西南戦争・薩摩の史跡を巡る

西南戦争に関する有名な史跡からレアな史跡・薩摩の史跡を載せてます。
史跡の詳細な地図も付けています。

薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㉘ 熊本県美里町・甲佐町

2023-01-26 22:24:00 | 熊本県西南戦争史跡
美里町・甲佐町での西南戦争の経緯

松橋を制圧した衝背軍は増援により別働第4旅団まで増えて明治10年4月1日には宇土、美里町の堅志田を占領しました。

4月3日に美里町の隣で緑川対岸の甲佐町から党薩諸隊の佐土原隊が堅志田の別働第3旅団陣営を襲撃します。

急襲された別働第3旅団は当初防戦一方でしたが形勢を立て直すと佐土原隊を三方より包囲して攻撃します。

佐土原隊は甲佐町の方に下がり緑川北岸に寄り迎え撃ちますが、再び包囲され甲佐から撤退してしまいました。

甲佐には薩軍の弾薬製造所がありましたが衝背軍に占領されてしまいます。

佐土原隊は堅志田で半数以上、甲佐で20名が戦死しています。

兵士の大半を失った佐土原隊は宮崎に戻ることになりました。

美里町激戦地の古写真
(現在の美里町役場中央庁舎近辺から北側の竪志田方面を撮影したと思われる)


上の古写真をカラー化





【西南戦争史跡】

日向佐土原隊戦没諸士合葬之碑

美里町中郡にある小さな墓地の1画にあります。

とてもわかりにくい場所でした。






これより衝背軍・別働第1旅団は現在の熊本市城南町から御船へ、別働第3旅団は甲佐町から御船へ、別働第2旅団と別働第4旅団は宇土から現在の富合町方面へ進軍することになります。


薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㉗ 熊本県宇城市

2023-01-26 18:50:00 | 熊本県西南戦争史跡
宇城市での西南戦争の経緯

氷川・小川の戦いで勝利した衝背軍が現在の宇城市松橋町に迫りました。

明治10年3月28日松橋の旧久具村を主戦場として薩軍に衝背軍が攻撃を仕掛けます。

しかし、必死に堡塁を守る薩軍に苦戦し、やむなく兵を引き揚げることになります。

松橋の戦いでの期間に衝背軍は別働旅団の旅団名を改称しています。(詳細は西南の役㉕八代市に載せています。)

衝背軍は29日(この日は休戦日)に軍議を開き、翌30日に別働第1旅団と別働第2旅団が松橋の薩軍を攻撃しますが薩軍の守り堅く夜を迎えます。

31日午前6時衝背軍は総攻撃を加えます。

娑婆神峠を制圧した別働第3旅団も進軍してくると薩軍は陣地を捨て、正午頃に川尻へ撤退してしまいます。

薩軍戦死者49名、衝背軍戦死者96名と云われています。



31日官軍に3方面から攻撃され占領された松橋付近の古写真



松橋に残された堡塁跡






【西南戦争史跡】

久具橋

激戦地となった場所です。





久具村では伊地知末吉という薩軍兵士が戦死しています。

伊地知末吉は八代平野の戦いで亡くなった6名の薩軍少年烈士の1人で最年少の13歳でした。

松橋から川尻の延寿寺に運ばれ埋葬されています。



娑婆神峠(さばがみとうげ)

