西南戦争・薩摩の史跡を巡る

西南戦争に関する有名な史跡からレアな史跡・薩摩の史跡を載せてます。
史跡の詳細な地図も付けています。

薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡51 日向市美々津町・門川町②

2024-01-27 23:45:00 | 宮崎県西南戦争史跡
西南戦争史跡⑧に美々津町と門川町の史跡を載せていますが新たに訪問した史跡の紹介と美々津での西南戦争経緯を詳しく載せさせていただきます。


美々津の戦い

明治10年8月3日

佐土原・広瀬で官軍に敗退した薩軍は美々津の耳川に守備線を敷き、官軍の北上に備えました。



本営を富高新町(現在の日向市街地)と南に位置する笹野に置き富高新町には村田新八、笹野には辺見十郎太が入り指揮を取りました。



佐土原より敗走して美々津に着いた諸隊は以下の通りです。

雷撃二番・六番・八番・九番
奇兵一番・六番・十四番
振武一番・六番・八番
行進三番・六番・七番・九番
鵬翼一番・二番・六番
干城二番・四番
常山三番・七番
破竹五番
正義九番
熊本隊
協同隊
龍口隊
高鍋隊
佐土原隊
狙撃隊
宮崎新募隊

上記の隊は隊士が40~50名を超えるものも多かったみたいですが、その他の諸隊は数名から十数名と人員は減り隊伍を整えるものは殆どなかったようです。

薩軍本営の村田新八により指揮された配置

耳川の宮崎本道に雷撃隊

雷撃隊の下流に行進隊

雷撃隊の上流に振武隊

飯谷に高鍋隊

福瀬に奇兵四番・加治木奇兵隊

山陰に奇兵六番・十四番・奇兵三番
     【奇兵三番は佐土原を守備していた各種
   の8中隊を合わせて編成した中隊】

細島・渡川に宮崎新募隊

細島海岸に熊本隊
  【後に熊本隊、協同隊、龍口隊は豊後口
   へと向かいます】

美々津海岸に大砲2門、飯谷山に十ニ斤砲、細島・山陰に数門配置しています。

その他の隊は配置指揮の記載がないのでわからないですが耳川沿いに分けられたのでしょうね。


8月4日から8月6日まで耳川を対峙している両軍は砲撃を繰り返します。

官は耳川を渡河しようとしますが雨による増水で上手く渡ることができません。

なんとか渡ろうとする官軍に対し薩軍は耳川の真ん中あたりまで引き付け一斉に銃弾を浴びせました。

この銃撃戦で多くの官軍兵は倒れ溺れていったそうです。

2年前の美々津激戦地の写真ですが木々に覆われ看板が見えませんできました。



今回の再訪問で木々は刈られて文字が壊れていますが看板が見えました。




8月7日

8月6日薩軍の好守により耳川を渡ることができない官軍は別働第ニ旅団を大きく迂回させ、渡川・神門・山陰に向かわせました。





猛攻する別働第ニ旅団に渡川・神門の薩軍守備兵は敗走、勢いに乗った別働第ニ旅団は山陰にて奇兵隊を横から攻撃します。



虚を突かれた奇兵隊は激しく応戦するも次第に押され後退してしまいました。

別働第ニ旅団の進撃によって他の薩軍は退路を断たれ袋のネズミ状態となってしまい各隊はバラバラに間道や山に潜行して退路を探します。

延岡にいた野村忍介は佐土原の敗戦で美々津にて官軍を迎え撃つ報告を受け、『美々津は守り易い土地であるが上流に迂回して渡河すれば本営まで破られる。なので山陰の守備を強める事が大事である』と考え、これを伝えるべく急ぎ馬に乗り富高新町へ向かいます。

しかし、野村が富高新町の本営へ着く前に官軍は野村が予想した通りの進軍をして美々津は破られてしまいました。

薩南血涙史の著者である加治木常樹氏は当時加治木彦七という名で薩軍に参加しており、この時に各隊士同様潜行して潜伏し、潜伏中に城山陥落の報を聞くと鹿児島へ戻り自首して政府の縛につくことになります。

