● 浄土宗
●法然上人37年の布教活動から
京都・東山「吉水の庵」。浄土宗を開いた法然上人が、念仏往生の教えを人々に広めるために結んだ庵。法然上人のここでの布教活動は、流罪となった晩年の数年間を除き、開宗の43歳から80歳で生涯を閉じるまでの長きにわたり、浄土宗の中心地となっていました。現在の総本山知恩院がここに建てられました。
ここには、多くの人々が法然上人を慕って集まってきました。教えを聞きにきた僧、さまざまな悩みをかかえた庶民、戦乱にあけくれて地獄行きを覚悟した武者たち・・・。庶民や女性、殺生をした者には救いの道がないとされていた当時の仏教。そんななかで、だれもが平等に救われるという法然上人の念仏往生の教えは人々に光明を与えました。
そうした人々の中から、出家をして法然上人の教えをうける多くのお弟子たちが生まれました。法然上人亡き後の浄土宗を支え、全国津々浦々にまでお念仏の教えを広めたお弟子もいれば、師に先立って亡くなったお弟子もいます。また、名前しか知られていないお弟子も多くいます。
その中から主だったお弟子たちと法然上人との関係を紹介しましょう。
現代に生きる私たちに連綿と伝わる念仏の教え、その礎を築いたお弟子たちの横顔です。
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【教えを広めた弟子たち】
その他の弟子たち
・隆寛(りゅうかん)
・成覚房幸西(せいかくぼうこうさい)
・正信房(聖信房)湛空(たんくう)
・覚明房長西(ちょうさい)
・蓮寂房信慧(しんえ)
●記主良忠(きしゅりょうちゅう)
•然空(ねんくう)
•良空(りょうくう)
•道光(どうこう)
•良暁(りょうぎょう)
•尊観(そんかん)
•性心
●記主良忠(きしゅりょうちゅう)(然阿弥陀仏といい、然阿と略称し、記主禅師と尊称される。)
1199-1287(正治1-弘安10)。浄土宗第三祖。二祖の弁長の教えを継いで専修念仏を弘め、多くの書を著わして浄土宗の教学を大成した。 主として関東に布教し、多数の寺院を建立して門弟の育成に専念し、浄土宗教団発展への礎地を作った。石見国三隅(いわみのくにみすみ)庄(島根県那賀郡)の人。 姓は藤原氏。1211年(建暦1)同国鰐淵寺月珠房信暹(しんせん)の門に入り、14年(建保2)比叡山で受戒した。若いころ天台・倶舎・法相・禅・律などを学んだが、32年(貞永1)故郷の多蛇寺に帰り、不断念仏を行なって数年を送ったという。 その後、36年(嘉禎2)生仏の勤めにより九州に下向して上妻天福寺(福岡県)に行き、布教中の弁長の弟子となった。翌年まで『観経疏』『法事讃』『観念法門』『般舟讃』『論註』『安楽集』『往生要集』『選択集』『十二門戒儀』などをいちいち弁長から読み伝えられ、4月には『末代念仏授手印』、8月には『徹選択』を授かった。 その間とくに良忠は『西宗要』を書き写し、『領解末代念仏授手印』を著わして弁長の印可を受け、事実上の後継者となった。38年(暦仁1)故郷に帰ったのち、安芸(あき)(広島県)地方を強化した。 48年(法治1)春、浄意尼の依頼で京都に行き、『選択集』を講じた。秋ごろから信濃(しなの)(長野県)に向い善光寺に参詣、49年(建長1)利根川に沿って関東に入り、下総(しもうさ)(千葉県北部)の教化をはじめ、翌年には『浄土大意鈔』を著わした。 54年(建長6)鏑木(かぶらぎ)九郎の帰依を受て匝瑳(そうさ)郡鏑木に住み、浄土宗典解釈上の標準となる『決疑鈔』を著わし、ついで江禅門の依頼により『三心私記』を著わした。 