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嘯くセリフも白々しい

主に、「バックパッカー」スタイルの旅行情報を体験記のかたちで書いています。少しでもお役に立てば嬉しく思います。

旅先で見た、なでしこジャパンのW杯(後編) タイ旅行番外編

2011年08月16日 | タイ旅行(2011年6月、7月)
2011年7月13日
準決勝 対スウェーデン戦


 今度の相手はスウェーデンだ。
 もう何年前だろうか、私は、日本女子代表の指導者へインタビューしたある記事を読んだことがある。現役監督か監督経験者だったと思うが、その発言の一部をなぜかよく憶えている。だいたいこんな内容だった。
「強豪国では、遠征に選手の旦那や子供が付いて来ていて、チームにはベビーシッターまで帯同している。だから選手は精神的にものすごく充実して試合に臨める。こりゃあ戦う前から負けてるなと思いましたね」
 これは、スウェーデンかアメリカの話だったと記憶している。どちらも女子サッカーの超先進国であり、この世界をリードする存在だ。これまで日本は、こうした相手に対し試合で苦戦し続けてきただけでなく、後方支援の実力でも敗北していたというわけである。
 このインタビューから数年が経ち、今回、この「戦う前から負けて」いると思うしかなかった相手と激突することになった。強豪スウェーデンの地位に揺るぎはなく、彼女らが今大会における優勝候補の一角であることはいうまでもない。
 だが、日本は進化した。今の日本チームは、欧米に煮え湯を飲まされ続けてきたかつてのチームではない。今の日本チームは、あのドイツを倒したのだ。日本は、確実に変わってきていた。私は今まで、日本女子代表に関して、善戦してフェアプレーも高く評価されるがここ一番で勝てない、くらいの印象しかもっていなかった。「強い」というイメージはまったくなかったのだ。しかしこのイメージは、ドイツに勝ったことで一変した。今の日本がスウェーデンと戦い、勝利することは相変わらず想像しにくい。しかしだからといって、負ける気もしなかった。

 試合結果は、テレビのニュースで知った。そしてこのスウェーデン1得点、日本3得点と勝利の歓喜、涙に暮れるスウェーデン選手の映像を、その後画面で何度も見た。

 タイのテレビも、日本がヨーロッパの強豪国を撃破していく様子をニュース番組などで取り上げ始めた。概ね好意的な報じられ方だったと思う。
 各種メディアを見ていると、サッカー好きなタイ人が日本へ向ける関心の度合いは決して低くない、と感じられる。タイのスポーツチャンネルを見て驚いたのだが、ヨーロッパの主要リーグと並んで、日本のJリーグに関する情報が扱われていた。試合結果や各チームの順位を伝えるだけでなく、試合の中継まであった。映像は生ではなく録画のようだが、タイ語の実況と字幕付きである。近年、タイのリーグへ行く日本人選手が現れ始めたし、日本は同じアジアのなかでは比較的強いので、興味をもつサッカーファンが増えてきているのかもしれない。

 今ごろ日本では大騒ぎだろうな、と思った。サッカー日本女子代表の知名度は、男子の代表に遠く及ばない。しかし今の彼女らは、あと1勝でW杯優勝である。あと1試合勝てば、世界一なのである。今ごろ日本では著名人から一般人まで、「なでしこジャパン」の「な」すら口にしたことのなかったひとたちが、至る所で急に熱く語り始めちゃってるんだろうな、と思った。まあかくいう私も、顔と名前が一致する選手は澤以外ひとりもいないし、これまで監督の名前すら知らなかったのだが。
 一方、某巨大掲示板サイトでは、相も変わらずお約束の展開が繰り広げられていることだろう、と思った。澤が「澤兄貴」と妙な敬称の付け方をされて親しまれてることだろう。そして、日本女子代表のニュースが取り上げられるたびに掲示板へ貼られる、東スポの「沢がモテていた」と題した、失礼極まりないが微苦笑を禁じえない記事の画像が今回も貼られまくってることだろう、と思った。

2011年7月17日
決勝 対アメリカ戦


 さあこうなると、決勝の中継を何としても見なくてはならない。日本のサッカー代表チームが、全世界規模の大会でその頂点に立つかもしれないのだ。もし実現すれば、性別、年代別のどのチームも為し得なかった快挙である。試合の日には、イサーン最大の街であるナコーン・ラチャシーマー、別名コラートにいた。ここでもテレビ付きの部屋に泊まれた。