別働第ニ旅団の活躍により薩軍は敗走して、官は耳川を渡り富高新町を占拠できました。

戦線は更に北上することになります。



【史跡】

薩軍戦没供養塔と薩軍兵の墓

美々津町余瀬に美々津の戦いで戦死した薩軍兵の墓と供養塔があります。

放置された遺体を地元住民が埋葬したとのことです。







供養塔の右には41基の墓が並んでいます。









西南之役戦没者慰霊之碑

日向市幸脇の菅原神社には薩軍の西南之役戦没者慰霊之碑が建てられてられています。









福瀬神社

日向市東郷町山陰乙(西南戦争当時は福瀬村)
の福瀬神社は薩軍の屯所が置かれていたと云われています。

ここに配置された奇兵四番の屯所だったのでしょうか?











西郷南洲翁家来の墓

東郷町山陰乙にある墓です。

名前は高木岩三郎とありますが6239名の薩軍戦死者名簿にはその名がありません。

知っている方がおられましたらご教授よろしくお願い致します。

















美々津の官軍墓地

美々津町公民館横の墓地に警視局一等警部補・細谷卓良の墓があります。

警視局なので新撰旅団の戦死者と思われます。









西南戦闘日注より








新町台場

八坂神社には幕末に高鍋藩が築いた台場があります。

美々津は日向国有数の港で宿場町や藩の御仮屋もあり、海上防衛の必要性から築かれました。

結局、異国に対して使用されませんでしたが西南戦争で再利用されています。

耳川南側なので官軍が使用したのではないでしょうか?



北側に土塁が残っています。



砲台跡











有栖川征討総督宮殿下御本営跡

細島にある摂津屋は江戸時代から薩摩の御用達で参勤交代ではここから船で大阪に向かっていました。

西南戦争では有栖川熾仁親王が本営として入られています。













細島官軍墓地

ここには可愛岳で戦死した東京鎮台歩兵第一連隊第三大隊長・迫田鐵五郎と美々津周辺での戦死者、和田越決戦・可愛岳突出での戦死者が埋葬されています。

墓地には320柱の墓石があります。








迫田鐵五郎の墓

鐵五郎は通称で諱は政豊です。



墓石には可愛岳にて戦死とありますが、延岡市在住の【西南戦争 和田越決戦を語り継ぐ会】会長・牧野義英氏が子孫の証言や薩軍と官軍の動向を調べると迫田少佐は可愛岳ではなく可愛岳西側の六首山から浜砂(はまご)集落間での戦闘で瀕死の重傷を負っています。

辺見十郎太は武士の情けで部下に命じ、後頭部を撃って絶命させたとのことです。



県名を見れば当時宮崎は鹿児島県だった事がわかります。



迫田鐵五郎は鹿児島城下の下加治屋町出身で同じ下加治屋町出身の西郷隆盛とは22歳年下でした。

同郷の下加治屋町生まれの縁で迫田鐵五郎は幼い頃、西郷隆盛の膝に乗せられたり、可愛いがられたそうです。









旧高鍋屋

昔は旅館として営業されていましたが現在は資料館になっています。

迫田鐵五郎の遺品等も展示してあります。







門川・辺見十郎太奮戦の地

富高新町を占拠した官軍は北上して門川に迫ってきました。

西南戦争史跡⑧で桐野利秋が門川で指揮して激戦していると載せていますが門川の鳴子橋付近では辺見十郎太や河野主一郎が迫りくる官軍と海上の海軍艦隊から放たれた砲撃の中奮戦しています。

その奮戦した場所には以前標柱がありました。



現在は標柱も倒れ、無残な状態になってました。

とても残念で早急に作り直してもらいたいと思っています!



辺見十郎太奮戦の地付近



鳴子橋



































薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㊿ 特別編②

2024-01-25 12:56:00 | 宮崎県西南戦争史跡
長尾山から道を戻ります。




長尾山一本松から元来た道を戻り更に進むと尾根道が遮断されていました。

ここが小梓峠で薩軍が構築した堀切とのことです。

地図には道が途切れている様な印があります。

堀切の印でしょうか?



