西南戦争・薩摩の史跡を巡る

西南戦争に関する有名な史跡からレアな史跡・薩摩の史跡を載せてます。
史跡の詳細な地図も付けています。

薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡⑪ 霧島市横川町

2022-04-22 13:14:00 | 鹿児島県西南戦争史跡
横川町の激戦地跡

現在この地には堡塁が残っています。

明治10年8月30日延岡から九州山地を越えて鹿児島を目指す薩軍と宮崎細島から海路で鹿児島の姶良市重富に着いた政府軍第2旅団が横川で戦闘を繰り広げました。

8月29日重富にいる政府軍に薩軍が栗野地方に突出した報を得ると第2旅団の三好少将は野崎中佐、野津大佐を横川、溝辺へ向かわしました。

対する薩軍は貴島清が率いる振武隊が交戦します。

両軍勝敗が決まらない中、貴島清は一分隊を分けて小久保新助に政府軍の背後を撃つように命令しました。

これにより政府軍は敗走しています。

薩軍の死傷者20名、政府軍の死傷者42名を出す激戦でした。





堡塁跡



堡塁の内側







もう一つの激戦地跡は少し離れた場所にあります。

元々ここは民部塚があった場所でなんと!

薩摩では嫌われ者最上位2名の内の1人川路利良の銅像が建てられています。(もう1人は想像にお任せします)

現に川路は別動第3旅団を率いて水俣、大口方面に出撃してましたが薩摩の一般市民からも嫌われていたため、市民の暴動が起こる不安から川路は旅団長を解かれ東京に戻されました。

しかし、時間の経過と共に鹿児島市内にも2名の銅像が建てられています。

川路利良は民部塚での北原氏末裔ということで銅像が建てられたようですが他のブログには広島原爆ドームにトルーマン大統領の銅像を建てるものだとありました。(ちょっと納得)

この地に葬られた薩軍兵士が怒っていると…

薩軍兵士の怨念で亡霊が現れるとちょっとした心霊スポットになっているみたいです。

実際はともあれここは激戦地だったようです。





案内板が消えかけているので載せておきます。

【西南戦争激戦地  明治十年(1877)8月30日午前5時頃薩軍の隊長貴島清の指揮する先鋒隊ニ百数十名は此の地、民部塚に於いて加治木方面から北上中の官軍第ニ旅団中崎中佐の一隊と遭遇し直ちに馬渡川をはさんで両軍東西に展開し、翌31日午前2時まで21時間に亘って激戦を交えた。この戦斗で大西郷は、まさに危うく官軍の重囲を脱出し薩軍の中隊長、山田泉之介・官軍伊吹杢三郎少尉等両軍合わせて62名が戦死した。】



















薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡⑩ 熊本県水俣市・芦北町

2022-04-18 23:31:00 | 熊本県西南戦争史跡
水俣方面での西南戦争

明治10年5月5日

官軍が水俣より大口(鹿児島県伊佐市)に進軍する報により、薩軍は人吉から兵を大口に派遣します。

5月5日派遣
干城七番中隊 (隊長・山口通清)
行進十一番中隊(隊長・上村友右衛門)
熊本協同隊  (隊長・淵上幾)
他一中隊   (隊號未詳)

5月6日派遣
熊本隊二番  (隊長・北村盛純)
熊本隊三番  (隊長・佐々友房)
熊本隊四番  (隊長・深野一三)

5月8日派遣
指揮長・辺見十郎太
正義一番中隊 (隊長・児玉軍治)
正義三番中隊 (隊長・森元休五郎)
正義四番中隊 (隊長・林一郎)
干城一番中隊 (隊長・伊集院權右衛門)
干城六番中隊 (隊長・未詳)
干城九番中隊 (隊長・長崎彦七)
破竹三番中隊 (隊長・橋口龜助)
雷撃六番中隊 (隊長・左近允喜八)

