西南戦争・薩摩の史跡を巡る

西南戦争に関する有名な史跡からレアな史跡・薩摩の史跡を載せてます。
史跡の詳細な地図も付けています。

薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㊽ 熊本県玉名市②

2024-01-07 19:49:00 | 熊本県西南戦争史跡
高瀬大会戦の地

菊池川の河川敷に案内板があります。





川を挟み両軍の激しい戦闘がありました。






西郷小兵衛戦死の地

戦死の地とありますが、ここではまだ西郷小兵衛の息はありました。

小兵衛は熊本に運ばれる途中に亡くなっています。



永徳寺地区の堤防には昭和10年の命日に石碑が建立されています。



堤防より繁根木方面を望む






繁根木八幡宮

官軍の近衛兵が居た場所です。





弾痕と思われます。










鳳樹楼跡

官軍の征討軍本営跡で征討総督・有栖川熾仁親王がここに入り指揮しています。










菖蒲庵

荒木直平商店の裏で繁根木川河畔にあります。

当時、荒木酢屋の離れで有栖川熾仁親王が宿泊したと伝えられています。



酢屋だったことが残る酢屋橋






高瀬官軍墓地

ここには官軍兵の墓395柱がありましたが昭和41年に合祀塔に祀られました。

墓地の周りには多くの寺院がありますが、当時ほとんどが病院として使用されていました。












船隈官軍本営跡

田原坂方面に進撃するまで官軍首脳陣が作戦会議を開いた場所です。

熊本城から現状報告のため脱出した伍長・谷村計介はここで報告しました。








加治木隊集団自決の地

負傷した加治木隊16名が官軍に追い詰められて自決した場所です。





自決した加治木隊16名の亡骸は地元の嶋津太郎作氏により供養されています。

遺骨のほとんどが遺族に引き取られましたが1人だけ残されました。

2022年に残された墓の名前が東楠薗利助(加治木隊三番小隊・弓場利助)と判明、2023年に誰が墓を作ったのか判明されました。

弓場利助の郷里である加治木で幼馴染みの有村與助が加治木で墓石を制作して玉名まで運んだとのことです。

とても長い年月がかかりましたが判明されて良かったです。



自決の地より少し東へ行くと左に上る道があります。



ここを上がって行けば墓に着きますが民家の敷地内を通るので行かれる際は一言声をかける事をおすすめします。





【加治木隊士の墓の詳細】

薩軍兵士の墓 謎明らかに

自決した幼なじみの墓を『郷里の石』で作った元従軍兵



池邊吉十郎の墓

明治10年10月26日長崎で処刑された熊本隊隊長・池邊吉十郎の墓が玉名市横山町にあります。


























薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㊼ 熊本県玉名市①

2024-01-07 17:59:00 | 熊本県西南戦争史跡
玉名での西南戦争

玉名市は明治10年2月25日から27日の3日間激しい戦闘が行われました。

当時玉名は高瀬と呼ばれており、高瀬大会戦・高瀬の戦いと言われています。

2月25日

官軍第一旅団・第二旅団は南関におり、高瀬には前日木葉で敗退した官軍第十四連隊がいました。

薩軍は高瀬の南東にある小天(現天水町)に300人・小天の北にある伊倉に400人・木葉に500人・山鹿に1000人と集結し、高瀬へ進行していきます。

兵力が劣勢の官軍でしたが第一旅団の前衛隊が高瀬に入り、玉名船隈に集結しました。

25日の戦闘は夕方から始まり官軍は高瀬の北から進軍、薩軍は南から菊池川を渡河して進軍し銃撃戦や砲戦を行います。

戦いは午後8時頃まで続きましたが両軍引き上げました。

山鹿からの四番大隊ニ番小隊はこの戦闘には間に合わなかったようです。




2月26日

未明に官軍本隊が高瀬に入り増兵されました。

前衛 歩兵1個大隊
本隊 歩兵2個中隊
後衛 歩兵2個中隊
予備 歩兵1個大隊

午前5時に官軍は出発します。

迫間を出発した官軍の隊が南関へ前進中の薩軍を発見し、現在の現和水町白石で両軍の戦闘がありました。

この時負傷した薩軍16名は官軍に追い詰められ、下村(現玉名市下)にて集団自決をしています。

官軍は安楽寺から木葉に進み、木葉で官軍兵の死屍を収容し、伏兵ありと見た国見山に放火、木葉山は全山猛火に包まれる。

進んで待機していた官軍は三好少将から撤退せよと再度厳命を受け、午後3時撤退します。

伊倉から進出した熊本隊は寺田で官軍の罠に嵌まり第一連隊・第ハ連隊に囲まれ激しい銃撃を受け多数の熊本隊士は戦死し、隊長の池邊吉十郎は腹部に銃創を負い撤退しました。




2月27日

劣勢になった薩軍は26日午後に熊本京町から2800人を徹夜で高瀬に送ります。

右翼には山鹿から桐野利秋、中央には木葉から篠原国幹・別府晋介、左翼には小天から村田新八と大隊長が薩軍兵を率いて高瀬の官軍に戦闘を仕掛けました。

桐野隊は菊池川を渡河して玉名大神宮に立てこもります。

三好少将は督戦中に負傷、船隈本営に近い玉名大神宮を奪還しようとした乃木少佐は攻撃中に負傷しました。

しかし、高瀬に野津鎮雄少将が到着して、山砲の力を借り、ようやく桐野隊を撤退させます。

中央の篠原・別府隊は菊池川対岸に築かれた胸壁から官軍が銃撃しており渡ることができない状態でした。

左翼の村田隊は下流の大浜津に迂回し、渡河して岩崎原の第ハ連隊を攻撃、官軍は繁根木・永徳寺(地名)に放火して撤退。

この時に高瀬御蔵も炎上します。

しかし、第一連隊と近衛兵が応援に駆けつけ反撃。

その中、西郷隆盛の末弟で薩軍一番大隊一番小隊長・西郷小兵衛は近衛兵がいる繁根木八幡宮の崖下を潜行して読坂に出ました。

読坂に出た西郷小兵衛の隊でしたが背後の三池往還に官軍が突出、退路が断たれた西郷小兵衛は2連発の愛用のピストルで応戦中に左胸に被弾してしまい永徳寺の堤防まで退避、焼け残った民家・橋本鶴松方の戸板を1枚借り受けて熊本市北岡にある西郷隆盛の本営まで運ばれます。

しかしながら残念な事に小兵衛はその途中で絶命してしまいました。



野津少将の到着により、さらに増兵された官軍を相手に応戦していた薩軍でしたが兵力差には敵わず撤退します。



これにより高瀬での戦いは終わりました。

【史跡は西南戦争史跡㊽に続きます】