戦国時代ではないのに堀切?と思いましたが牧野会長曰く薩摩には外城制度があり、そこで暮らす士族は詰めの山城を整備、補修、管理していたとの事でした。

薩摩の詰めの山城例(知覧城)


そのため堀切、切岸、竪堀、土塁などを構築するのは慣れていたそうです。



切岸とは?


ご当地薩摩に居たのに知らなかったなんて本当に勉強不足を痛感…

薩摩はシラス台地で削り易い土地ですがここでは岩盤もあり構築する時は大変だったのではないでしょうか!





堀切横にはハシゴが掛けてあり一旦降りてからまた上ります。





上っている所は竪堀になります。

ここも薩軍の構築したものです。



竪堀を上から撮影。

ロープで上るほど急斜面です。





堀切といい竪堀といいとても素晴らしい遺構が残ってます。

当ブログに載せている西南戦争史跡⑦で薩軍兵士の働きがここなのでしょうね!

人吉の江代から明治10年5月に豊後方面に向かったのが野村忍介率いる奇兵隊19個中隊と工兵隊250名と薩南血涙史に書いてあります。

牧野会長の説明では7月頃から構築していたのではないかと言われていました。

野村忍介が先見の明にて構築させたのではないのでしょうか。

それからしばらく下ると新たに見つかった塹壕を案内してもらい説明を受けました。





ここは藪の中でわかりにくいですが、この様に埋もれている遺構もまだまだあるのではないかと思われます。

最初はこれまで案内してもらった遺構もこんな状態だったのでしょうね。

わかり易く整備された牧野会長や会員の方々、有志の方々のご尽力には本当に感謝します。

ここから駐車場へ戻ることになります。




駐車場への戻り道はこれまでで一番な急斜面をロープをつたって降りました。

ここも薩軍が構築した竪堀です。

本当に見どころ満載ですね!



降りた先には旧日豊街道小梓峠のトンネルがあり、トンネルの上には堀切が見えます。





トンネルは西南戦争の時には無く、その後に掘られたものです。

ここから駐車場へ向かい今回の遺構巡りは終了しました。



しかし!!!

牧野会長のご厚意によりオプションを付けていただく事ができました!

新しく発見された薩軍戦死者仮埋葬地

地元住民による口伝で場所を特定することができましたが窪地だったためにゴミが投棄されてスゴい状態だったそうです。

牧野会長と会員の方々によってゴミを分別、回収してもらい陽の目に当たることができました。

国道10号線とJR日豊本線の間の窪地にあります。



ハシゴを下りて見に行きました。

このハシゴと堀切のハシゴなどは寄付されたものだそうです。

有り難いですね!

今は改葬されて誰も眠っていませんが仮埋葬された所でしたので線香をあげさせていただきました。



この看板は和田越決戦を語り継ぐ会が自費で製作されたものです。

文化財のゴミ撤去や看板なんかは行政が行うことではと思いますが…



口伝でしかなかった場所が忘れ去られず発見されたことでは奇跡に近いものを感じます。

関心がある方は訪問してみて下さい。





薩軍戦死者仮埋葬地の詳細なブログを紹介しますのでこちらもご覧下さい。



それから和田越決戦の碑へ向かい牧野会長から説明を受けました。





説明の後更に追加オプションが!!!

