの空気にも、「暇」という文字が大書されているかの如くである。そこへ近づいて「アニョハセヨ(おはようございます)」と声をかけた。ふたりが会話をやめてこちらを見た。
私は「江陵」と言った。
その瞬間、ふたりの顔色が変わった。
おっさんが何か呟きながら猛然とダッシュし、どこかへ消えた。私がおねえちゃんへ20,000ウォンを差し出すと、ほぼ同時にチケットが目の前に置かれた。彼女が発券の機械を操作した手の動きは、目で追えなかった。ふたりとも先ほどとはまるで別人である。おっさんが走り去った方向から、バスを呼び止めているらしい大声が聞こえた。ふたりの勢いにつられて私もチケットを引っ掴み、そちらへ向かって駆け出した。
1台のバスが広場の真ん中へ止まり、今にも動き出しそうだ。それを指差しておっさんが何か言う。うなずきながら、そこを目指して地面を蹴った。走りながら、荷物を担いでこんなことをするのはいつ以来だろうと、頭の隅で考えた。
乗り込んで、運転手へ「江陵?」と声をかけた。運転手はいいから早く座れという顔をして、ペルトがどうのこうのと2回言った。「シートベルトしてね。シートベルト」とでも言ったのだろう。
バスは、私が席へ座らないうちに発車した。おっさんとおねえちゃん、有難うと心のなかで手を合わせた。
バスは途中で1回トイレ休憩をとり、順調に江陵総合バスターミナルへ到着した。
宿はターミナルのすぐ近くにしようと決めていた。
私は江陵の街にはあまり用がなく、その周辺にあるいくつかの小さな街へ、ここから日帰りで行こうと考えていた。江陵ではターミナルより駅周辺のほうが、宿の選択肢は比較にならないほど多い。だがそこへ泊まったら、バスで周辺の街へ行くたびにターミナルとの間を往復することになり、それは億劫に思えた。駅とターミナルとの間の距離は歩けないほどではないが、そんな気になれない場合に市内バスを使ったりしたら、億劫なうえにカネもかかる。なので、ターミナルの近くに宿をとり、そこを拠点にして行動することにしたのだった。
バスターミナルを出ると、すぐ近くにモーテルが数軒並んで建っているのが見える。旅行前に、このうちの1軒へ泊まった経験を書いてくれているひとのブログを読んでいた。そのひとは看板に椰子の絵があしらわれた、これら数軒のなかでいちばん建物が小さく安そうな所を選んでいた。私は、同じことをするのも芸がないと思い、その隣を試そうと考えた。ターミナルから見て、椰子のモーテルの右側である。
40,000ウォンという宿代を提示されてぶったまげたが、建物が大きいし、新しいし、部屋の設備も良さそうだったので妥当な価格なのだろう。量産型ではない窓口のおばちゃんはいいひとで、35,000ウォンへの値下げを申し出てくれた。しかしこちらが提案した、3泊するから1泊30,000ウォンという金額には首を縦に振らない。ちょっと値切りすぎたかなとは思ったが、いったん出した要求を引っ込めることは不可能だ。とりあえず、この辺りの相場を何となく把握できただけでも収穫である。交渉はまとまらなかったが、何度も礼を言ってそこを後にした。
私がその後どうしたかというと、結局、件の椰子のモーテル、その名もMOTEL BALLYへ35,000ウォンで泊まったのだった。ここでも最初40,000ウォンを提示されたが、値引きさせてこの値段となった。だが、窓口の上にある料金表には35,000ウォンと書かれている。この料金表の額と、実際の提示額、値引き後の額は相互にどう整合するのかと疑問に思ったが、もちろんそんなことは訊かなかった。面倒臭いし能力もないからである。
部屋の設備は値段相応だと思う。それまでに泊まった宿のなかで最上級であり、居心地はいちばん良かった。