薩軍は大口を拠点として水俣方面に進撃し、別働第三旅団の進軍を止める激戦が7月1日まで続きました。

官軍・別働第三旅団(司令長官・川路利良)の動き

4月28日水俣に向け竪志田(美里町)を出発。

5月2日第三大隊が水俣に入り、第三大隊第二中隊は米ノ津(鹿児島県出水市)に進軍。

5月3日第三大隊第二中隊は米ノ津より阿久根に進軍。
第三大隊第三中隊一番、二番小隊は陣ノ山に哨戒線を張る。
徴募兵(一個中隊)は久木野に進軍。
第三大隊第一中隊は出水に進軍。
第四大隊第三中隊は矢筈岳に進軍。

5月4日水俣に集結した部隊が大口方面に進軍。
第三大隊第一中隊
第三大隊第三中隊
第四大隊第二中隊
第五大隊第一中隊
第五大隊第三中隊
(西南戦闘日注 旧別働第三旅団参謀部 編より)

水俣方面戦闘図
(新編西南戦史別冊 陸上自衛隊北熊本修親会 編より)





【西南戦争史跡】

水俣市薩軍慰霊碑

水俣城跡のある城山公園内にあります。








陣内官軍墓地

こちらも城山公園内にある官軍墓地です。

現在は崖崩れの為正面からは入る事ができませ
ん。

公園側から降りて辿り着きました。

墓碑の数は42基あります。

大半が明治10年6月18日の伊佐市大口にある高熊山で戦死した東京、名古屋、大阪の鎮台兵と近衛所属の将兵です。















深川の激戦地跡にある西南戦跡の碑

別動第三旅団(司令長官・川路利良)に引くことなく奮戦した薩軍(雷撃隊長・邊見十郎太が指揮)でしたが政府軍の増兵で大口へと撤退する事になります。

水俣市から鹿児島の大口に向かう途中に深川古戦の跡と書いてある看板があります。

看板の矢印方向に何があるか歩いて探す事にします。

坂を上って行くと給水所か浄水所の施設があり行き止まりでした。

その周辺を探していると藪の中に何やら石碑の一部のような物が…

藪の中に入ってみると発見!



とても分かりづらかったですが見つける事ができて良かったです。






ここでの戦闘後に別動第三旅団司令長官の川路利良は大山巌(西郷隆盛の従兄弟)の進言より旅団長を解任され東京に戻ります。

川路利良は西郷隆盛の後押しで大警視の役職になっています。(川路は城下士より身分が低い郷士)

恩のある西郷さんの暗殺を指示したのは川路利良でした。(西南戦争の原因の1つ)

そのような経緯もあり薩摩から嫌われている川路(西南戦争開戦時、鹿児島の川路宅は打ち壊されています)を薩摩に置いていては薩軍の士気を上げる要因になると大山巌は危惧しての進言だったようです。 



久木野の丁丑役記念碑

ここも不確定な情報の中探してみる事にしました。

近くに着いても案内板や看板すらありません。

携帯の示す場所は山の中!

とりあえず山の中に入れそうな場所を探します。



倒木のある斜面を登りながら探す事30分…

気持ちも折れかけ諦めようかと思いはじめてきました。





もう少しで山頂のような感じだったのでそこまで行っても無ければ帰ろうと思い山頂を目指して行きます。

すると山頂付近でいきなり目の前に石碑が!