薩軍本営跡と砲塁も案内していただきました。

和田越決戦の碑から山の中へ入り、しばらく進むと新たな山道とぶつかります。

そのぶつかった道は西南戦争当時の日豊街道で堂ヶ坂という坂だと教えていただきました。



堂ヶ坂の道は今よりも広かったようですが長年の月日によって道幅が狭くなってます。

しかし、上の方は当時の道幅で残っていました。

ここを桐野利秋が抜刀して駆け下り官軍兵士に切り込んたとのことです。



黄色の道が小梓峠越旧ルート・赤色の道が和田越峠越新ルート・青色の道が明治31年に開通した国道10号線(現在の国道10号線ではありません)。

赤色の和田越峠越新ルートに堂ヶ坂があります。



堂ヶ坂の先端は国道10号線和田越トンネル開通で削られてしまいました。








薩軍本営跡

ここで西郷隆盛は西南戦争で初の陣頭指揮を取りましたが被弾する危険があるので薩軍少将達に引きずられて後ろへ行ったそうです。




薩軍砲塁跡

ここには薩軍が設置した大砲3門の内の1門が置かれました。

長尾山一本松と小梓峠に四斤山砲、ここには臼砲を設置しており、この臼砲が和田越決戦の開戦が始まる最初の砲撃だったようです。

【四斤山砲と臼砲の違いは西南戦争史跡㉚に書いています】

開戦当初薩軍は四斤山砲28門、十ニ斤砲2門、臼砲30門、計60門の大砲を所持していたのに、これまでの敗戦・敗走で最後の決戦では3門のみとは…



これにて今回の遺構巡りを終了しました。

和田越決戦を語り継ぐ会では小梓峠~長尾山コースと小梓峠~和田越コースの遺構巡りを毎年開催しております。

これだけ数多くの塹壕・砲塁が直に見学できますし、西南戦争での堀切・切岸・竪堀の遺構はここにしかありません。

実際に見て説明を聞いて感動したい方がおられましたら是非参加して下さい。



今回の遺構巡りを終えて感じたことは当時の人達が構築したものが数多く残っており、現在において西南戦争の姿が垣間見えたことに感動しました。

和田越決戦を語り継ぐ会の方々による遺構の調査・整備・保全の活動は頭が下がる思いと共感する思いとでいっぱいです。

誰も目を配らなければ遺構は消えてただの山になるだけではないのでしょうか!

鹿児島、熊本、宮崎にはまだ数多くの遺構がありますが関心が低い為か有名な場所のみ観光地化され、その他は消えてしまう運命にあるのです。

3年後は西南戦争から150年を迎えます。

西南戦争の始まりと終わりの鹿児島、西南戦争最大の激戦地だった熊本、西南戦争最後の決戦地だった宮崎。

個人の力より会の力、会の力より町の力、町の力より市の力、市の力より県の力。

鹿児島、熊本、宮崎の県が三位一体となって150周年を迎える催しをして消えていく遺構を見直す必要があると思いました。

同じ様に共感できる方がいたらちょっとした声を上げてもらえたら嬉しく思います。

時代の矛盾を全て包み込み爆発して消えていった日本最後の内戦・西南戦争。

この戦争が風化しないことを望みます。


最後に遺構巡りを終了してから牧野会長宅にお邪魔することになりました。

昼食をご馳走になり、お土産までいただいて帰りました。

お土産にいただいた和田越から出土した四斤山砲の砲弾片



宝物としております。


牧野会長のブログ紹介
(#1 和田越決戦遺構の動画ではこのブログより詳しく説明されております)


書籍【西南戦争 和田越ノ戦を語る戦争遺構】



【和田越決戦遺構の代表的な写真】

自分が撮影していないのですが遺構の写真をいただいたので載せていきます。

薩軍が構築した2本の竪堀



薩軍が日豊街道を削って構築した塹壕
(長さは100mほどあります)





上記塹壕の整備以前の状況
(とても塹壕があるとは思えない…)


シダを刈り払っても間伐材がいくつもあったようです


間伐材をそのままにしておけばシダが生えるし、刈り払う時足元が危ないので撤去しています


整備、保全が本当に大変だとわかる写真ですね



奇兵隊の砲塁



官軍の砲塁



官軍弧状塹壕



奇兵隊の砲塁(一本松)



