西南戦争・薩摩の史跡を巡る

西南戦争に関する有名な史跡からレアな史跡・薩摩の史跡を載せてます。
史跡の詳細な地図も付けています。

薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡53 薩軍可愛岳突囲戦 前軍経路探索編②

2024-02-24 11:04:00 | 宮崎県西南戦争史跡
前回の続きになります。

探索メンバーは牧野義英会長・南晃さん・小田原聡さんで炭窯跡から最終地点の浜砂(はまご)集落まで目指します。

今回の経路




前回見つけた標高406m地点の炭窯跡からスタートです。



牧野会長の説明では可愛岳南ダキ下の標高500m辺りまでには多くの炭窯跡があるそうで、これまでに10ヶ所程確認しているとの事でした。

古来より主として使われた燃料は炭や薪であり、炭窯があった周辺では広範囲で樹木を定期的に伐採していたため、戦記本では深山幽谷の森であったと記されてますが現実には低木の雑木林だったと話されていました。

炭や薪は木馬路(きんまみち)で里まで下ろしていたそうです。

(木馬路とは炭や薪をソリに乗せ里を行き来していた路です。昭和30年ぐらいまで使われていましたが燃料が石炭・石油に変化していき徐々に使われなくなりました。そのため今では崩壊や消えてわからなくなっています)

その事から西南戦争当時は多くの木馬路が存在しており、薩軍が暗闇の中でも進出できたのは地元案内人が木馬路を案内して通ったと考えられます。

この炭窯跡にも木馬路らしき路が可愛岳山頂側の東に伸びていました。



その木馬路を進みます。



木馬路も280m程で辺り一面岩ばかりになり、木馬路も消えてしまいました。



メンバー全員で路の痕跡を探しましたが何も見つかりません。

牧野会長が上の写真奥に写る尾根に登ろうと言われ、皆登って行きました。



尾根に登ったら尾根に沿って路らしき状態になっており、ここから北側の百間ダキ下まで行き、それから百間ダキ沿いに西側へ探索することにします。



歩き易い尾根路です。



尾根を進むと百間ダキの断崖絶壁に突き当りました。

目の前には大きな岩の壁!

こんな光景は初めてです。



この絶壁の岩は白いので花崗岩か花崗斑岩だと思われますが自分にはまだ区別がつきません。

まだまだ勉強不足ですね…
地質学も学ばないと!

ここから絶壁の下に沿って西側に進みます。







なかなか険しい路です。





ここは獣道なのだろうかと思ったりもします。



絶壁下を進んでいると徐々に大きな岩が現れてきました。



この時、何故か身体は軽く、ワクワクともウキウキともいうような気分になっていました。

アドレナリンが出ていたのか何かに憑かれていたのかわかりませんが不思議な感じでした。

そんな状態で1人ではしゃいでいた事を思い出します。




巨石が立ち塞がるようになってきたので無理して絶壁沿いを進まず、会長の助言に従い植林地に沿って歩くことにしました。





すると牧野会長が『さっきの場所だね』といいましたがメンバー全員は『???』で現状を把握していません。

少し歩くと最初の炭窯跡が現れました。

牧野会長の洞察力には感服します!!

牧野会長は自分達に気遣った言葉なのか『これまでの時間を無駄にしたね』と言われましたが、自分の中では東から西に進むルートは絶壁沿いを通ってもスタートした木馬路を通ってもこの炭窯跡に着く。