 この国の主要英字紙であるBangkok PostとThe Nationはいずれも、アメリカのThe New York TimesやUSA Todayと同じように、紙面がいくつかの冊子に分かれている。主要記事の冊子と、経済、スポーツ、文化など、いくつかの分野別の冊子とに分かれた紙面構成になっているのだった。したがって、主要記事の冊子1面、つまり新聞全体の1面の他に、各分野ごとの1面というものが存在し、スポーツの1面は多くの場合、当日のトップ記事に関する全面写真だった。
 決勝が行なわれる日曜日の朝には、Bangkok Postを買った。スポーツのトップはもちろんW杯であり、これから行なわれる試合の見どころ、注目選手などの記事がある。そしてその1面は、日本サポーターが掲げる巨大な日の丸の写真だった。日の丸の中心に毛筆で大きく「夢」と書かれ、周りが寄せ書きで埋め尽くされている。こうした写真が1面へデカデカと使われることに様々な意味で驚いた。だが、紙面へ目を近づけて寄せ書きを読むと、「ヤットさん」がどうのこうのという書き込みがある。どうやらこれは今大会で撮影されたものではなく、過去に男子の代表が試合をした際の写真らしい。なーんだ、使いまわしかよ、と私はガッカリした。「ヤット」とは某男子選手の愛称である。

 記事に関しては、ふたつの英字新聞とも、W杯に関するものはすべて欧米の通信社による配信記事だった。独自に取材して書かれたものはひとつもなく、少なくとも私が見た限りでは皆無だった。
 外国のスポーツイベントであっても、タイ人選手が登場するとオリジナルの記事が作られることもある。今回の旅行中には、女子ゴルフの大会で活躍した選手に関するものを見た。
 こうしたことはスポーツに限らず国際面などでも同じであり、日本に関するニュースが載っても、それは必ずAPやAFPにより配信されたものだった。

 試合開始は日曜の深夜、月曜の未明である。いったん眠り、夜中に目を覚ましてテレビを点けた。音量を最小まで絞る。新聞には、タイのテレビ局とアメリカのスポーツチャンネルが生中継をやる予定とあった。
 歴史的快挙の瞬間を、画面上とはいえ目にすることができるか。それとも、やはりアメリカは強かった、勝てなかったという結果になるか。
 タイの地方にある、安宿の一室。画面に選手が入場する様子が映った。周りの部屋は寝静まっている。
 テレビから、静かに君が代が流れ始めた。

旅先で見た、なでしこジャパンのW杯(前編) タイ旅行番外編

2011年08月16日 | タイ旅行(2011年6月、7月)
2011年6月27日
グループリーグ第1戦 対ニュージーランド戦


 この試合が行なわれたのは、今回の旅行へ出発する前日だった。各種メディアの速報で勝利を知り、勝って当然とはいわないが、まあこの相手に負けるわけにはいかないしな、と思った。

2011年7月1日
グループリーグ第2戦 対メキシコ戦


 私は携帯、スマートフォン、パソコンなど、インターネットへ接続できる端末を旅行へ持って行かなかったので、ニュースを知る主な手段は地元の英字新聞だった。女子W杯のことなどすっかり忘れて、北部の街チェンマイに滞在していたある日、英字紙を買ったらこの試合の記事があった。勝利と澤のハットトリックを知る。

 タイではBangkok PostとThe Nationというふたつの英字新聞が著名で、どちらも通常は30バーツ、日曜日に少しぶ厚い拡大版となり40バーツへ値上げする。両紙の内容は、タイの国内事情などに疎い私のような人間には、似たり寄ったりで大きな違いはないように見える。個人的には、総合的な印象からBangkok Postのほうが好きである。地方へ行くとどちらも買えないだろうなと思っていたら、チェンマイでは午前中にもう、書店などへその日の新聞が並んでいた。その後いくつかの街で買ったが、当日のものを置いていない所はなく、もちろん値段も定価どおりだった。地方での需要などなさそうに感じていたが、どの街でも英字紙を読めたので有難かった。ただ、私が今回訪れたのは比較的大きな都市ばかりなので、小さな街でも状況が同じかどうかは知らない。