年末から57年(正嘉1)にかけて良忠は千葉氏一族の外護を受け、常陸(ひたち)(茨城県)・上総(かずさ)(千葉県中部)・下総の三国にわたる教化活動を続け、浄土宗学の基本となる『決答授手印疑問鈔』『伝通記』を著わし、『観経疏』『往生論註』『往生礼讃』『群疑論』などの講義を続けた。 こうして良忠は有力な外護者の保護のもとに多くの講義と著述のために精力的な活動を行ない、多数の弟子を育成した。 しかし寺領問題と感情問題で外護者と衝突し、59年(正元1)ごろ数人の弟子を連れて下総を去り、慈恩房を頼って鎌倉に入り、大仏勧進聖浄光の坊に仮り住いをした。 当時の鎌倉は黒衣念仏僧の追放などを行なっており、生活は厳しかったが、良忠とその門下は模範的な生活を続け、目立つ存在となった。 その後、大仏(おさらぎ)朝直の帰依を受けて佐介谷(さすけがやつ)に悟真寺を創建し、子息の時遠から悟真寺房地と鳩井逸田(埼玉県)の寄進を受けて経済的基盤を確立した。
その後は鎌倉における専修念仏者の間で指導的立場に立つとともに、他宗僧侶の間でも大きな位置を占めた。日蓮が政府に諫言し、諸宗を攻撃して自分の正統を主張したのに対し、理智光寺道教や極楽寺良観などとともに積極的に対抗し、日蓮を身延に入山させる結果を招いた。 こうして良忠の名声は不動となり、その学徳を慕って参集する弟子も多く、武士の間にも帰依者をもつようになった。72年(文永9)大病を患って、比叡山東塔極楽房で修行中の良暁を呼んで遺言状を与えたが、この噂を聞き、京都から然空と良空が下向して良忠の門に入り、ともに浄土宗の奥義を習得した。 やがて良忠の病気は快方に向い、然空と良空は上洛したが、良暁の帰洛は認めず、さらに学問を積ませ、公私にわたる後継者に定めた。75年(文永12)には悟真寺で『伝通記』15巻の大著を完成し、後世に残る数学の基礎を確立した。 76年(建治2)京都の弟子然空・良空らは、京都仏教界における浄土教学の乱れを嘆き、良忠の上洛を願って教界の統一をはかろうとし、良忠の上洛を要請した。鎌倉における基礎も確立した良忠は、弟子らの要請を入れて上洛、翌年然空に『末代念仏授手印』を授け、毘沙門堂阿弥の要請で『選択疑問答』を著わし、79年(弘安2)道光に円頓戒脈を授け、翌年には『末代念仏授手印』を授与し、82年(弘安5)『安楽集私記』を著わした。 在京11年、老齢の身をもって布教に、著述に超人的な活躍を続けたが、86年(弘安9)鎌倉に帰った。そして良暁に法然・弁長・良忠と三代相伝の袈裟と硯を与え、さらに浄土宗三代相伝の付法状を伝えて念仏の弘通を命じ、翌年には『伝通記』をはじめ、浄土宗の奥義のすべてを伝授し、重ねて良暁の正統性を意味づけ、87年7月6日、89歳で入寂した。 良忠の滅後、多くの門弟の中で、良暁・性心・良空・尊観・然空・道光の6人が主に活躍し、互いに教線の拡張に努め、自派の正統性を主張したところからやがて六派に分かれたが、かえって浄土宗の興隆には大きな貢献をなし、必然的に鎮西流が正統化され、法然・弁長・良忠と相伝する浄土宗の三代相承の系譜が確立した。その後、門下の六派の中の白旗派が主流となって現在に至っている。 著書は前記のほか、『往生要集義記』『観経疏略記』『往生論註記』『徹選択集鈔』『観念法門記』『看病用心抄』など多数。創建した寺院開山と仰がれる寺院も多数。(7・6寂)
記主良忠上人略年譜
(浄土宗大辞典より)