堂ヶ坂



薩軍の臼砲砲塁



薩軍が構築した切岸

小梓峠北側に二段構造の切岸があります



和田越決戦古戦場から出土した銃弾




















薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㊾ 特別編①

2024-01-24 00:31:00 | 宮崎県西南戦争史跡
2024年1月21日

宮崎県延岡市の【西南戦争 和田越決戦を語り継ぐ会】が主催された西南戦争和田越決戦遺構巡りに参加させていただきました。




会長の牧野義英氏について

牧野会長は1人で会を立ち上げ、個人で無鹿山~和田越~小梓峠~長尾山を実地踏査して西南戦争の遺構を発見されました。

後に有志も集まり会員も増えています。

調査により見つかった遺構は約70ヶ所。

塹壕・砲塁・竪堀・堀切・切岸・薩軍本営跡・弾薬庫など当時の状態で残っていました。


【著者 牧野義英氏
西南戦争 和田越ノ戦いを語る戦争遺構より】

現在も会員の方々や有志の方々により遺構の保全・保護に努めておりシダなどの藪を払い、倒木の撤去も行われおります。

行政からの補助も無く会費で全て行なっているとのことでした。

とても頭が下がる思いです。

今は薩軍可愛岳突出の際、前軍が通ったとされる道を調査しており、自分も微力ながら手伝わさせていただきます。

とても素晴らしい方と知り合い、こんなご縁に感謝しております。


西南戦争和田越決戦遺構巡り

西南戦争当時、延岡は鹿児島県であり和田越決戦遺構巡りは鹿児島の歴史だと認識して下さい。

今回の集合場所(赤マーク)


牧野会長と初めてお会いし、遠方でも入会できると言われたので速入会させてもらう事に!!

そして、SNSでやり取りしていた南氏も鹿児島から参加していたので挨拶をし、西南戦争史跡の話で盛り上がりました。

自分はまだスタート前ですが期待と喜びの感情に包まれていました。


【和田越決戦の配置図】

赤色が和田越決戦での薩軍陣地です。



前日は雨でしたが天気も回復し、良い遺構巡りになり、当日会員の方、一般の方が22名集まって遺構巡りスタートです。



山に入る前、牧野会長より官軍・山縣有朋が指揮をした樫山の説明がありました。



中央の小山が樫山



説明後長尾山一本松を目指して山の中に向かいます。



最初からハシゴを上るとは…この先は大丈夫か?と思う瞬間でした。

ハシゴの上が旧日豊街道と思われ右下の道が昭和に新設れた市道とのことです。

かなり削られているのがわかります。



多少不安でしたが思ったよりも緩やかな坂で尾根を目指して登って行きます。



当時の燃料は全て薪や木炭でした。

そのため全国の町や村周辺の山々の木は伐採され禿げ山だったらしいです。

ここも例外ではなく木々がなかったので両軍兵士の動きが見えていたことでしょう。





尾根の幅が1番狭い場所で、両側は急斜面でまるで馬の背みたいな所です。


小梓峠と長尾山の中間辺りです。

牧野会長の話では小梓峠付近には薩軍兵士が蟻集しており、何か画策しているかもと考えた別動第ニ旅団司令の山田少将はこの辺りに兵士を進むよう命令しています。

写真の左側が南で官軍陣地側ですが上では薩軍が守り、この様な急斜面を官軍が下からよじ登ってきたのでしょうね。

上では敵兵が待ち構えておるのに官軍兵士は銃を持ち、荷物を背負って登るなんてとても信じられません…



傾斜量図で見るとここが急斜面だとよくわかります。




しばらく尾根を進むとあんなに狭かった道が開けてきました。

すると地面に円形状の窪みが!

とても自然にできたとは思えないような形ですね…

ここは武器弾薬などを置くために作られた窪地だそうです。



更に進むと人工的に作ったとしか考えられない三日月型の土塁がありました。

塹壕跡です。

147年前の遺構がしっかりと残っていますね!

素晴らしい!!!

牧野会長の説明を受けながら順次見て回ります。



牧野会長は全ての遺構に番号を付け、所在地・遺構の種類・遺構の寸法・概要をまとめておられます。

本当にスゴい…



更に塹壕!