3月30日薩摩街道の娑婆神峠で薩軍と別働第3旅団が戦闘しています。

午前6時に別働第3旅団が攻撃を開始、午前11時には薩軍が撤退して制圧されました。









峠の岩清水薩摩軍陣所跡

ここに案内板がありますが陣所跡を見つける事ができませんでした。







永尾官軍墓地

この周辺に官軍の野戦病院があったようです。

ここで死去した27名と熊本県南部で戦死したものを合わせて150名が埋葬されています。













薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㉖ 熊本県鏡町・氷川町

2023-01-26 17:08:00 | 熊本県西南戦争史跡
鏡町での西南戦争の経緯

明治10年3月19日薩軍本営は政府衝背軍が八代に入った報告を受け、永山弥一郎を指揮官とした薩軍約1500名を編成し八代へ送りました。

衝背軍は北上、薩軍は南下します。



【西南戦争史跡】

鏡町の鑑内橋

八代より北上する衝背軍の斥候と熊本より南下する薩軍の斥候が出合った場所です。











氷川町での西南戦争の経緯

3月20日氷川町の氷川を挟んで永山弥一郎率いる薩軍と高島鞆之助率いる別働第2旅団(のちの別働第1旅団)が対峙しました。

衝背軍は正面の圧力に加え、迂回して側面からも攻撃を仕掛ける薩軍に苦戦してます。

20日は日が暮れても勝敗が決しませんでした。

3月21日午前5時、衝背軍は三方から一斉に総攻撃を行います。

薩軍は死力を尽して抵抗しましたがついに後方の砂川へ撤退しました。


【西南戦争史跡】

氷川戦争記念碑











丁丑役氷川戦場碑











薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㉕ 熊本県八代市

2023-01-26 15:46:00 | 熊本県西南戦争史跡
日奈久より進軍した官軍(衝背軍)は八代を占領します。



官軍(衝背軍)本陣跡

光徳寺には衝背軍の本陣が置かれ、別働第2旅団と黒田清隆参軍、山縣有朋参軍、大山巌別働第5旅団長がいました。









官軍(衝背軍)本営跡

慈恩寺には衝背軍の本営が置かれ、山田顕義率いる別働第3旅団、川路利良率いる別働第4旅団がいました。











薩軍本陣跡

衝背軍が八代を占領した報告が薩軍本営に入ります。

薩軍本営は徴兵のため鹿児島に戻っていた別府晋介、辺見十郎太に八代奪還の命を下しました。

伝令役には熊本協同隊の宮崎八郎が選ばれ、別府、辺見と人吉で合流します。

そのまま別府、辺見、宮崎等は八代に向け進軍します。

途中、官軍と戦闘を行いますが薩軍は官軍を退けて八代の萩原に出てきました。

町より少し奥に入った宗覚寺に薩軍が本陣を置いています。

官軍との戦闘により宗覚寺は山門以外焼失してしまいました。





山門からの風景







春光寺

肥後細川家筆頭家老松井家の菩提寺です。

春光寺には辺見十郎太が鹿児島で徴兵して編成された9番・10番大隊と大砲2門を設置して陣を構えました。

薩官両軍の激しい戦闘で戦死者、負傷者が多数でています。



春光寺は両軍の戦没者を弔う慰霊碑を建立しました。

西南役戦死者之碑

碑の正面は樹木に覆われ斜めからしか撮影できませんでした。



春光寺の門は八代城三の丸から移築された永御蔵門です。





永御蔵門の内側にある永御蔵番所



瓦には細川家の紋があります。






桜馬場の激戦地跡

春光寺門前を真っ直ぐ球磨川の方に向かうと、途中左手側に標柱があります。

八代の戦闘後には桜馬場に薩軍の遺体が埋葬されたと云われています。









宮崎八郎戦没の碑

明治10年4月6日八代制圧が目前に迫った薩軍でしたが宇土より急派された別働第1旅団(衝背軍は3月28日に別働第2旅団を別働第1旅団に、別働第3旅団を別働第2旅団に、別働第4旅団を別働第3旅団に繰り上げています。)2個中隊に背後からつかれてしまいます。

※元々あった別働第1旅団は熊本北部にあり、3月14日に第3旅団と第4旅団に編入されています。

これにより薩軍は総崩れとなって撤退してしまいました。

部隊を引き揚げる際に別府晋介は左足に重傷を負い、熊本協同隊参謀長の宮崎八郎は萩原堤にて戦死しました。享年27歳。





萩原堤(江戸時代に築かれた堤防









八代神社(妙見宮)

この神社でも激戦が行われています。

神社のクスノキには今でも銃弾が残っているそうです。

歳月が経ち弾痕なんかもわからなくなっています。









若宮官軍墓地

ここには官軍の戦死者399名と横手町にあった横手官軍墓地(警視隊)270名が合葬されています。



現在も地元の方々により綺麗に管理されていました。









横手官軍墓地跡

明治10年8月に殉職した警視隊の墓地が造られましたが現在は若宮官軍墓地に合葬され、標柱を残すのみとなりました。



















薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㉔ 熊本県日奈久

2023-01-25 22:40:00 | 熊本県西南戦争史跡
日奈久での西南戦争の経緯

八代市の南に温泉地として有名な日奈久があります。

日奈久は西南戦争時、薩軍の兵站基地になっていました。

明治10年3月19日官軍は日奈久に上陸して熊本で戦闘をしている薩軍と鹿児島の物資搬送を遮断し、北上して薩軍を挟み撃ちにする事にしました。

この日奈久方面からの官軍を衝背軍と言い別働旅団が編制されています。



【西南戦争史跡】

官軍(衝背軍)上陸の地【洲口】

日奈久の少し南側にある洲口に黒田清隆指揮の元、高島鞆之助率いる別働第2旅団が上陸しました。



標柱は錆で何も読めないです。







鳩山

薩軍はこの小高い山で洲口に上陸した官軍を迎え撃ちます。

しかし、薩軍の兵士は少なく官軍の攻撃により敗走してしまいました。







官軍(衝背軍)上陸の地【日奈久】

官軍は洲口の上陸時、軍艦から日奈久に向けて援護射撃がありました。

それを前後して洲口とは別の官軍が数隻のボートで日奈久に上陸しています。









軍艦の砲撃で被弾した柱が残っている日奈久温泉八代屋旅館です。