という事は薩軍の前軍はこの木馬路のルートを通ってここから中ノ越へ向かったのではないのかと想像できました。

ですので自分には無駄ではなく結論が出た探索だったと思います。



戻ってきた炭窯跡から探索再開します。

これから中ノ越に向かって進むのですが路がありません。

炭窯跡裏の斜面を登って行きます。

これが中々の急斜面。

途中で休憩をしてまた登り、登りきった所に獣道が現れます。

まだ新しい鹿の足跡があり、牧野会長はさっきまでここに居たが自分達の気配を感じ逃げたのだろうと言われました。



その獣道を進むと新たな炭窯跡を見つけます。

標高442m・時刻10:38 2番目の炭窯跡です。



しかしながらこの炭窯跡の周りには木馬路が存在しません。

炭窯があれば木馬路もあるはずですが、今では落石・土砂・腐葉土などで埋没したりしています。

またシダに覆われたり、沢のような所も崩落して無くなってしまう部分もあったりと残念ながら既に消滅してしまったのでしょう。

この炭窯跡の存在で昔は木馬路があり、薩軍の前軍が通った可能性が高いと思われます。

そう考えると先人の息吹を感じるとても感慨深い探索です。

その様な事を考え炭窯跡を横目に中ノ越へ向い進みます。



ようやく可愛岳の百間ダキも終わり稜線へ登ることができました。

標高568m・時刻11:28・距離6km

ここでまた記念撮影。



そして休憩!

喫煙者の自分は休憩の度ニコチンを摂取しています。(笑)
大自然の中での一服!
(もちろん携帯灰皿は持参しています)



ここから稜線に沿って中ノ越・六首山・小畑山を目指して歩きます。

稜線の最狭部



中ノ越へ向かっていると牧野会長の足が止まりました。

塹壕を見つけたようです。

確かに土塁と窪み。

会長に言われなければ誰もが気がつかなかったでしょう。

和田越に残る数多くの塹壕を発見して整備、管理している会長の眼力には本当に感服しますし、我々にはない見識を持っているのでとても頼りになります。

この塹壕を塹壕①としておきます。

土塁が南側に構築されているのは南側の斜面を攻め込んでくる官軍に対応するためでしょうね。



この塹壕から114m先にも塹壕があります。

2つ目の塹壕を塹壕②としましょう。

こちらの土塁は北側に構築されています。



可愛岳突囲戦の姿が目の前に現れてきました。

事前に牧野会長から六首山塹壕群の資料をいただいてましたがこの2つの塹壕は中ノ越より可愛岳寄りにあります。

という事は六首山塹壕群は自分の考えていた範囲よりも更に広い範囲にあるということを認識しました。



この塹壕について調べていると1つのブログに答えがありました。

高橋信武氏のブログ【第九聯隊第三大隊第四中隊の西南戦争 8月】内にここの塹壕があり、8月15日・16日の両軍対峙にて薩軍が構築、守備していたことが書かれていました。

(第九聯隊第三大隊第四中隊の西南戦争 8月より)



西郷隆盛、薩軍の将達が俵野にいる間も両軍が対峙して戦闘があっていたのですね。

塹壕を後にして再び稜線を進みます。

11:47 標高523m中ノ越に到着。

中ノ越は可愛岳稜線の鞍部にあり、先ほど休憩した場所から中ノ越にかけて昔は猪や鹿が南側から北側へ稜線を越えていました。

猟師はこの中ノ越でも待ち伏せして可愛岳の南北を行き来する動物を獲っていたとのことです。

中ノ越辺りに長尾山からの稜線が交わります。

薩軍前軍経路探索①で書いてありますが8月15日和田越決戦で官軍に敗北して長尾山一本松から撤退した辺見十郎太隊はここに来て桑平・浜砂方面に向かっている途中、桑平から進んできた第ニ旅団と遭遇して戦闘がありました。