●法然上人37年の布教活動から
京都・東山「吉水の庵」。浄土宗を開いた法然上人が、念仏往生の教えを人々に広めるために結んだ庵。法然上人のここでの布教活動は、流罪となった晩年の数年間を除き、開宗の43歳から80歳で生涯を閉じるまでの長きにわたり、浄土宗の中心地となっていました。現在の総本山知恩院がここに建てられました。
ここには、多くの人々が法然上人を慕って集まってきました。教えを聞きにきた僧、さまざまな悩みをかかえた庶民、戦乱にあけくれて地獄行きを覚悟した武者たち・・・。庶民や女性、殺生をした者には救いの道がないとされていた当時の仏教。そんななかで、だれもが平等に救われるという法然上人の念仏往生の教えは人々に光明を与えました。
そうした人々の中から、出家をして法然上人の教えをうける多くのお弟子たちが生まれました。法然上人亡き後の浄土宗を支え、全国津々浦々にまでお念仏の教えを広めたお弟子もいれば、師に先立って亡くなったお弟子もいます。また、名前しか知られていないお弟子も多くいます。
その中から主だったお弟子たちと法然上人との関係を紹介しましょう。
現代に生きる私たちに連綿と伝わる念仏の教え、その礎を築いたお弟子たちの横顔です。
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【教えを広めた弟子たち】
その他の弟子たち
・隆寛(りゅうかん)
・成覚房幸西(せいかくぼうこうさい)
・正信房(聖信房)湛空(たんくう)
・覚明房長西(ちょうさい)
・蓮寂房信慧(しんえ)
●記主良忠(きしゅりょうちゅう)
•然空(ねんくう)
•良空(りょうくう)
•道光(どうこう)
•良暁(りょうぎょう)
•尊観(そんかん)
•性心
●記主良忠(きしゅりょうちゅう)(然阿弥陀仏といい、然阿と略称し、記主禅師と尊称される。)
1199-1287(正治1-弘安10)。浄土宗第三祖。二祖の弁長の教えを継いで専修念仏を弘め、多くの書を著わして浄土宗の教学を大成した。 主として関東に布教し、多数の寺院を建立して門弟の育成に専念し、浄土宗教団発展への礎地を作った。石見国三隅(いわみのくにみすみ)庄(島根県那賀郡)の人。 姓は藤原氏。1211年(建暦1)同国鰐淵寺月珠房信暹(しんせん)の門に入り、14年(建保2)比叡山で受戒した。若いころ天台・倶舎・法相・禅・律などを学んだが、32年(貞永1)故郷の多蛇寺に帰り、不断念仏を行なって数年を送ったという。 その後、36年(嘉禎2)生仏の勤めにより九州に下向して上妻天福寺(福岡県)に行き、布教中の弁長の弟子となった。翌年まで『観経疏』『法事讃』『観念法門』『般舟讃』『論註』『安楽集』『往生要集』『選択集』『十二門戒儀』などをいちいち弁長から読み伝えられ、4月には『末代念仏授手印』、8月には『徹選択』を授かった。 その間とくに良忠は『西宗要』を書き写し、『領解末代念仏授手印』を著わして弁長の印可を受け、事実上の後継者となった。38年(暦仁1)故郷に帰ったのち、安芸(あき)(広島県)地方を強化した。 48年(法治1)春、浄意尼の依頼で京都に行き、『選択集』を講じた。秋ごろから信濃(しなの)(長野県)に向い善光寺に参詣、49年(建長1)利根川に沿って関東に入り、下総(しもうさ)(千葉県北部)の教化をはじめ、翌年には『浄土大意鈔』を著わした。 54年(建長6)鏑木(かぶらぎ)九郎の帰依を受て匝瑳(そうさ)郡鏑木に住み、浄土宗典解釈上の標準となる『決疑鈔』を著わし、ついで江禅門の依頼により『三心私記』を著わした。 