2011年7月5日
グループリーグ第3戦 対イングランド戦


 試合結果が報じられた日に新聞を買わなかったので、この試合自体を知らなかった。

2011年7月9日
準々決勝 対ドイツ戦


 イサーンと呼ばれる東北部へ移動し、コンケーンという街へ行く。その時にこの旅行で初めて、テレビ付きの部屋へ泊まった。しかしまともに映るのがタイとアメリカのスポーツチャンネルだけだったので、何となくESPNを見ていたら、女子W杯のニュースが始まった。決勝トーナメントの組み合わせが決まったという内容だ。ニュージーランド、メキシコを破ったことでグループリーグを勝ち抜いているのは確信していたから、そのままぼーっと見ていた。
 だが、あれっ、と思った。対戦相手がドイツなのだ。組み合わせの方法はたぶん男子のW杯と同じで、あるグループを1位通過したチームが、他のグループで2位だった国と当たるのだろう。今大会の開催国で強豪のドイツが1位以外になるとはちょっと考えにくく、ということは日本は2位だったのか。では、日本と同じ組の1位はどこか。
 ここで初めて私は、グループリーグ第3戦のことが頭のなかから完全に欠落していたのに気付いた。持っていた過去の新聞を引っくり返して調べると、同じグループにはイングランドがいたことがわかった。つまりこういうことだ。初戦でニュージーランドを撃破し、第2戦では澤のハットでメキシコに圧勝した。ところがグループ1、2位を決める試合となった第3戦で、イングランドとの直接対決に敗れ、2位になってしまったのだ。あーあ何やってんだ、ドイツとやることになっちまった、この相手に勝てるわけないだろ、これで今回のW杯は終わったな、と思った。
 アメリカのスポーツチャンネルを見ていると、時たま、グループリーグの名場面を集めたセンスのいいビデオ・クリップのようなものが流れた。ドイツの快進撃だけを取り上げたものもあり、これまたカッコよく、彼女らの強さをよく表した作品になっていた。ドイツは間違いなく優勝候補の筆頭だった。

 イサーンでは3都市へ行き、合計6つの安宿で泊まったり、部屋を見せてもらったりした。料金は約200バーツ~320バーツだったが、それらのうちテレビがなかったのは1か所だけだった。ほかの宿では、どんなチャンネルが映るのかは知らないが、すべて部屋がテレビ付きだった。なお、私がバンコクで定宿にしているゲストハウスはシャワー、トイレ、洗面台のすべてが共同、部屋にはベッド以外ほとんど何もなく、これで250バーツである。テレビはレセプションに従業員用のが1台あるだけだ。決勝トーナメントの期間が、テレビ付きの部屋へ安く泊まれるイサーンにいた時期と、ちょうど重なったのはラッキーだった。

 数日後、再びアメリカのスポーツチャンネルをぼーっと見ていたら、女子W杯のニュースが始まった。試合結果を報じていて、対ドイツ戦の話題もあった。だが、勝敗がまったくわからない。同じ日に行なわれたらしい他のもう1試合と比べ、扱いがすごくアッサリしているのだ。試合の映像はあっという間に終わってしまい、それは日本の得点シーンで終わっていた。いや、そもそもゴールの場面がそれしかなかった。試合以外でも何かしらの様子が映れば、そこから勝敗がわかったりするのだが、日独どちらかの選手が勝って喜んでいるシーンはおろか、試合後のインタビューすら流れない。アナウンサーの言っていることはほとんど聞き取れず、私は自分の英語能力の低さを呪った。
 もちろん、この短い試合映像だけで結果を推測することは可能だ。しかしそれは、自分にはとても信じられないものだった。すなわち、1-0で日本の完封勝利である。だが、相手はあのドイツだ。開催国で、優勝候補最右翼のあのドイツだ。日本が勝つなんてあり得るのか。いや当然、そうなっていれば嬉しいのだが、なにしろ相手は、有名なセリフを借りれば最高で金、最低でも金が今大会の目標に違いないあのドイツだ。それがこんなに早く負けるなんてあり得るのか。私はどう考えればいいのかわからなかった。

 今から考えれば、新聞を買って確かめればよかったのだと思う。だがおそらく試合結果が載る日と、次の街への移動日とが重なるなどして、そうしなかったのだろう。勝敗がわからないまま何日かが過ぎたある日、これから行なわれる準決勝の記事を新聞で見た。ここまで勝ち上がってきた4チーム、それぞれの注目選手や監督のコメント、各試合の展望などが書かれている。
 そして、そこにGermanyという文字はなかった。Japanという文字があった。ということは。
「ドイツに、勝ったんだ」
 私は思わず、呟いていた。