第ニ旅団は小畑山、辺見十郎太隊は六首山に陣を構え対峙します。

長尾山から追撃してくる別働第ニ旅団兵も六首山に陣取る辺見十郎太隊と対峙しているようです。

両軍膠着状態の中、夜になって辺見十郎太隊は可愛岳北側を回り俵野へ撤退しました。



8月15日に戦闘があったこの付近ですが可愛岳突囲においても戦闘が繰り広げられています。

今回は可愛岳突囲での薩軍前軍経路探索が目的なので少し内容を書きたいと思います。

先ず、文献を読み解くと前軍の指揮者が2通り書かれてます。

1つは相良長良・貴島清・松岡岩次郎。

1つは辺見十郎太・河野主一郎。

どちらが正しいのか判断がつきません。

高橋信武氏の【第九聯隊第三大隊第四中隊の西南戦争 8月】と他の文献を読んで疑問が出てきました。

薩南血涙史には俵野より三里(約12km)で桐野利秋と辺見十郎太が前軍に馳せて来て『敵の篝火がが多いので暫くこの地に兵を駐め全軍の来るのを待ち一気に敵塁を衝こう』と言ったが貴島・相良は『我らは先鋒の任を受けているので一歩も止まるわけにはいかない、唯一進んで死あるのみ』と話て進むこと数町、官軍が我が中軍の間を断つとあります。

桐野と辺見が話していた官軍の篝火は六首山の第ニ旅団哨兵だったのではないでしょうか。

高橋信武氏のブログには前軍の間を断った官軍は俵野の薩軍本隊を殲滅するため可愛岳北側の牙営を午前2時に出発した第ニ旅団本隊と書いてます。

征西戦記稿では第二旅団本隊は牙営を出てから六首山南側を下っています。


 
相良長良達の後側を第ニ旅団本隊が断ったとなれば相良達が六首山方面に進んだその頃に第ニ旅団哨兵と六首山で戦闘が始まらないと辻褄が合いません。

しかし、薩軍の六首山への攻撃は午前4時30分・英式喇叭と1発の銃声によって辺見十郎太と河野主一郎が前軍指揮で突出したとあります。



相良長良の上申書では空が少し明るくなって官軍に見つかり各塁より発砲され前軍は散々乱れて山中に逃れ、夜になり翌日険阻を越えて敵塁に斬り込みますが、官軍も頻りに激射してこれを防ぎます。

上申書には英式喇叭も銃声も官軍に向かって突出したなどありません。

それに空が少し明るくなってとありますから六首山での戦闘が始まる時間とは違います。(この時の日の出が午前5時半頃なので空が明るくなるのは午前5時頃ではないでしょうか)

仮に相良長良が六首山で戦闘をしているとしたら辺見・河野達の戦闘より後になる訳です。

どの文献にもそのような事は書かれていません。

これらを考えると相良長良達が戦闘をしたのは六首山ではなかったと思われます。

ここで仮説になりますが相良長良達は長尾山への稜線を進んでいたのではないかと考えます。

そうすれば第ニ旅団本隊が後側を断ったのも、明るくなって官軍に見つかり戦闘した事も辻褄が合います。

塁より発砲しているので前軍を見つけた官軍は長尾山からの稜線にいた第ニ旅団の右翼隊か別働第ニ旅団ではないでしょうか。

官軍の塁が今の所どこなのかわからないのでこれからの課題としておきます。



前軍に属していたが遅れて進んでいた河野主一郎は前軍を官軍が断った事から後退したと文献にはありますし、そこで中軍に属した可能性があります。

それにより河野主一郎と中軍の辺見十郎太が中ノ越辺りから西側に進んで六首山へ攻撃をしたのではないでしょうか。

これが辺見十郎太と河野主一郎が前軍の指揮者と書かれた文献もある理由なのかもしれません。

高橋信武氏のブログでは墜落した相良長良は8月19日に近くに残っていた薩軍兵と共に長尾山稜線守備の応援に来た第三旅団の2個中隊と戦闘しています。

薩南血涙史では19日の戦闘で相良長良・川久保十次・松岡岩次郎・福留某等は抜刀して敵塁に突入しましたが川久保は戦死、相良は負傷して谷に墜落しました。(この時貴島清の名前は出てきません。既に後軍へ移動していたと思われます)