年末から57年(正嘉1)にかけて良忠は千葉氏一族の外護を受け、常陸(ひたち)(茨城県)・上総(かずさ)(千葉県中部)・下総の三国にわたる教化活動を続け、浄土宗学の基本となる『決答授手印疑問鈔』『伝通記』を著わし、『観経疏』『往生論註』『往生礼讃』『群疑論』などの講義を続けた。 こうして良忠は有力な外護者の保護のもとに多くの講義と著述のために精力的な活動を行ない、多数の弟子を育成した。 しかし寺領問題と感情問題で外護者と衝突し、59年(正元1)ごろ数人の弟子を連れて下総を去り、慈恩房を頼って鎌倉に入り、大仏勧進聖浄光の坊に仮り住いをした。 当時の鎌倉は黒衣念仏僧の追放などを行なっており、生活は厳しかったが、良忠とその門下は模範的な生活を続け、目立つ存在となった。 その後、大仏(おさらぎ)朝直の帰依を受けて佐介谷(さすけがやつ)に悟真寺を創建し、子息の時遠から悟真寺房地と鳩井逸田(埼玉県)の寄進を受けて経済的基盤を確立した。
その後は鎌倉における専修念仏者の間で指導的立場に立つとともに、他宗僧侶の間でも大きな位置を占めた。日蓮が政府に諫言し、諸宗を攻撃して自分の正統を主張したのに対し、理智光寺道教や極楽寺良観などとともに積極的に対抗し、日蓮を身延に入山させる結果を招いた。 こうして良忠の名声は不動となり、その学徳を慕って参集する弟子も多く、武士の間にも帰依者をもつようになった。72年(文永9)大病を患って、比叡山東塔極楽房で修行中の良暁を呼んで遺言状を与えたが、この噂を聞き、京都から然空と良空が下向して良忠の門に入り、ともに浄土宗の奥義を習得した。 やがて良忠の病気は快方に向い、然空と良空は上洛したが、良暁の帰洛は認めず、さらに学問を積ませ、公私にわたる後継者に定めた。75年(文永12)には悟真寺で『伝通記』15巻の大著を完成し、後世に残る数学の基礎を確立した。 76年(建治2)京都の弟子然空・良空らは、京都仏教界における浄土教学の乱れを嘆き、良忠の上洛を願って教界の統一をはかろうとし、良忠の上洛を要請した。鎌倉における基礎も確立した良忠は、弟子らの要請を入れて上洛、翌年然空に『末代念仏授手印』を授け、毘沙門堂阿弥の要請で『選択疑問答』を著わし、79年(弘安2)道光に円頓戒脈を授け、翌年には『末代念仏授手印』を授与し、82年(弘安5)『安楽集私記』を著わした。 在京11年、老齢の身をもって布教に、著述に超人的な活躍を続けたが、86年(弘安9)鎌倉に帰った。そして良暁に法然・弁長・良忠と三代相伝の袈裟と硯を与え、さらに浄土宗三代相伝の付法状を伝えて念仏の弘通を命じ、翌年には『伝通記』をはじめ、浄土宗の奥義のすべてを伝授し、重ねて良暁の正統性を意味づけ、87年7月6日、89歳で入寂した。 良忠の滅後、多くの門弟の中で、良暁・性心・良空・尊観・然空・道光の6人が主に活躍し、互いに教線の拡張に努め、自派の正統性を主張したところからやがて六派に分かれたが、かえって浄土宗の興隆には大きな貢献をなし、必然的に鎮西流が正統化され、法然・弁長・良忠と相伝する浄土宗の三代相承の系譜が確立した。その後、門下の六派の中の白旗派が主流となって現在に至っている。 著書は前記のほか、『往生要集義記』『観経疏略記』『往生論註記』『徹選択集鈔』『観念法門記』『看病用心抄』など多数。創建した寺院開山と仰がれる寺院も多数。(7・6寂)
記主良忠上人略年譜
(浄土宗大辞典より)