友禅流し 牧村三枝子
友禅染労働と朝鮮人労働者
しばしば美しい風物詩として描かれる賀茂川、桂川、高野川などの友禅流しの〈水洗い(友禅流し)〉や友禅労働の〈蒸し作業〉は戦前から主に朝鮮人労働者によって担われてきた仕事であることは一般的にはあまり知られていません。友禅染工業における〈水洗い(友禅流し)〉労働は、冬などはすこぶる過酷な重労働で、また高温高圧の蒸気をあてる〈蒸し作業〉は夏の暑さには文字通り灼熱地獄でした。
大阪大谷大学教員の高野昭雄さんは、「京都の伝統産業と在日朝鮮人」の「3 友禅染工業と朝鮮人労働者」で、次のように記述しています。
〈友禅流しは、友禅染工業において、生地についた糊や余分な染料を洗い流す工程のことである。良質の水に恵まれた京都では、鴨川や桂川での友禅流しが、1971 年に水質汚濁防止法が施行されるまで行われていた。友禅流しは、川の流れの中を、色鮮やかに染色された反物が泳ぐさまが非常に美しいこともあり、京都の風物詩としても知られてきた。だが、この友禅流しの仕事は、蒸しの仕事とともに、戦前から主として朝鮮人労働者によって担われてきた仕事であることは一般的にはあまり知られていない。
蒸しの工程では、絵柄の染料を発色させ定着させるために、大きな釜を使って、高温高圧の蒸気をあて、蒸す作業を行う。夏の暑さは地獄であった。
また、友禅流し、つまり水洗工程においては、冬の寒さは極めて過酷であった。「水洗の仕事をやって長生きした人はいない」、「どぶろくを飲んで川に入った」などと語られる。
1959 年に出版された宗藤圭三・黒松巌編『伝統産業の近代化―京友禅業の構造』(有斐閣)は、蒸しや友禅流し(水洗)の仕事に従事する朝鮮人労働者について、「第三国人」あるいは「京都染色業における恥部」という差別的表現を使って次のように記している。
○染色にとって重要な水洗にしても昔も今も、加茂川、高野川、桂川などにおいて第三国人を中心とする下請業者によって行われ、京都の四季に華麗な色彩を加えている(167 頁)。
○「蒸熱・水洗」型染めの場合と同じ。蒸す時間・水質と水洗する時間が長ければ長い程、色は冴えてくる。通常、蒸し屋と称される。朝鮮人関係が多い。一反当り大体一〇〇円が相場。全くの重労働である(55 頁)。
○このしごき・むし・水洗は第三国人が従事して、第三国人の職長に、この分野の管理は一任している(95 頁)。
○ また、むし・水洗業及びその労働者の特徴は、かかる不熟練・重筋労働を基礎として、第三国人(韓国・朝鮮人)のみによってしめられている点があげられねばならない。〔中略〕むし水洗業は、上述のようにほとんど単純な不熟練筋肉労働のみの部分
労働からなる工程であり、技術・創意工夫に乏しく、したがって危険もすくなく経営のうまみはまことにすくない。このような部分であるからこそ型置業者がもともと自己の経営内部でやっていたものを、きりはなして外部へ押し出したと見ることができ、また、かかるものであるからこそ第三国人に委しているとも考えることができる。したがって、友禅型置業者は経営難のしわよせを、まず自分が雇っている労働者にかぶせる(解雇・賃金不払・賃金遅払・その他)のは勿論であるが、次には、むし・水洗業者にかぶせる。すなわち、型置業者は染料屋・糊屋・型屋に対する代金の遅払、ふみ倒しをすることをあとまわしにし、まずこれをむし・水洗業者に対してするのである。このようなむし・水洗業は、まさに京都染色業における恥部というにふさわしい(113 頁)。出典:高野昭雄D〉(「京都の伝統産業と在日朝鮮人」高野昭雄(大阪大谷大学教育学部准教授)世界人権問題研究センター 2017年度人権大学講座2017年冬号https://khrri.or.jp/news/doc/94.pdf )
高野さんは、続いて「4 西陣織工業と朝鮮人労働者」の中でも戦前多くの朝鮮人が西陣織などの紡績工業で働き、低賃金・長時間労働という過酷な状態に置かれていたこと、その中でもビロード職人はほとんど朝鮮人といわれるほど多かった。1931年の〈西陣ビロード争議〉という朝鮮人労働者70余名が賃下げに反対するゼネストをして何人も逮捕された話も紹介しています。
友禅労働者をはじめ戦前の労働争議を学ぶ時に、この朝鮮人労働者の境遇と決起の視点を忘れないようにしたいものです。
