金子光晴『どくろ杯』 松山愼介
金子光晴は詩人として気になる存在ではあった。『どくろ杯』は何十年か前に読んだおぼえがある。映画『ラブレター』(東陽一監督 一九八一年)も、おそらく劇場で見たのであろう。金子光晴を中村嘉葎雄、愛人の大川内令子を関根恵子が演じていた。『どくろ杯』は、この映画が取り上げている金子光晴五十歳前後の愛人騒動の時代ではなく、彼の三十歳前半の海外旅行というか、道中記であり、当時の時代に対する批判や、文明批評の物語である。
金子光晴の年譜をみると、二歳で金子家の養子になり、幸か不幸か義父・荘太郎が二十二歳の時に亡くなったので、その遺産二十万円を相続することになった。「数年で蕩尽」とあるが、この金で詩集を出版し、最初のヨーロッパ旅行にも出かけたのであろう。この大金を手にしたことが彼の一生を決めたような気がする。
『どくろ杯』の舞台になった上海、蘇州、香港へは三十年ほど前に行ったことがある。こちらは単なる近場の観光旅行だったが、友人から、戦争でメチャメチャなことをした日本人(東洋(とんやん)鬼(きぃ))の子供だと見られているぞと指摘されて驚いたことがある。金子光晴が帰国するのは一九三二年であるが、前年が満州事変であったので、東南アジアの場所によっては華僑を中心とした反日感情があり、上海に上陸することなく神戸に着いている。この作品中によれば長崎から一晩船に乗れば上海で、長崎からは大阪や東京へ行くよりも近かったようだ。貨物船の空の水槽に乗せられたからゆきさんが、水槽に水が入れられ溺死し、水道から髪の毛が出てくるという凄絶な場面もある。
上海の様子では苦力の描写が印象に残った。埴谷雄高が書いていたように台湾と同じように、上海でも黄軛車(ワンポツォ)苦力の河童頭を靴の先で蹴って方向を教えるという。中国人は苦力に人間以下の存在と教えこんで反抗しないように、冷酷、非道な扱いをしていたらしい。上海での内山書店や作家の前田(まえだ)河(こう)広一郎(ひろいちろう)がブルジョワの文壇はもう終わったと気勢を上げているのも面白い。
一九二四年に森三千代と結婚、一九二八年に二人で足かけ五年にわたる東南アジアからフランス、ヨーロッパへ出かけている。目的はパリだったようで、東南アジアでお金を工面しながらの旅だったようだ。しかし『ねむれ巴里』を読むと、パリのことを空気が悪いとか、無目的にパリに滞在している日本人を非難しているので、パリは好きではなく、ベルギーのブルッセルやアントワープの方が落ち着いたようである。フランス詩集を翻訳で出版しているのでフランス語はある程度出来たようだ。この旅は妻と土方定一との恋愛問題を解決するのが第一義だったようである。一九二八(昭和三)年といえば、大正デモクラシーの自由主義の雰囲気がのこり、アナルシストもコムニストへ転換してゆくプロレタリア文学全盛期であったが、共産党への大弾圧三・一五事件にみられるように、プロレタリア文学の衰退の気配もあったのだろう。
このような中で金子光晴は「若者が血を沸かしている革命の情熱にも、詩や文学のひたぶるな精進にも衷心から関心をもてない傾向」にあったらしい。また「当時の人たちが問題にする人類の正義や、階級の憤りのようなものは、例え口まねをしたにしても、それは一時の気晴らしにすぎず、あまりに縁遠いことであって、いつになってもあやまちの繰返しの、まことに愚にもつかないことにしか生甲斐をもたない私じしんのことが、なにはともあれ、いちばん問題であり、また自分にしっくりした関心事であった」と自分の心境を述べている。一方、「彼女の恋人はコムニストにより接近したサンジカリスト」で「当時新時代の尖端の思想、彼らが話題にするバクーニンやクロポトキンに接することが魅力であったろうし、アナルシスト闘士の醸し出す強烈な体臭と反逆的ムードにふれることが、スリルであったのだろう」とも書いている。この妻の恋愛事件を裁判に持ち込むことも可能であったが大正の自由思想を身につけていた金子光晴は、そうすることなく、二、三年の外国旅行によって冷却期間をもうけることを選んだ。このようにして、妻の恋愛事件をジャンプ台として海外に旅立つのである。しかし、それにしても先立つお金や、旅程の計画もなく出かけて行くこの金子光晴はたいしたものである。大阪で足止めをくらって、谷崎潤一郎に短冊を書いてもらって換金したり、東南アジアで水彩画を描いてお金をせしめたりするのはすごい生活力とかしか言い様がない。
『どくろ杯』は金子光晴の七十歳半ばに書かれたものであるが、国木田独歩の息子・虎雄が円本ブームで使い切れないほどの印税が入ったとかの文壇史、キャバレーの前身のカッフェの様子といった風俗史もあり、昭和前半の歴史の証言の書ともいえる。