やっと見つける事ができました。



せっかく残っている石碑…

行政がきちんと整備してもらえたらと思いますね…



碑までの登った経路

訪れる際は道の無い山なので気をつけて下さい。





大関山の四本杉台場

芦北町の大関山でも激しい戦闘が行われています。

ここには台場の跡があるとの事で行ってみました。

道は車1台分の幅しかなく、枯れ葉や転げ落ちた小さな岩が路上にあります。

途中からは砂利道で大丈夫かと思いながら上って行きました。



ようやく標柱を見つける事ができ、周りに遺構がないか歩き回りましたが…





砲台跡の遺構は見つける事ができませんでした。





峰崎官軍墓地

芦北町佐敷にある官軍墓地です。

ここには芦北地区での官軍戦死者86名が埋葬されています。









田浦官軍墓地

芦北町田浦にある官軍墓地です。

ここには西南戦争終戦後の官軍墓地建設から漏れていた陸軍兵卒・小嶋喜之助の墓が1柱あります。

明治18年以降に官軍墓地として建設されました。

道路横に田浦官軍墓地の案内石柱がありますが、墓はその奥の山中にあるようです。

今回訪問した時は入口にあるミカン畑の収穫時期で電気柵が設けており残念ながら入る事ができませんでした。




















薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡⑨ 宮崎市

2022-04-17 19:06:00 | 宮崎県西南戦争史跡
西郷隆盛駐在の地

明治10年5月31日に西郷隆盛は人吉から宮崎に移りました。

宮崎では現在の広島通りに農家黒田某の家があり、そこで2ヶ月ほど過ごしてます。

【西郷臨末記】の著者・香春建一氏は黒田某宅の隣にあった金丸某の家に住む亀松少年(西南の役当時11才)に話を聞いたようです。(香春氏が会った時の亀松少年は73才でした)

周辺の地理に詳しかった亀松少年はよく西郷さんと兎狩りに行ってたそうです。

金丸某宅の近くに黒田藤三郎宅があり、薩軍の賄所として兵糧を何十俵も積んでる場所がありました。

西郷さんは兎を持って来ては自ら兎鍋を作り薩軍兵にも振る舞っていたと話てます。

この場所は当時草原が広がり農家がポツポツあったとありましたが、現在は宮崎市の市街地でそんな面影はありません。














西郷隆盛宿泊の寺 帝釈寺

7月28日に黒田某宅を出た西郷さんは3kmほど離れた帝釈寺に2泊してます。

ここには丁丑戦死之墓が建立されています。









西郷札製造所跡

西南の役で資金不足に陥った薩軍は西郷札を製造して物資補給を行ってます。

現在は宮崎県埋蔵文化財センター本館が建ってます。












薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡⑧ 宮崎県美々津・門川①

2022-04-16 10:48:00 | 宮崎県西南戦争史跡
日向市美々津の激戦地跡

明治10年8月3日から7日にかけて耳川を挟み薩軍と政府軍の激戦が繰り広げられました。

以前はこの耳川の中洲に激戦地跡の看板がありましたが樹木に覆われているのか、濁流に流されたのか現在は見えません。



薩南血涙史にある美々津の戦い








東臼杵郡門川町の薩軍本営跡と激戦地跡

美々津の戦いで敗れた薩軍は8月9日門川に集まります。

門川本営には桐野利秋がおり、雷撃隊の邊見十郎太・奇兵隊の野村忍介等もこの地にやって来ます。

門川でも激戦が行われますが薩軍は政府軍に敗れて延岡へ撤退します。

桐野利秋は8月13日に本営だった赤沢宅を去りました。





門川本営の眼前は海が広がっています。

風景は当時のままでしょうね!











薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡⑦ 延岡市和田越決戦

2022-04-13 17:34:00 | 宮崎県西南戦争史跡
西南戦争最後の決戦場

【和田越】

明治10年8月15日薩軍と政府軍がこの地で対峙、戦闘となりました。



薩軍は無鹿山~和田越~小梓峠~長尾山に15隊約3,500人を配置してます。

大峡町の山崎家には決戦の幾日前から薩軍が居座り日中作業に出かけていたと伝わっています。

小梓峠を中心に竪堀、堀切、切岸、塹壕などが残ってますが、それらを構築してたのではないでしょうか?

本営は和田越にあり、西郷隆盛はそこで西南戦争で初めて陣頭指揮をとりました。











対する政府軍は海岸側から新撰旅団3,700人、第四旅団2,500人、別動第二旅団5,200人、第二旅団6,300人、第一旅団6,400人、予備軍として後方に第三旅団5,000人、豊後方面より熊本鎮台8,000人の大軍で西南東から攻撃をします。

海岸線からは海軍戦艦の日進、清輝、鳳翔、丁卯の4隻が援護射撃を行いました。

兵数、火力等の戦力差は一目瞭然です。

薩軍は奮戦するも圧倒的兵力の差で北川地区の俵野へ敗走しました。

これで西南戦争における大きな決戦は終わり、薩軍は軍を解散して鹿児島の城山に向かうことになります。



薩軍側からの眺め

中央の小高い山に政府軍の山縣有朋がいました。







【参考資料】

西南戦争 和田越ノ戦いを語る戦争遺構