この事から前軍だった相良長良は長尾山の稜線での戦闘で官軍の銃撃を避けるため谷を下ってから身を隠しました。

再度攻撃をしようとしたが急斜面を登るのは難しくて夜になり、翌日再び稜線の官軍へ攻撃を仕掛けたのではないでしょうか。


【六首山方面の戦闘】

8月18日午前4時30分頃
薩軍は英式喇叭と1発の銃声の後、辺見十郎太と河野主一郎の指揮で六首山付近にいた第ニ旅団哨兵に向かって抜刀して斬りかかりました。

突然の戦闘に少ない兵士で守備していた第ニ旅団哨兵は薩軍の勢いに押されて小畑山へ後退、浜砂まで逃げる兵士も出ています。

しかし、官軍も桑平から援隊が小畑山に進軍すると薩軍も押されて後退。

薩軍の辺見十郎太と河野主一郎が前軍として進んでは戻りを二度三度繰り返す戦闘をしながら小畑山にいる官軍を避けて山を下り、午前8時浜砂にて戦闘をして祝子川沿いを北側に向い、宮ヶ谷より再び山中に入り薩軍本隊と合流しています。

六首山での戦闘で第一旅団の迫田鐵太郎も戦死してしまいました。

第ニ旅団本隊も森木ノ坂を下りた辺りで六首山付近での銃声を聞き、二隊に分け六首山へ戻ろうとしますが森木ノ坂は急斜面で坂の上には薩軍がいたので登ることができなかったのではないかと想像できます。

この仮説で前軍の指揮者がなぜ2通りあるのかという疑問も解消した感じがします。

それに、この経路だと西郷臨末記に書かれている晩年の河野主一郎が語っていた中ノ越に西郷隆盛がいたということも間違えではないかもしれません。

まだ仮説なのでこれから探索して解明する必要がありますね。



それでは経路探索に戻ります。

中ノ越から六首山に向いますがまた塹壕が現れました。

11:59 標高540m地点です。

この辺の塹壕は事前に牧野会長から資料をいただいており、その資料を元に進んで行きます。

高橋信武氏 西南戦争の考古学的研究より


この資料から現れた塹壕は7番塹壕とわかりました。



すぐ近くには8番塹壕があります。

12:02 標高544m地点です。
 


資料を見ながら塹壕の確認していると他のメンバーはすでに先へ行ってます。

向かっている方向は9番塹壕の方でしたので急いで後を追いました。

その時、個人的に右側には14番・16番塹壕があるから見てみたいと思ったのを覚えています。

帰って再度調べたら14番塹壕は可愛岳突囲戦で官軍の第ニ旅団第九聯隊第一大隊長・石本少佐がいたと思われる場所でした。

今思えばなぜその時に声をかけなかったのかと悔やまれます。

いつの日か14番塹壕も探索しないといけませんね!

9番塹壕発見。

12:05 標高535m地点



会長と塹壕の確認をしている姿を南さんに撮られていました。笑



さらに進んで10番塹壕も確認。

12:06 標高535m地点



この付近で壮絶な可愛岳突囲戦があったんですね!

両軍が繰り広げた激戦の様子を実感できる場所です。

これまでの各塹壕の距離はこのようになっています。



7番~10番の塹壕は官軍第ニ旅団が構築したものでしょう。

その後、11番・12番塹壕を探しましたが残念ながら確認する事ができませんでした。

六首山山頂に向います。

12:38 標高571m

六首山山頂に到着。

この辺りに8月15日辺見十郎太が陣を構えていたと思うと胸が高鳴ります。

山頂には面白い大きな岩が3つ並んでいました。



ここで昼食休憩にします。



15分ほどして次の小畑山へ向い出発!

稜線なので樹木がありますが歩き易い路です。



皆初めての場所なので小畑山へどのように進むか方向を考えました。

方向を間違えれば崖や急な谷が待ち受けてますから携帯で地図をしっかり確認してから進んで行きます。

小畑山山頂に近づいてくると目の前にビックリするような巨石が現れてきました。





巨石群には人も入れるぐらいの穴もあり、刀等の持ち物を穴に投げ込み退却した兵士もいたと聞きました。

その話を聞いてお宝が残っていないか覗き込んだりしましたが何もなかったです。

ちょっと残念…と言うかスゴい巨石!