次々と現れる塹壕!

これまでいろんな場所の遺構を巡りましたがこんな数の塹壕が残っている場所は他にないと思います。





田原坂周辺の史跡も石碑など多くていいけれど、ここには当時の状態がそのまま残っているのが素晴らしい!







ここはとてもいい状態で残っている塹壕です。

わかりやすく感動しますね!

牧野会長の本を読んで色々と想像はしていたのですが想像を上回る光景でした。







またまた塹壕!!!





本当に想像を上回る光景です!





土地開発などされなかった事に感謝します!




長尾山一本松の薩軍砲塁跡

小梓峠西側から長尾山までの塹壕は明治10年8月15日の和田越決戦の後、ここに入った官軍が12万人もいる軍夫を使い薩軍が集まっている長井村俵野へ向け北側に構築したとの事でした。

一本松の砲塁は元々薩軍砲塁で南側に土塁がありましたが官軍が摂取して北側に土塁を築いたそうです。



南側にあった薩軍砲塁の土塁はミカン畑事業により削られ高さ3mほどの崖となり今はありません。

とても残念です…



一本松の塹壕で説明をしている牧野会長

牧野会長は博識で遺構だけではなく両軍の戦闘状況まで把握されており自分はまだまだ勉強不足だと痛感しました…



一本松から来た道を戻り逆側の小梓峠に向かいます。

特別編②へつづく






















薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㊽ 熊本県玉名市②

2024-01-07 19:49:00 | 熊本県西南戦争史跡
高瀬大会戦の地

菊池川の河川敷に案内板があります。





川を挟み両軍の激しい戦闘がありました。






西郷小兵衛戦死の地

戦死の地とありますが、ここではまだ西郷小兵衛の息はありました。

小兵衛は熊本に運ばれる途中に亡くなっています。



永徳寺地区の堤防には昭和10年の命日に石碑が建立されています。



堤防より繁根木方面を望む






繁根木八幡宮

官軍の近衛兵が居た場所です。





弾痕と思われます。










鳳樹楼跡

官軍の征討軍本営跡で征討総督・有栖川熾仁親王がここに入り指揮しています。










菖蒲庵

荒木直平商店の裏で繁根木川河畔にあります。

当時、荒木酢屋の離れで有栖川熾仁親王が宿泊したと伝えられています。



酢屋だったことが残る酢屋橋






高瀬官軍墓地

ここには官軍兵の墓395柱がありましたが昭和41年に合祀塔に祀られました。

墓地の周りには多くの寺院がありますが、当時ほとんどが病院として使用されていました。












船隈官軍本営跡

田原坂方面に進撃するまで官軍首脳陣が作戦会議を開いた場所です。

熊本城から現状報告のため脱出した伍長・谷村計介はここで報告しました。








加治木隊集団自決の地

負傷した加治木隊16名が官軍に追い詰められて自決した場所です。





自決した加治木隊16名の亡骸は地元の嶋津太郎作氏により供養されています。

遺骨のほとんどが遺族に引き取られましたが1人だけ残されました。

2022年に残された墓の名前が東楠薗利助(加治木隊三番小隊・弓場利助)と判明、2023年に誰が墓を作ったのか判明されました。

弓場利助の郷里である加治木で幼馴染みの有村與助が加治木で墓石を制作して玉名まで運んだとのことです。

とても長い年月がかかりましたが判明されて良かったです。



自決の地より少し東へ行くと左に上る道があります。



ここを上がって行けば墓に着きますが民家の敷地内を通るので行かれる際は一言声をかける事をおすすめします。





【加治木隊士の墓の詳細】

薩軍兵士の墓 謎明らかに

