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堀辰雄『風立ちぬ・美しい村』を読んで

2017-06-06 15:06:28 | 読んだ本
        堀辰雄『風立ちぬ・美しい村』          
 松山愼介
 芥川龍之介の自死する一カ月前、中野重治は室生犀星の紹介で芥川と会っている。そこで芥川は「才能として認められるのは、堀君と君だけでしょう」と中野重治に語ったという。これは中野重治、窪川鶴次郎、堀辰雄、西沢隆二らで発行していた東京帝大生を中心とした同人誌「驢馬」を意識してのことであった。「驢馬」は中野と窪川のように金沢の第四高等学校以来の僚友だったり、関東大震災後一時金沢に帰省していた室生犀星を通じて知り合ったりした文学グループであった。カフェーの女給をしていた佐多稲子がこの「驢馬」の同人と知り合ってから創作活動を初めたのは有名な話である。「驢馬」には中野重治らのマルクス主義文学の方向と、堀辰雄の西ヨーロッパの前衛文学の方向が同居しており、既成文学を乗り越えようとしていた。
「驢馬」の後、中野重治はプロレタリア文学の中心メンバーとなり、堀辰雄は富永太郎、小林秀雄、らの「山繭」を経て、川端康成、横光利一らの「文学」にくわわり、昭和八年から九年にかけて三好達治、丸山薫らの「四季」に参加することになる(「四季」の中心メンバー三好達治が、戦争中、その抒情詩の感性的秩序が、国家の支配体制と構造的な対応を示していったという点については、吉本隆明が『「四季」派の本質』で鋭く分析している)。この時期はプロレタリア文学の解体期、ナップ、コップが権力によって解散させられた時期であった。中野重治は昭和七年に検挙され、昭和九年五月に出獄し、昭和十年には転向五部作を書くことになる。中野重治は「堀さんとはどの辺で道が分かれましたか」と聞かれて、「ぼくと堀君との間で、道が分かれたというようなことはなかったな」と即座に答え、堀辰雄に対する親愛の情を示していたという。
 芥川龍之介については中野重治が『むらぎも』で触れ、堀辰雄は『聖家族』で触れている。『聖家族』の冒頭「死があたかも一つの季節を開いたかのようだった」は芥川龍之介の自死をさしている。『風立ちぬ・美しい村』の舞台は軽井沢だが、堀辰雄は東京の下町(本所向島小梅町)育ちであった。関東大震災で母を失い(火に追われて隅田川で溺死)、自身も竜巻に投げ上げられて隅田川に落ち、辛うじて舟に引き上げられたという(中村真一郎『堀辰雄』)。中村真一郎は「震災体験が、凡ゆる流血的なものに対する激しい嫌悪となって生き残り、それが堀文学の世界をあのように古典的明徴さに純化させるのに決定的な役割を果たしたのかも知れない」と書いてる。中村真一郎に言わせれば軽井沢は堀辰雄が書いているような「妖精的雰囲気」の場所ではない。堀辰雄によって「生活の詩化」されたものであるという。
『風立ちぬ・美しい村』は戦争の気配もない軽井沢を思わせる町で、「渓流のほとりの、蝙蝠傘のように枝を拡げた、一本の樅の木の下」で画架を広げ絵を描いている、肺を患っている少女との恋愛物語である。この題材を映画化したのが宮崎駿の映画『風立ちぬ』である。宮崎駿はこの恋愛物語の一方の男性に、零戦の設計技師である堀越二郎をすえることによって、物語に戦争を導入した。サナトリウムのベランダで十人前後の患者が、小雪のちらつく中で分厚い毛布に包まって外気療法をしているシーンは印象的であった。映画には外人が満州事変について語ったり、『魔の山』について語ったりするシーンもある。
「果てしのないような山麓をすっかり黃ばませながら傾いている落葉松林の縁を、夕方、私がいつものように足早に帰ってくると、丁度サナトリウムの裏になった雑木林のはずれに、斜めになった日を浴びて、髪をまぶしいほど光らせながら立っている一人の背の高い若い女が遠く認められた」(文庫版 一五九ページ)という個所は村上春樹の『ノルウェイの森』の直子を思わせる。村上春樹は漱石とよく比較されるが、作品の底に流れる抒情は堀辰雄のものかも知れない。
 作品とは直接、関係ないが、堀辰雄は完全に文学だけで生活できたのだろうか。年譜をみても働いた形跡はない。生活費、結核の治療費などをどう工面したのかという疑問が残った。
                          2017年4月8日

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