14:21 標高461m

小畑山山頂に到着。

この場所が8月15日の第ニ旅団の陣地で、これまで探索した路が薩軍前軍の経路でもあり、第ニ旅団が可愛岳北側の牙営へ向かった経路でもあります。


これで残るは浜砂まで下りるのみとなります。

時間も余裕があるのでゆっくり戻ろうと思っていたのですが…

進んだ先が急勾配!

樹木を掴んだりしゃがみながら慎重に下りて行きます。





しかし!

その先はさらに急な斜面っていうより崖で安全には下りていけない状況でした。



征西戦記稿では可愛岳突囲戦において薩軍兵の屍が240~250名とあり、官軍の失踪者が第一旅団・第ニ旅団合わせて36名とあります。

普通、失踪とは逃亡したと思われますがそれはないでしょう。

自分達が体験した急な斜面や崖などに滑落、途中に引っ掛かってしまい発見されなかった兵士達が失踪者として記載されたものだと思います。

それほどの激戦がこの地で繰り広げられた事を実感しました。

会長はメンバーの安全を考慮して無理に進まない決断をします。

元来た路を戻り時間が過ぎていく中、下りられるルートを検索することに…

自分の地図アプリと直感で傾斜の穏やかな谷を下り沢沿いに歩くルートを提案。

山に関しては素人である自分の提案をメンバー全員が受け入れてくれた事には感謝します。

でも、その時は大丈夫!行けますよ!と冷静な態度でしたが内心はかなりのプレッシャーでしたね…

緩やかな谷を下りていきましたが自分達の行く手を拒むように倒木が多い状況でした。



会長はメンバーを無事に帰す責任感から率先して倒木の間を進んで行きます。

小田原さんはちょっと不安そうな顔をしていましたね。

その小田原さんをしっかりサポートしてくれた南さん。(本当に有り難かったです!)

沢が滝になっていないか心配もありましたが、何事も無く無事に帰還しようというメンバー全員の思いが叶って浜砂に着く事ができました。

メンバー全員が安堵の表情になり、それまで無言でひたすら歩いていましたが、会話をするほど元気が出てきました。

無事下山できて良かったです。感謝!


探索終了時刻16:24 
探索総距離11.3km
探索総時間9時間

薩軍前軍経路(後半部分)の距離
起点の炭窯跡から浜砂まで5.8km
前軍経路踏破時間5時間24分






改めて山の怖さも実感しましたが薩軍前軍経路後半が解明されたのはとても感慨深いものでした。

浜砂に出てからしばらくすると会長の奥様が迎えにきてくれて、そのまま少し北上して宮ヶ谷いう所の前軍が西郷隆盛達と落ち合うために再び山へ入った場所を教えていただきました。

下の写真にある場所から前軍が再び山に入っていきます。

左側に野村忍介が延岡に本営を置いた頃から現地案内していた黒田萬吉宅がありました。

黒田萬吉は可愛岳突囲でも案内人となっています。





今回の探索経路全貌

南より


西より


東より


探索経路3D軌跡
(1分30秒 良ければ見て下さい)


今回の前軍経路探索は経路全体の後半部分です。

俵野(西郷隆盛宿陣跡)からの前半部分の探索をしていませんので、またチャレンジしたいと思います。

【今後の課題・探索】

薩軍前軍経路前半部分の探索
俵野~今回探索起点の炭窯跡まで

第ニ旅団の経路探索
・桑平~小畑山~六首山~中ノ越~牙営跡
(この経路が解明されると薩軍中軍も突囲戦で通ったことが解明される)

薩軍中軍経路の探索
・薩軍の戦闘手録には可愛岳の崖をよじ登ると書かれてあるものが多い。西郷隆盛が中ノ越に居たとなると中軍も複数経路があったのかもしれない。

長尾山からの稜線の探索
・自分の仮説では薩軍前軍の相良長良は中ノ越から長尾山の方へ向かったと考える。なので長尾山からの稜線のどこに塹壕があるのか探索する必要有り。       