自決した幼なじみの墓を『郷里の石』で作った元従軍兵



池邊吉十郎の墓

明治10年10月26日長崎で処刑された熊本隊隊長・池邊吉十郎の墓が玉名市横山町にあります。


























薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㊼ 熊本県玉名市①

2024-01-07 17:59:00 | 熊本県西南戦争史跡
玉名での西南戦争

玉名市は明治10年2月25日から27日の3日間激しい戦闘が行われました。

当時玉名は高瀬と呼ばれており、高瀬大会戦・高瀬の戦いと言われています。

2月25日

官軍第一旅団・第二旅団は南関におり、高瀬には前日木葉で敗退した官軍第十四連隊がいました。

薩軍は高瀬の南東にある小天(現天水町)に300人・小天の北にある伊倉に400人・木葉に500人・山鹿に1000人と集結し、高瀬へ進行していきます。

兵力が劣勢の官軍でしたが第一旅団の前衛隊が高瀬に入り、玉名船隈に集結しました。

25日の戦闘は夕方から始まり官軍は高瀬の北から進軍、薩軍は南から菊池川を渡河して進軍し銃撃戦や砲戦を行います。

戦いは午後8時頃まで続きましたが両軍引き上げました。

山鹿からの四番大隊ニ番小隊はこの戦闘には間に合わなかったようです。




2月26日

未明に官軍本隊が高瀬に入り増兵されました。

前衛 歩兵1個大隊
本隊 歩兵2個中隊
後衛 歩兵2個中隊
予備 歩兵1個大隊

午前5時に官軍は出発します。

迫間を出発した官軍の隊が南関へ前進中の薩軍を発見し、現在の現和水町白石で両軍の戦闘がありました。

この時負傷した薩軍16名は官軍に追い詰められ、下村(現玉名市下)にて集団自決をしています。

官軍は安楽寺から木葉に進み、木葉で官軍兵の死屍を収容し、伏兵ありと見た国見山に放火、木葉山は全山猛火に包まれる。

進んで待機していた官軍は三好少将から撤退せよと再度厳命を受け、午後3時撤退します。

伊倉から進出した熊本隊は寺田で官軍の罠に嵌まり第一連隊・第ハ連隊に囲まれ激しい銃撃を受け多数の熊本隊士は戦死し、隊長の池邊吉十郎は腹部に銃創を負い撤退しました。




2月27日

劣勢になった薩軍は26日午後に熊本京町から2800人を徹夜で高瀬に送ります。

右翼には山鹿から桐野利秋、中央には木葉から篠原国幹・別府晋介、左翼には小天から村田新八と大隊長が薩軍兵を率いて高瀬の官軍に戦闘を仕掛けました。

桐野隊は菊池川を渡河して玉名大神宮に立てこもります。

三好少将は督戦中に負傷、船隈本営に近い玉名大神宮を奪還しようとした乃木少佐は攻撃中に負傷しました。

しかし、高瀬に野津鎮雄少将が到着して、山砲の力を借り、ようやく桐野隊を撤退させます。

中央の篠原・別府隊は菊池川対岸に築かれた胸壁から官軍が銃撃しており渡ることができない状態でした。

左翼の村田隊は下流の大浜津に迂回し、渡河して岩崎原の第ハ連隊を攻撃、官軍は繁根木・永徳寺(地名)に放火して撤退。

この時に高瀬御蔵も炎上します。

しかし、第一連隊と近衛兵が応援に駆けつけ反撃。

その中、西郷隆盛の末弟で薩軍一番大隊一番小隊長・西郷小兵衛は近衛兵がいる繁根木八幡宮の崖下を潜行して読坂に出ました。

読坂に出た西郷小兵衛の隊でしたが背後の三池往還に官軍が突出、退路が断たれた西郷小兵衛は2連発の愛用のピストルで応戦中に左胸に被弾してしまい永徳寺の堤防まで退避、焼け残った民家・橋本鶴松方の戸板を1枚借り受けて熊本市北岡にある西郷隆盛の本営まで運ばれます。

しかしながら残念な事に小兵衛はその途中で絶命してしまいました。



野津少将の到着により、さらに増兵された官軍を相手に応戦していた薩軍でしたが兵力差には敵わず撤退します。



これにより高瀬での戦いは終わりました。

【史跡は西南戦争史跡㊽に続きます】