友禅労働者の賃上要求 1924年主要な労働争議⑯ (読書メモ)
参照
「協調会」史料(友仙工組合賃銀要求ノ件)
「日本労働年鑑」第6集/1925年版 大原社研編
1924年における友禅工場の争議は、1月、4月大阪の田村友禅工場外55工場の2千人、3月大阪の前田友禅工場外29工場、4月兵庫の森重友禅工場外2工場、10月大阪の中田友禅工場外24工場、同月奥野友禅工場外3工場など各地で友禅労働者の決起があります。その中の田村友禅工場外55工場の争議を紹介します。
田村友禅工場外55工場争議
1924年1月20日、大阪府下と兵庫県下の74の友禅工場で組織されている「大阪美術友禅工組合」の55工場の友禅工2千名は、工場主側の「大阪友禅同業組合」に対して賃金2割増の値上を要求した。
24日、大阪友禅工組合主事の武内三郎は、同業組合事務所で岡島千代造組合長らと交渉した。武内主事は「なんとか1割位値上げしてください。そうすれば友禅工組合の連中は承知するでしょう」と述べ、すこぶる低姿勢で臨んだ。岡島組合長は「君の意に沿うようにしたいが、今1割値上すると言えば、2割値上を要求している組合員が承知しまい。そうなればすぐにストライキに移るだろう。となると御慶事(皇太子の結婚)の前に控えてストライキをする、これほどの非国民はないだろう。今日は返事せず29日に回答したい。」と答えた。武内主事は「そうして下さい」と言って帰った。
その夜、武内主事は友禅工組合事務所で40人の友禅工委員に工場側との会見の顛末を報告した。報告を受けた組合員からは、「武内は資本家に買収されたのだ、実に怪しからん」「明日からストライキだ」と叫ぶ者も出てきた。武内は「自分は決して買収されたのではない。今ストライキをすると不利な点があるからやむなく低姿勢に出たのだ」と釈明し、同時に今ストライキをすべきかどうかその場にいた委員全員の賛否を問うたところ、ストライキすべきという者は8名、スト反対が30名だったので29日の回答まで待つことにした。
29日、友禅労働者側は会の旗を先頭に交渉場所である中之島公会堂に押し寄せて示威行動をし状勢は緊迫した。労働者側代表6名と工場主側代表7名が交渉し、工場側は「3月、一ヶ月のみ賃金値上1割」を回答した。武内主事は、「3月中だけの値上では組合員の連中は承知しません。本日から1割値上して欲しい」と頭を低くして懇願した。結局工場側は「2月1日から3月末日まで1割値上」と答えたので、武内主事は「それで我々は満足しました」と挨拶をして退去した。(4月に入り、またまた両者間で騒ぎが起きたが、結局ストライキには至らず解決した。)
(感想と協調会大阪支所長の武内三郎の評)
協調会大阪支所長による武内三郎評価は「彼は元友禅工組合の友禅工場の営業・外交をやっていた男で、・・年に似合わずしっかり者である。彼は資本家と交渉する時には謙遜した資本家を尊敬する態度で、おとなしく話をするから友禅の親方は無学無盲のみならず単純な男が多いから武内に参ってしまうのである。武内は、(組合員の前では)階級闘争を是認し、闘争でなければ万事解決しないと階級闘争を謳歌するものであるが、親方の前では階級闘争は労資共倒れであるからいけないとか言って、うまく親方の気にいるようなことばかり言って茶を濁すのである。だから親方共は武内を盛んにほめる。友禅工組合は武内のごとき良主事を得たというべきである」としている。武内の二枚舌、欺瞞を指摘しながら、むしろそれを評価するという「協調会」の階級的立場をよく示していておもしろい。しかも、今では武内三郎のような二枚舌労組役員はけっこう存在している。それにしても、自民党と平気で食事をするナショナルセンターのトップは、もちろん自分の組合員の前でさえ「階級闘争」を口にすら出すことはない。労働者とその家族が貧困と搾取にのたうち回っているというのに、残酷な非正規差別と格差に怨嗟の叫びがこれほど高まっているというのに、このトツプは今の世の中が「階級社会」ではないと本当に思いたいのだろう。資本主義社会が日々熾烈な階級矛盾と闘争の現場であること、歴史は文字通り階級闘争の連続であることは、戦前の先輩労働者の苦労を少しでも謙虚に知れば理解できるはずなのに、それこそ彼らの階級的「立場」では無理な話か。