バンコク、羽田 タイ旅行15

2011年08月11日 | タイ旅行(2011年6月、7月)
2011年7月25日

 T.T.Ⅱ Guest Houseをチェックアウトして、帰国のためスワンナプーム空港へ。モーチットマイから来る時はラーマ4世通りから歩いたが、宿を離れる時は、より近いシープラヤーあるいはシーパヤーと呼ばれる通りからバスへ乗った。エアコン付きの36番でエアポートレールリンクのパヤータイー駅まで、12バーツだった。

 飛行機が羽田へ着いたのは、定刻より約10分遅れの22時40分ごろ。そしてこの後に、今回の旅行における最後の問題が待ち構えていた。それは、空港の駅から出発する終電に間に合うかどうかである。機内から出て、建物の中を歩き、入国と通関の手続をし、切符を買って電車へ辿り着くのと、最寄り駅までの終電が出るのとどちらか早いか。終電の時間は、旅行出発前に調べてガイドブックのメモ欄へ書いてある。まごまごしているとそれに乗り遅れるのだ。
 しかし、結局それは杞憂に終わった。入国審査と税関ではほとんど並ばなかったし、預けた荷物がないので受け取り場所へ行く必要もなかった。その結果、私は飛行機の中から駅にある券売機の前まで、ほぼ立ち止まらずに来ることすらできたのである。終電の時間など気にせず、電車へ乗ることができたのだった。

 こうして、今回のタイ旅行は終わった。

バンコク~アユタヤー~バンコク タイ旅行14

2011年08月11日 | タイ旅行(2011年6月、7月)
2011年7月20日~22日

 ロンプラのアユタヤーに関する部分を読んでいたら、バンコクから鉄道で行く場合、普通列車はわずか15バーツと書いてあった。タイへ入国した日に乗ったエアコンバスより安い。気が向いたので行くことにした。

 タイの鉄道は何度か使ったことがある。しかしすべてラオスやマレーシアへ行く際に寝台特急へ乗ったのであり、普通列車は今回が初体験だ。荷物を背負い、宿から歩いてファランポーン駅へ行く。窓口にタイムテーブルの紙を突き出して、あらかじめ丸を付けておいた列車の所を指差しながら「ニー(これ)」と言った。本当に15バーツで切符が買えた。
 タイムテーブルの紙は、前日に駅へ行った際にもらっていた。宿からファランポーン駅までは徒歩15分ほどであり、暇なので散歩を兼ね、下調べをしようと思ったのだ。インフォメーションでアユタヤーへ行きたい旨を英語で言ったら、無言でタイムテーブルを渡された。料金を訊くと20バーツとのことだったが、これはORDINARY、すなわち普通列車ではなく、RAPIDの値段だと思われる。

 時間に不正確なことで悪名高いタイの鉄道だが、私が乗った列車の発車時刻はほぼ守られた。だが少し走っただけで、赤信号のためなのか何だか知らないが5分くらい停止し、これが3回ほど続いた。スピードが上がってきたのは市街を抜けるころで、郊外へ出るとようやく一定の速度で走るようになった。アユタヤー着は定刻より30分ほど遅れたが、これは上出来なほうなのではないか。

 アユタヤーの中心部は河に囲まれた島である。駅は島の外にあるので、歩いて数分の所にある舟着場で3バーツの渡し舟に乗った。この舟は対岸へ行くだけだが、同じ船着場を共用している4バーツのものは、河を斜めに渡って安宿街の近くへ行くようだった。私は滞在中、3バーツの舟にしか乗らなかった。

 安宿はTh Naresuanの辺りに集中している。そしてここは典型的な、欧米人バックパッカーの集まる場所だった。外国人向けのゲストハウスが並び、レストランでは外国のポップスが流れるなか、欧米人客や精一杯オシャレしたタイ人が外国人向けに改変されたタイ料理や、タイ料理ではないメシを食べている。バンコクのカオサンやチェンマイで見られる光景と同じである。私はこうした場所を「白人の巣」と呼んでいる。ロンプラに載っているゲストハウスはどれも白人宿化していると思われたので、歩き方から転記したふたつの安宿を目指した。しかし、探し方が悪かったのだと思うがいずれも見つからない。この白人の巣から離れることも考えたが、他の地域にある宿へ行くには短くない距離を移動しなければならず、結局ここで宿探しをしたほうが効率的と考えた。ロンプラに載っていないいくつかのゲストハウスへ行き、部屋を見せてもらうなどしてしばらくうろうろした挙句、そのうちのひとつに泊まることにした。
 ここの名前を憶えていないが、TA's HouseあるいはMT's Houseなどだったと思う。最初に大文字のアルファベット2文字、その後に'sが付いていたのは記憶にある。白人のにいちゃんが管理人のようなことをやっていた。水シャワー、トイレ、ファンが付いたツインの部屋をひとりで使って250バーツ。洗面台がなく、歯を磨いたり洗濯をしたりするときに少し困ったが、それ以外の面ではまずまずの居心地だった。
 しかし夜になると、様相は一変した。近くのレストランでバンドの演奏が大音量で始まり、それが深夜まで続いたのである。さすが白人の巣、悪い意味で期待を裏切らないぜと毒づいて、私は3泊する予定を2泊で切り上げた。