第一旅団の経路探索
・浜砂~広野山~白木山~宮ヶ谷山~八水山~牙営跡

中ノ越から六首谷を通り浜砂までの探索
・一部の薩軍前軍が浜砂まで通ったと思われる
























薩摩猫之助の散歩 西南戦争史跡52 薩軍可愛岳突囲戦 前軍経路探索編①

2024-02-18 16:49:00 | 宮崎県西南戦争史跡
2024年2月11日

宮崎県延岡市において生涯忘れることの無い体験ができました。

始めにこの様な貴重な体験をさせていただいた【和田越決戦を語り継ぐ会】会長・牧野義英氏に厚く御礼申し上げます。

本題に入る前に!

2月10日いつものように新たな西南戦争の史跡(今回は五ヶ瀬町・高千穂町・日之影町)を巡りながら延岡へ向かい牧野会長とお会いして和田越で新たに見つかった塹壕と和田越周辺を案内してもらいました。

新たに見つかった塹壕は藪に覆われとても素人では探し出せない状況です。

なぜ探し出せるのか尋ねると『山の斜面が急に下がっている場所を気にかける』とのことでした。

藪に覆われていても角度が急に変わるのは地面の角度が変わっている証拠、そこには人工的に何か作られている可能性があるとご教授していただきました。

なるほど!と思い見返してみましたが…やはりわかりません。

まだまだ勉強と経験不足ですね。

その塹壕の写真


この藪に塹壕があるとわかる方おられますか?
(ほとんどの方がわからないと思います)

藪の中には土塁があり、内側は足を入れたら約1mほど深くなっています。

身体を立てて射撃をする立射の塹壕との事で和田越決戦遺構では珍しいのではと感じました。

この塹壕が早く陽の目に出てくることを願いこの場を後にします。

次に案内されたのは和田越決戦で桐野利秋が精鋭を率いて堂ヶ坂を駆け下り、助田(足元がぬかるんだ田んぼ)で立ち往生している別働第ニ旅団の官軍兵士に切り込んだ場所です。

堂ヶ坂は西南戦争史跡㊿ 特別編②で載せていますのでご覧になって下さい。

現地の写真


桐野利秋が下ってきた経路
【写真】


【現在の航空写真地図での経路】


【明治期の地図での経路】


昔、桐野利秋が官軍に切り込み戦闘した場所の一部で会長のお父さんが米を作っており、堂ヶ坂の名残りを目の当たりに見ていたそうです。

何か縁というものを感じます。

次に案内してもらった場所は第四旅団の牙營地跡です。

第四旅団は和田越の堂ヶ坂から無鹿方面の東側を担当地区として攻撃をしていました。

和田越決戦の前日8月14日には第四旅団は無鹿の一の山・二の山を陥落、三の山途中まで占拠して夜通し薩軍と対峙します。
(現在は宅地開発や道路により一の山・二の山・三の山の一部は削られています)


戦前地形図(陸地測量部)では一の山・二の山・三の山は削られておらず当時の状況がわかります。
昔、北川には橋が無く川舟で渡河していたと聞きました。
地図には渡場も書かれています。


せっかく案内していただいたですが話に夢中になり写真を撮る事を忘れてました…

ほがない(鹿児島弁で間が抜けている)自分を痛感しています…

この事を牧野会長に話すと写真を送ってもらい載せることができました。感謝!

無鹿山から第四旅団牙營地を望む


海軍の軍艦が延岡湾に侵入し、無鹿の友内地区に布陣していた薩軍を艦砲射撃したそうです。友内地区では8軒が焼失したそうで、旧藩主の内藤氏から見舞金が給付された文書が残っているとのことです。

延岡湾に侵入した軍艦は5隻
日進・清輝・鳳翔・孟春・第ニ丁卯



和田越決戦での軍艦の動向や詳細な事を書いてあるブログを紹介しますので見て下さい。


8月15日の第四旅団の動きです。


第四旅団は前日に占拠した三の山途中の場所からと牙營から和田越の東側を進行して薩軍を攻撃、分隊を一の山より下流約1Kmの場所で川舟により渡河させ、川島を北上し和田越から後退する薩軍を北川対岸から狙い撃ちします。

