先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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1924年の労働運動学習スタート (読書メモー「日本労働年鑑」 第6集1925年版 大原社研編)

2022年04月14日 10時15分32秒 | 1924年の労働運動

1924年の労働運動学習スタート (読書メモー「日本労働年鑑」 第6集1925年版 大原社研編)

はじめに
 1923年(亀戸事件など)から一旦離れて、本日から「日本労働年鑑」 第6集に挑戦です。いよいよ1924年の労働運動に入ります。大不況が続く中、前年の第一次共産党弾圧、関東大震災戒厳令・朝鮮人虐殺、亀戸事件、大杉栄家族虐殺事件、朴烈事件などの残酷無慈悲むざんな権力弾圧に総同盟幹部は心底動揺し、また、普選実施の公約、政府の震災時の総同盟への被災者救済金提供、ILO労働代表の選出方法の改善(この年鈴木文治が代表に選出)などの懐柔政策、つまり権力のムチとアメの手の上で、総同盟は《方向転換》《現実路線》へと姿勢を大きく変えていきます。動揺したのは、総同盟幹部だけではありません。この年の2月頃には日本共産党もなんと解党を決めます。これに荒畑寒村だけは反対します。また、大杉栄虐殺や亀戸事件での平沢計七の暗殺、その後の虎ノ門事件や福田雅太郎陸軍大将狙撃事件によるアナーキスト検挙と死刑判決などもあり労働運動におけるサンジカリズム、アナーキスト系の勢力は壊滅的な打撃を受け、一挙に大衆的基盤を失っていきます。一方ボル派は総同盟内への浸透をはかり、総同盟内での左右の対立抗争が激化します。労働者民衆は革命を希求します。革命思想や社会主義思想が広がります。だからこそ政府・官憲は、メーデーで社会主義者や朝鮮人団体の参加を認めないなど、今まで以上に労働運動と社会主義者との分断を露骨に計ります。

 しかし激しい弾圧にも関わらず、労働者民衆は決起します。
 1924年(大正13年)に発生した労働争議の件数は771件(スト件数333件、前々年250件。前年270件)。労働争議への労働者の参加数は、1924年(大正13年)は総計88,129人(スト参加者54,526人、前々年41,503人、前年36,259人)で、大幅に増えています。とりわけ交通業の労働争議は62件にものぼり、特筆すべき大きな労働争議が頻発します。小作争議も水平社運動も拡がります。この年の水平社の糾弾闘争数は戦前のピークです。護憲三派を支持した民衆の運動もあります。

 中国では第一次国共合作による中国人民の決起が生まれた1924年。文字通り内外の激動の年です。翌1925年は歴史の決定的曲がり角といわれる治安維持法と普選の年です。

日本労働年鑑 第6集/1925年版 大原社研編
1、「緒言」
「大正13年(1924年)になっても不況は一層深刻味を増した。人々の生活は絶えざる不安と陰鬱の中に終始した。」
「かの日本労働総同盟のいわゆる方向転換宣言、国際労働会議利用、政治行動(議会利用)の提唱は、みな本年の労働運動転換の標本的表現」
「社会主義運動は現実的となり、大衆の中に深くその思想を植え付けた。ことに知識階級、学生の間の社会科学の運動は、階級戦の深刻化を語る一例」
「同時に他方、関東大震災以来の反動的思想運動も著しく組織的になった。かくして相対峙して譲らざる状態を招いた」
「要するに大正13年(1924年)は、経済的不況、失業、社会的不安、労度運動の著しい現実化、普遍化、深刻化が特徴」

2、1924年労働争議の件数と参加者数
労働争議771件(スト件数333件)。
争議参加数総計88,129人(スト参加54,526人)。前年、前々年に比べると大幅に増えています。
交通業の労働争議は62件。交通業の労働争議は1922年(大正11年)の11件、1923年(大正12年)の28件に比べ2倍以上に増えた。

3、1924年の労働争議の原因
労働者側の要求 634件(82.2%)
資本家側の挑戦 137件(17.8%)
前年の労働者側の要求は178件(59.82%)であるから、深刻な失業不安、生活不安に労働者側が積極的に対抗した結果。

4、1924年の労働者側争議の主な戦術
ストライキ
サボタージュ闘争
デモ・示威行動

5、1924年の会社側の労働争議攻撃の主な手段
工場閉鎖
休業
解雇

6、1924年労働争議の勝敗の結果
労働者側有利  22.5%
妥協             39.5%
会社側有利   26.5%


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