 バンコクへ帰る際も鉄道を使った。ここよりさらに北の駅が始発だった列車は、アユタヤーへほぼ定刻どおりに着いた。しかし、またもバンコクへ入るとよくわからん停車を繰り返し、ファランポーン駅へ着いたのはタイムテーブルに書かれた時刻より1時間が過ぎたころだった。私が乗った往復の列車は一応COMMUTER TRAIN、つまり通勤列車を謳っているのだが、これを使っていたら毎日遅刻だと思うがどうだろうか。

 ファランポーン駅から徒歩で、再びT.T.Ⅱ Guest Houseへ行った。

ナコーン・ラチャシーマー(コラート)~バンコク タイ旅行13

2011年08月10日 | タイ旅行(2011年6月、7月)
2011年7月18日

 FARTHAI HOTELに4泊してそこを出る日、またもや私は迷っていた。それは次の目的地を、当初の計画どおりアユタヤにするか、あるいはバンコクにして、その滞在中に気が向いたらアユタヤへ行くか、だった。旅行を始めて3週間が経とうとしており、その間ずっと、ひとつの街へ2~4泊しては移動するということを繰り返してきた。そのためか、明確に疲れとはいえない、疲れた感じのようなものが体のなかのどこかにたまっていた。バンコクへ行けば定宿にしている、慣れ親しんだゲストハウスがある。帰国はまだ少し先だが、そこへ行って残りの日々をゆっくり過ごすのもいいかもしれない。アユタヤを飛ばしてバンコクへ行くことを考えたのは、こうした理由からだった。
 結論は、タイトルにあるようにバンコクへ戻ったのだが、それまでには若干の紆余曲折があった。それは以下のとおりである。

 まず、バスターミナルへ移動する。ソンテウ乗り場はスラナリー通りの東端辺りにあるが、どの車がターミナルへ行くのかわからない。客待ちで停まっている車両へ、先頭から順番に「ボーコーソー・ソーン(バスターミナル2)?」と訊いていく。首を横に振られ続けたが、あるドライバーが7番のソンテウだと教えてくれた。

 まだアユタヤへ行くかバンコクにするか迷ったまま、ターミナルにあるインフォメーションの前へ立ち、気がつけばアユタヤへ行きたいと何となく言っていた。またも発音が通じなかったが、何度か繰り返すうち窓口のおねえちゃんは理解したようで「アユタヤー」と叫んだ。バンコク行きが集中しているらしい建物を教えられたのでそこへ行く。バンコク行きのバスへ乗り、アユタヤーで途中下車になるのだろう。だが、メジャーな地名を看板に掲げる会社ばかりで、アユタヤーと書いてある所はひとつもなかった。チケットブースの数が多過ぎて、片っ端から訊いていく気には到底ならない。人気路線ばかり集まっている発着場のようで、ひっきりなしに旅客が行き交う。人混みのなかで途方に暮れた。
 ここからバスへ乗るまでの経緯は、よく憶えていない。いつの間にか自分は、行き先をアユタヤーに決めたようだった。客引きに誘われたからだと思うが、ふたつのブースへ行った。ひとつの窓口で何か訊かれて、わからないという仕草をしたらその後は無視された。もうひとつの会社では何も言われず、チケットを買った。119バーツ。すぐに乗車し、すぐに発車した。