第四旅団牙營地跡から牧野会長宅に向かい翌日の調査経路の打合せを兼ねた宴に招かれました。

会長の奥様は前回と同様に笑顔で迎えていただき、沢山の料理を準備してもらい焼酎を呑みながら楽しい時間を過ごしました。

西南戦争当時も薩軍は延岡の人達に寝食を提供してもらってますので、今回の宴が147年を経て当時の薩軍と同じ心情を感じさせてもらったような気がします。

前回牧野会長から四斤山砲の破片をいただきましたが、今回はお宝である銃弾をいただきました。

西南戦争マニアの誰もが欲しいと思う物の1つですよね!



大事にしたいと思います。


【2月11日午前7時】

今日は薩軍の可愛岳突囲戦で前軍が進撃した経路を探索します。

【可愛岳突囲戦を簡単に説明
8月15日和田越決戦で敗れた薩軍は長井村俵野に撤退します。
官軍は俵野の薩軍を包囲して薩軍を殲滅するように動きました。
16日、17日と俵野の周りを守備する薩軍と包囲している官軍とで戦闘が繰り広げられています。
薩軍首脳陣はここで玉砕覚悟で決戦するか豊後へ進出するかなど色々と話合われましたが西郷隆盛は食料・弾薬が乏しいく戦っても無理と判断し、軍の解散を宣言、陸軍大将の軍服や重要書類など全て燃やして官軍の包囲を突破して三田井(高千穂町)に向かうことを決めます。
俵野ではほとんどの党薩諸隊が降伏、病院には国際法に基づき白旗を掲げ官軍に身を委ねました。
官軍の包囲を突破する薩軍兵は軍夫も入れ約1000名。
奇兵隊が延岡で本営を構えた頃からの古い案内人の黒田万吉・猟師の立山八五郎・農夫の児玉(岡田)初治を案内人として薩軍は隊を前・中・後軍に分け8月17日午後10時可愛岳に向かって脱出します。
可愛岳付近で前・中・後軍とも官軍と戦闘し、奇跡的にも包囲を脱して三田井の方に進むことができました。



牧野会長宅に今回の調査メンバーが揃います。

メンバーの紹介をさせていただきます。

調査代表の牧野義英氏
去年薩軍本隊可愛岳突囲ルート・官軍第ニ旅団の薩軍本営殲滅攻撃に六首山から俵野へ進む予定であったルートを踏破成功しております。
薩軍前軍ルートは山路の無い山岳地帯を東から西に進むのに4~5時間かけても可愛岳脊梁を越えられず半分の位置で中断、今回は前回中断した地点からの調査になります。
メンバーの皆が頼りにしている方です。

鹿児島より南晃氏
1月21日の和田越決戦遺構巡りを一緒に参加して、今回の調査にも進んで挙手しました。
生粋の薩摩人で広範囲の西南戦争史跡を巡っており、自分は参考にさせてもらっています。
自転車で史跡巡りもされている力強い方です。

小田原聡氏
自分の職場の同僚でこの方も生粋の薩摩人。
西南戦争に関する知識は初心者ですが先人達が歩んだ道を体験したいと参加。

上記の3人に自分を合わせた4人が今回の薩軍前軍ルート調査のメンバーです。

【今回のルート】


上記にある可愛岳中ノ越と俵野の西郷隆盛宿陣跡にある案内板では中ノ越の場所が違うのでは?と思われる方がおられるかもしれません。


後日、牧野会長にお聞きしたところ会長も把握しておられ、北川町からの図、自衛隊編集・新編西南戦史の中ノ越の場所を記した文面、新編西南戦史付図集の図をいただきました。