『ねむれ巴里』によれば、金子光晴の喜寿の席で森三千代は「貧乏もし、苦しいことも多かったが、金子光晴といっしょになったことは後悔していないし、また、ほんとうにたのしかった、お礼を言う」と述懐したという。 2016年1月9日
(参考資料① 大川内令子について 「金子光晴 ラブレター」で検索)
自由人の系譜 金子光晴(2)「風流尸解記」 : 同伴者の本棚
blog.livedoor.jp/maturika3691/archives/6733370.html
「親父の女好きはふつうの人のとちょっと違って、何かセンチメンタルなところがあるんです。だから深刻になってしまって、かえって始末の悪い面もありました。軽い浮気でとまらない。親父が五十歳ぐらいのとき、二十五歳ぐらいの女の人がいて、つづいていたわけでしょう。79歳で死んだとき、その女が葬式に来て、親戚のところに腰かけようとするんです。〈自分で親戚だと思っているのかなあ〉とびっくりしました。
もうおばあちゃんで、そりゃ男だって女だって年は取りますよ。でも、女房が年を取ったり、亭主が年を取るのは、これはしようがないけれども、愛人が年を取ったというのは、あまりカッコいいもんじゃない」
これは金子光晴の一人息子、森乾(もりけん)が文藝春秋社の編集者に答えたものである。
インタヴュー記事は「回想の金子光晴」と題されて、雑誌「オール讀物」(1991年7月号)に掲載された。金子光晴の死去は1975年6月。森乾は1925(大正14)年生れだから、このとき66歳(2000年没)。早稲田大学フランス文学の教授であったが、もう退任していたのか、どうか。どうにも金子光晴、森三千代の血筋を引いているとは思えぬほど、保守的な発言である。
(参考資料② 「金子光晴 どくろ杯」で検索 PDF論文)
駿河台大学論叢. 第 36 号. NO.36. 2008. 目 次. 論 文. 森三千代の「髑髏杯」から金子光晴の「どくろ杯」へ. ―森三千代の上海関連小説について― ……………………………………………趙 怡
この論文によれば、一九四〇年代においては、金子光晴より森三千代の方が高名で売れる作家であり、彼女に金子光晴『どくろ杯』に先行する『髑髏杯』という小説があり、金子光晴もそれを読んでいたことは間違いがないという。
金子光晴は詩人として気になる存在ではあった。『どくろ杯』は何十年か前に読んだおぼえがある。映画『ラブレター』(東陽一監督 一九八一年)も、おそらく劇場で見たのであろう。金子光晴を中村嘉葎雄、愛人の大川内令子を関根恵子が演じていた。『どくろ杯』は、この映画が取り上げている金子光晴五十歳前後の愛人騒動の時代ではなく、彼の三十歳前半の海外旅行というか、道中記であり、当時の時代に対する批判や、文明批評の物語である。
金子光晴の年譜をみると、二歳で金子家の養子になり、幸か不幸か義父・荘太郎が二十二歳の時に亡くなったので、その遺産二十万円を相続することになった。「数年で蕩尽」とあるが、この金で詩集を出版し、最初のヨーロッパ旅行にも出かけたのであろう。この大金を手にしたことが彼の一生を決めたような気がする。
『どくろ杯』の舞台になった上海、蘇州、香港へは三十年ほど前に行ったことがある。こちらは単なる近場の観光旅行だったが、友人から、戦争でメチャメチャなことをした日本人(東洋(とんやん)鬼(きぃ))の子供だと見られているぞと指摘されて驚いたことがある。金子光晴が帰国するのは一九三二年であるが、前年が満州事変であったので、東南アジアの場所によっては華僑を中心とした反日感情があり、上海に上陸することなく神戸に着いている。この作品中によれば長崎から一晩船に乗れば上海で、長崎からは大阪や東京へ行くよりも近かったようだ。貨物船の空の水槽に乗せられたからゆきさんが、水槽に水が入れられ溺死し、水道から髪の毛が出てくるという凄絶な場面もある。
上海の様子では苦力の描写が印象に残った。埴谷雄高が書いていたように台湾と同じように、上海でも黄軛車(ワンポツォ)苦力の河童頭を靴の先で蹴って方向を教えるという。中国人は苦力に人間以下の存在と教えこんで反抗しないように、冷酷、非道な扱いをしていたらしい。上海での内山書店や作家の前田(まえだ)河(こう)広一郎(ひろいちろう)がブルジョワの文壇はもう終わったと気勢を上げているのも面白い。