 バスは西を目指し、タイ東北部を抜けた。さらばイサーン。
 ところがその後、車がアユタヤーへ行く気配は一向になかった。道路脇には、ここを曲がればアユタヤーで、真っ直ぐ行けばバンコク、という標示が何回も出てくる。バスはアユタヤー行きの道を悉く無視して、バンコク行きの道路ばかりを選んでいるのだ。そのうちとうとう、バンコク郊外の街まで来てしまった。私はチケットを買う時と、発車後に車掌が検札に来た時、「アユタヤー」とはっきり言っていて、それは確かに憶えている。つまり私は、騙されたのか。外国人ならバンコクでいいや、という程度に思われて、無造作に切られたチケットを買わされてしまったのか。それとも、アユタヤーへ行くにはどこかで乗り換えなければならず、車掌は私の行き先を確認しておきながら、乗り換えの指示を忘れてしまったのか。どちらにせよ、私は文句を言いに行くべきなのか。
 私は昔、中米を旅行した時のことを思い出していた。ニカラグアの首都マナグアへ着いて、長距離バスを降り、安宿街へ行こうとした。だが、乗り合いバスのいいかげんな客引きの誘いに乗ってしまい、たった今来た道を戻る羽目になった。この時の私は、客引き兼車掌へクレームを言いまくった。スペイン語は片言以下しか話せないが、その時もっていた語彙を総動員し、車内で怒鳴り散らしたのだ。××へ行け。こっちはお前に××と言った。お前はそうだと言った。だから××へ行け。早くしろ。××はどこだ。こっちは××へ行きたいんだ。若い車掌は下を向いて黙ったままだ。他の乗客たちは目を丸くして、この銅鑼声を張り上げ続ける東洋人を見ている。しばらくして、騒ぎに対して沈黙していた中年の運転手が口を開いた。言葉は聞き取れなかったものの、車掌の味方をし、私を非難しているのがその様子からわかった。私は運転手に対しても怒鳴りまくった。こっちはこいつに××と言った。こいつはそうだと言った。だからこのバスは××へ行く。××へ行け。早くしろ。こいつはそうだと言ったんだ。結局私は、バス停でも何でもない場所で車を降ろされた。料金を後で払う方式だったのが唯一の救いだった。
 だが、アユタヤーではなくバンコクへ向かっているこのバスの中で、そうしたことをやる気は毛頭なかった。そんな気力も体力もなかった。何より、バンコクはもともと、行き先におけるもうひとつの選択肢だった。チケットを買う直前まで、バンコクにするかどうするかで迷っていたのだ。そんな自分が、このバスはなぜアユタヤーへ行かないんだ、バンコクへ行くチケットなど買っていないと大声で言えるわけがない。第一、そんな内容を言えるタイ語の能力などもっていない。それに、ニカラグアでの自分はほとんどまともではなかった。よくよく考えれば、怒鳴り散らしたところで何がどうなるものでもなかった。車掌が謝れば満足したのだろうか。満足しても、バスを降りなければならないことに変わりはない。あの時は、もっと建設的なやり方がなかったのだろうか。
 そんなことをつらつら考え、このままバンコクへ着いてしまうことについてはまあいいやと思っているうちに、バスは見覚えのあるターミナルへと入っていった。

 私が定宿としているゲストハウスは中華街の周縁部ともいうべき場所にあり、加えて、周囲は大きな目印となるものに乏しい住宅街のため、行き方が少し説明しにくい。この時私がとった方法は、モーチットマイを離れることから始まった。番号を忘れたがTh Phahonyothinへ出るバスに乗り、29番へ乗り換えて街の中心へ向かう。いずれも7バーツのバスだった。29番はラーマ4世通りを行き、マハナコーン通りとの交差点を通過するので、その直前にあるバス停で降りる。マハナコーン通りを南へ歩いて、セブン-イレブンがすぐ近くにある角を左折して住宅街の路地へ入り、最初の十字路を右折すると、看板が見える。
 後でよく調べたらモーチットマイからラーマ4世通りへは、159番が直接行っているようである。今後、機会があったら試してみよう。

 その宿T.T.Ⅱ Guest House (516-518 Soi Sawang, Th Si Phraya)へ初めて行ったのは15年前である。当時はほぼ日本人宿化しており、欧米人も少し泊まっていた。その後、歩き方とロンプラの両方に載る時期が続き、繁盛したようだが、今では主にタイ人の長期滞在者が半ば住むようにして泊まる宿となっている。レセプションでシングルと言ったら、ツインの部屋へ通された。シャワー、タイ式トイレ、洗面台いずれも共同、ファンで250バーツ。全館禁煙、入り口で靴を脱ぐ決まり。かつての名残で日本語の本や雑誌、英語のペーパーバックなどが少しあるが、どれも古い。外国人客は欧米人がたまに来る程度で、日本人は珍しいという。