玉名での西南戦争
玉名市は明治10年2月25日から27日の3日間激しい戦闘が行われました。
当時玉名は高瀬と呼ばれており、高瀬大会戦・高瀬の戦いと言われています。
2月25日
官軍第一旅団・第二旅団は南関におり、高瀬には前日木葉で敗退した官軍第十四連隊がいました。
薩軍は高瀬の南東にある小天(現天水町)に300人・小天の北にある伊倉に400人・木葉に500人・山鹿に1000人と集結し、高瀬へ進行していきます。
兵力が劣勢の官軍でしたが第一旅団の前衛隊が高瀬に入り、玉名船隈に集結しました。
25日の戦闘は夕方から始まり官軍は高瀬の北から進軍、薩軍は南から菊池川を渡河して進軍し銃撃戦や砲戦を行います。
戦いは午後8時頃まで続きましたが両軍引き上げました。
山鹿からの四番大隊ニ番小隊はこの戦闘には間に合わなかったようです。
2月26日
未明に官軍本隊が高瀬に入り増兵されました。
前衛 歩兵1個大隊
本隊 歩兵2個中隊
後衛 歩兵2個中隊
予備 歩兵1個大隊
午前5時に官軍は出発します。
迫間を出発した官軍の隊が南関へ前進中の薩軍を発見し、現在の現和水町白石で両軍の戦闘がありました。
この時負傷した薩軍16名は官軍に追い詰められ、下村(現玉名市下)にて集団自決をしています。
官軍は安楽寺から木葉に進み、木葉で官軍兵の死屍を収容し、伏兵ありと見た国見山に放火、木葉山は全山猛火に包まれる。
進んで待機していた官軍は三好少将から撤退せよと再度厳命を受け、午後3時撤退します。
伊倉から進出した熊本隊は寺田で官軍の罠に嵌まり第一連隊・第ハ連隊に囲まれ激しい銃撃を受け多数の熊本隊士は戦死し、隊長の池邊吉十郎は腹部に銃創を負い撤退しました。
2月27日
劣勢になった薩軍は26日午後に熊本京町から2800人を徹夜で高瀬に送ります。
右翼には山鹿から桐野利秋、中央には木葉から篠原国幹・別府晋介、左翼には小天から村田新八と大隊長が薩軍兵を率いて高瀬の官軍に戦闘を仕掛けました。
桐野隊は菊池川を渡河して玉名大神宮に立てこもります。
三好少将は督戦中に負傷、船隈本営に近い玉名大神宮を奪還しようとした乃木少佐は攻撃中に負傷しました。
しかし、高瀬に野津鎮雄少将が到着して、山砲の力を借り、ようやく桐野隊を撤退させます。
中央の篠原・別府隊は菊池川対岸に築かれた胸壁から官軍が銃撃しており渡ることができない状態でした。
左翼の村田隊は下流の大浜津に迂回し、渡河して岩崎原の第ハ連隊を攻撃、官軍は繁根木・永徳寺(地名)に放火して撤退。
この時に高瀬御蔵も炎上します。
しかし、第一連隊と近衛兵が応援に駆けつけ反撃。
その中、西郷隆盛の末弟で薩軍一番大隊一番小隊長・西郷小兵衛は近衛兵がいる繁根木八幡宮の崖下を潜行して読坂に出ました。
読坂に出た西郷小兵衛の隊でしたが背後の三池往還に官軍が突出、退路が断たれた西郷小兵衛は2連発の愛用のピストルで応戦中に左胸に被弾してしまい永徳寺の堤防まで退避、焼け残った民家・橋本鶴松方の戸板を1枚借り受けて熊本市北岡にある西郷隆盛の本営まで運ばれます。
しかしながら残念な事に小兵衛はその途中で絶命してしまいました。
野津少将の到着により、さらに増兵された官軍を相手に応戦していた薩軍でしたが兵力差には敵わず撤退します。
これにより高瀬での戦いは終わりました。
【史跡は西南戦争史跡㊽に続きます】
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