
全国を震撼させた小樽港湾ゼネスト(その4) 戦線の拡大全道へ 1927年の労働争議(読書メモ)
参照 「日本労働年鑑第9集/1928年版」大原社研編
「北海道社会運動史」渡辺惣藏
「協調会史料」
函館・札幌・室蘭・釧路・樺太・・・全道の港へ波及する小樽港湾ゼネスト
1、函館港内労働組合、スト破り募集に応じるな「一人も裏切者を出すな」と指令!
小樽港の資本家は、あわてて全国の港で大がかりなスト破りのための労働者募集を行い、雇った港湾労働者を次々に小樽に送り込んだ。函館港でも小樽港資本家による大々的な労働者募集が始まった。6月22日、函館港内労働組合は、小樽のスト破りの募集には絶対に応じるな、函館港からは一人の裏切者を出すなと「函館、小樽両市の労働者の握手をはかり、函館港内労働組合の名によって小樽と相呼応せよ。一人も裏切者を出すな」と各方面に一斉にビラ宣伝と強力なスト破り粉砕の闘いをはじめた。これは小樽港湾ゼネスト労働者への力強い応援となり、一方小樽港資本にとって大きな打撃となった。
2、全道の港に波及
22日、室蘭港、釧路港の艀(はしけ)労働者が待遇改善の要求闘争を起しはじめ、全道の港にゼネストの気運がみなぎった。函館、札幌、旭川の合同労組、日農北連等から続々と小樽港へ応援の部隊が駆け付け、23日には労働農民党本部、東京の評議会本部の活動家が市内に潜伏して活動をはじめた。
3、全道代表者会議
30日夜、労働農民党小樽支部において、北海道・全道代表者会議が開催された。函館3名、旭川3名、札幌5名、釧路2名、空知1名、小樽6名が出席し、労働農民党本部細迫兼光書記長から、「工代会議、電灯料値下げ闘争、家賃値下げ闘争、授業料の撤廃、弾圧反対運動」など党独自の闘いの方針が提起され討議し決まった。
4、樺太にも波及、朝鮮人労働者との連帯
樺太沿岸では樺太合同労組が中心となり、朝鮮労働同盟と呼応し樺太沿岸の地域工代会議を開催し、樺太沿岸地域工場ゼネストの気運が高まった。
5、北海道地方評議会の優れた闘争指導と戦略
小樽港湾ゼネストは73もの雇用主・親方下のストに参加した海・陸の労働者は2千名を越えた。これだけの事業主を相手に、また、これだけの数の別々の現場の労働者の統制・連絡・兵糧などどれほど困難であったか。しかも争議経験もストも会議もはじめてという労働者がほとんどだった。北海道地方評議会に指導された「小樽港湾内労働総罷業団本部」(争議団)は、毎日「斗争日報」を発行して行動連絡、アジテーション等の指導にあたった。デモ・示威行動、演説会、座談会、家族大会、行商活動、ビラなどにより争議団や家族に闘争の経過を日々明らかにし、官憲の弾圧への対抗と労働者の動揺を防ぎ、市民の市当局への闘いと全道への争議の波及の拡大もはかった。北海道地方評議会、小樽港湾内労働総罷業団本部(争議団)、労農党、農民組合の連携・支援などその組織性、大衆性、その上弾圧を怖れず連続的に闘う戦闘性は実に見事であった。
6、兵糧
ストライキを敢行した争議団とその倍はいるであろう家族。これだけの人の兵糧を、評議会、労農党、農民組合、全道中の労働者・農民・市民は支え続けた。婦人も進んで行商隊を担い、小樽市民も積極的に応援した。小樽港湾ゼネストへのカンパ運動は全道・全国へと拡がった。「小樽の兄弟を救え!」「全小樽の労働者を見殺しにするな! 」「農民と労働者は手を握れ!」「茶碗一杯の米を送れ!」と必死なカンパ活動が、評議会、労農党、農民組合、無産青年等の主導のもと全国津々浦の工場、地域で一斉に繰り広げられた。
7、函館・札幌
函館港では一印斎藤沖仕が労災事故で死亡した事件を巡り函館港湾労働者の怒りが高まっていった。7月3日夜には函館港労働者は急遽秘密の場所に集合して、仲間の死亡事故糾弾のゼネスト決行を決議して闘争に入る準備に入った。札幌でも5日、札幌大平館で札幌合同労組の主催による争議真相発表演説会が開催され札幌の労働者の気勢は高まった。
8、「革命か中庸か」と心配する北海タイムス
かくして小樽港湾ゼネストはいよいよ戦線が拡大し、戦闘化し、小樽の工場労働者の中にも多くの同調者も出てきた。樺太沿岸では7月7日を期して、さらに全道的ゼネストへ発展させようと奮闘した。北海タイムスは7月7日の社説で「革命か中庸か」と論説を掲げるほどの北海道全域の盛り上がりだった。
(続く)
全国を震撼させた小樽港湾ゼネスト(その5) 勝利解決 1927年の労働争議(読書メモ)