一九二四年に森三千代と結婚、一九二八年に二人で足かけ五年にわたる東南アジアからフランス、ヨーロッパへ出かけている。目的はパリだったようで、東南アジアでお金を工面しながらの旅だったようだ。しかし『ねむれ巴里』を読むと、パリのことを空気が悪いとか、無目的にパリに滞在している日本人を非難しているので、パリは好きではなく、ベルギーのブルッセルやアントワープの方が落ち着いたようである。フランス詩集を翻訳で出版しているのでフランス語はある程度出来たようだ。この旅は妻と土方定一との恋愛問題を解決するのが第一義だったようである。一九二八(昭和三)年といえば、大正デモクラシーの自由主義の雰囲気がのこり、アナルシストもコムニストへ転換してゆくプロレタリア文学全盛期であったが、共産党への大弾圧三・一五事件にみられるように、プロレタリア文学の衰退の気配もあったのだろう。
このような中で金子光晴は「若者が血を沸かしている革命の情熱にも、詩や文学のひたぶるな精進にも衷心から関心をもてない傾向」にあったらしい。また「当時の人たちが問題にする人類の正義や、階級の憤りのようなものは、例え口まねをしたにしても、それは一時の気晴らしにすぎず、あまりに縁遠いことであって、いつになってもあやまちの繰返しの、まことに愚にもつかないことにしか生甲斐をもたない私じしんのことが、なにはともあれ、いちばん問題であり、また自分にしっくりした関心事であった」と自分の心境を述べている。一方、「彼女の恋人はコムニストにより接近したサンジカリスト」で「当時新時代の尖端の思想、彼らが話題にするバクーニンやクロポトキンに接することが魅力であったろうし、アナルシスト闘士の醸し出す強烈な体臭と反逆的ムードにふれることが、スリルであったのだろう」とも書いている。この妻の恋愛事件を裁判に持ち込むことも可能であったが大正の自由思想を身につけていた金子光晴は、そうすることなく、二、三年の外国旅行によって冷却期間をもうけることを選んだ。このようにして、妻の恋愛事件をジャンプ台として海外に旅立つのである。しかし、それにしても先立つお金や、旅程の計画もなく出かけて行くこの金子光晴はたいしたものである。大阪で足止めをくらって、谷崎潤一郎に短冊を書いてもらって換金したり、東南アジアで水彩画を描いてお金をせしめたりするのはすごい生活力とかしか言い様がない。
『どくろ杯』は金子光晴の七十歳半ばに書かれたものであるが、国木田独歩の息子・虎雄が円本ブームで使い切れないほどの印税が入ったとかの文壇史、キャバレーの前身のカッフェの様子といった風俗史もあり、昭和前半の歴史の証言の書ともいえる。
『ねむれ巴里』によれば、金子光晴の喜寿の席で森三千代は「貧乏もし、苦しいことも多かったが、金子光晴といっしょになったことは後悔していないし、また、ほんとうにたのしかった、お礼を言う」と述懐したという。 2016年1月9日
(参考資料① 大川内令子について 「金子光晴 ラブレター」で検索)
自由人の系譜 金子光晴(2)「風流尸解記」 : 同伴者の本棚
blog.livedoor.jp/maturika3691/archives/6733370.html
「親父の女好きはふつうの人のとちょっと違って、何かセンチメンタルなところがあるんです。だから深刻になってしまって、かえって始末の悪い面もありました。軽い浮気でとまらない。親父が五十歳ぐらいのとき、二十五歳ぐらいの女の人がいて、つづいていたわけでしょう。79歳で死んだとき、その女が葬式に来て、親戚のところに腰かけようとするんです。〈自分で親戚だと思っているのかなあ〉とびっくりしました。
もうおばあちゃんで、そりゃ男だって女だって年は取りますよ。でも、女房が年を取ったり、亭主が年を取るのは、これはしようがないけれども、愛人が年を取ったというのは、あまりカッコいいもんじゃない」
これは金子光晴の一人息子、森乾(もりけん)が文藝春秋社の編集者に答えたものである。
インタヴュー記事は「回想の金子光晴」と題されて、雑誌「オール讀物」(1991年7月号)に掲載された。金子光晴の死去は1975年6月。森乾は1925(大正14)年生れだから、このとき66歳(2000年没)。早稲田大学フランス文学の教授であったが、もう退任していたのか、どうか。どうにも金子光晴、森三千代の血筋を引いているとは思えぬほど、保守的な発言である。
(参考資料② 「金子光晴 どくろ杯」で検索 PDF論文)
駿河台大学論叢. 第 36 号. NO.36. 2008. 目 次. 論 文. 森三千代の「髑髏杯」から金子光晴の「どくろ杯」へ. ―森三千代の上海関連小説について― ……………………………………………趙 怡
この論文によれば、一九四〇年代においては、金子光晴より森三千代の方が高名で売れる作家であり、彼女に金子光晴『どくろ杯』に先行する『髑髏杯』という小説があり、金子光晴もそれを読んでいたことは間違いがないという。
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