北川町の図


やや北寄りですが可愛岳の西側ですね。


自衛隊編集
新編西南戦史




西南戦史付図集
上記の文面を読むと下の図で位置確認ができますね。


薩軍経路が1本で前・中・後軍で分かれていませんが可愛岳突囲ルートは可愛岳の西側を通っています。




自分の推測ですが地名とは違い場所を指定せず可愛岳を越える場所の全てを地元住民が中ノ越と言っていたのではないでしょうか。

もちろん場所を伝えるのは口答ですから可愛岳西側を言っている人もいれば東側を言っている人もいたのかもしれません。

自分の勝手な推測ですからサラッと読み流して下さい…

会長からの資料と説明で中ノ越は可愛岳西側にあると確信しました。


では荷物を積み出発地点の大峡町竹谷神社へ向かうことにします。

和田越を通り抜け、延岡学園を横目に大峡谷川沿いを進み、その突き当りに竹谷神社があります。



先ず、竹谷神社で今回の調査が無事成功できるように祈願して記念撮影。



8月15日の和田越決戦に敗れた薩軍は和田越から俵野に撤退しますが最短距離の日豊街道では北川対岸に第四旅団兵士の姿が見えたようです。

そのため日豊街道を撤退する薩軍は少なく第四旅団からの狙い撃ちを避け、多くの薩軍は長尾山から尾根をつたって六首山・可愛岳に向かったり、大峡町から竹谷神社方面に向かい可愛岳を経て俵野に撤退しました。

竹谷神社で休憩していた薩軍に官軍の追撃隊が迫ると戦闘が起こり神社は焼失してしまいました。



和田越決戦に敗れた薩軍が俵野に撤退した経路


和田越から長尾山の尾根を撤退したのは辺見十郎太で六首山から南西側の尾根を進んでいると下から上ってきた第ニ旅団と遭遇し戦闘になります。

戦闘は午後2時過ぎで両軍尾根の稜線にある山を陣地にして対峙します。

しかし、夜になると薩軍は可愛岳の東側なのか大峡町の山中なのか不明ですが撤退していき自然と戦闘が終わりました。

(上記の説明ですがこのブログ内では出ていない地名や山の名前があり、地理的にわからない方もいるのではと思い簡単にまとめました。
前軍経路検索編②で地名など出てきますのでその時に再度詳しい状況を伝えたいと思います。)

AM7:30会長から現地の説明をしてもらい荷物を取ってから出発します。



今回目指す可愛岳を眺めました。
可愛岳は饅頭を半分に割ったような山で北側は比較的緩やかな斜面、南側は断崖絶壁になっています。
写真は南側から撮影したもので左から右にかけて百間ダキと呼ばれる長い絶壁の崖が見えます。


スタート地点


広がる平地を進むといきなりの岩場が現れます。



最初から不安になりながらも岩場を抜けると林道があり、その林道を登って行きます。





AM8:21林道の中腹辺りで清々しい光景を目にしました。
朝日に浮かぶ山の稜線が美しい!


朝日に輝く可愛岳
今回は正面左側に見える百間ダキの真下を左に進み可愛岳の崖が終わった稜線へ上がるとのことでした。


朝日を背に受けまだまだ林道を歩きます。





すると歩き易かった林道は徐々に崩落や倒木などで歩き辛くなっていきました。



道の脇は絶壁で滑り落ちないよう注意しながら歩きます。



自分は倒木をくぐった時にスマホを落としており、しばらく進んだ所で写真を撮ろうとポケットに手を入れたらスマホが無い事に気づき、探し回る場面もありましたが無事探しだせて良かったです…

しばらく進むと林道も終わり本格的な山路になります。

AM8:49林道の終了地点(竹谷神社より3.1km)


ここからは本格的な山路




この様な状況では山路とは言えない気もしますが…


AM9:15道無き山路を登って行くと昔使われていた炭窯跡が目の前に現れました。



スタートして3.7km・1時間45分、これまでの道は準備運動でここからが調査本番です!

調査に向けての記念撮影。




ここからこれまでの人生で最も過酷でしたがとても貴重で有意義な山登りがスタートします。

前軍経路探索編②へ続く