西南戦争・薩摩の史跡を巡る

西南戦争に関する有名な史跡からレアな史跡・薩摩の史跡を載せてます。
史跡の詳細な地図も付けています。

薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡62 宮崎県三股町②

2024-06-10 03:04:00 | 宮崎県西南戦争史跡
西南戦争史跡61の続きです。

7月25日

官軍・別働第三旅団は都城を発し、三股の梶山に着きます。
(三股町史に書いてある山田川を挟んでの激戦は無かったようです)

三股の薩軍・干城三番と奇兵六番の兵士は20余名ほどが場所に居るだけで弾薬も乏しい状況から梶山を守備することができません。

早朝に梶山を発し、板谷越方面と新村越方面に向かいます。

上の段(徳阪)に官軍の追撃を防ぐ兵士を若干名置いていきますが、午前9時に官軍が迫り戦闘が行われました。

薩軍は地形が狭くなった場所で竹藪の間から狙撃を開始、官軍は動けない状態でした。

その状態を見て八木中尉は身を挺して進んで行きましたが足に銃弾が当たり負傷します。

副官の加藤中尉は兵を左右に分けて薩軍の背後から攻撃しました。

薩軍はそれに驚き敗走します。



この事から三股町史での薩軍はシラミを取っている最中に官軍が迫り、裸で逃げて行くという内容も事実とは考えられません。

尾佐川での戦闘に関しても橋を落とした事は事実ですがそこで薩軍20名が戦闘をした記述はありませんね。


【三股町が掲げている西南戦争史跡】

薩軍本営跡

ここには池辺吉十郎(三股町史では池辺吉次郎)がいたとのことです。

しかし、池辺吉十郎は熊本隊の隊長で都城陥落以前の熊本隊本営は財部にありました。
7月24日まで霧島から財部において戦闘をしており25日には都城から北東側の山之口に行ってますから三股にいたとは考えられないです。
(熊本隊の戦袍日記を参照)

薩軍の本営は庄内に置かれていたので三股の本営と云われる場所には誰がいたのでしょうか?

薩軍側の一次資料の薩南血涙史にも西南記伝にも三股本営の記述はないですね。

三股町の広報には辺見十郎太の逸話も残っていますが大口~菱刈~霧島大窪~財部~岩川~末吉と辺見の足取りからして三股にいた記述はありません。

とても不思議な本営跡です。




無名戦士の墓

薬師堂裏に建っている梶山での戦闘で戦死した兵士の墓と云われています。







激戦地 尾佐川橋

梶山から敗走する薩軍20名が橋を落して追撃してきた官軍と戦闘をしたと云われています。

疑問が残る場所です。









山田(沖水)川の激戦地

7月25日川を挟んで薩軍と官軍が激戦を繰り広げた場所です。

こちらも疑問が残ります。









鍋ふさぎの墓

薩軍によって殺害された鍋釜修理工一家の墓と伝えられています。







西南戦争一番隊出兵者の灯籠

西南戦争に従軍した長田地区の人たちの武運を祈って奉納されました。









西南戦争従軍碑・西南戦争招魂碑

山王原稲荷神社内に明治12年9月28日建立。

亡くなった薩軍・官軍従軍者20名の名前が刻まれています。







三股町の広報
















薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡61 宮崎県三股町①

2024-06-10 02:39:00 | 宮崎県西南戦争史跡
都城市隣にある三股町での西南戦争状況

都城陥落により薩軍の干城三番中隊(隊長・成尾哲之丞)と奇兵六番中隊(隊長・別府九郎)は三股に退却します。

三股に進軍してきた官軍は別働第三旅団でした。

戦闘状況を文献で調べましたが異なる状況ですので『三股町史』『薩南血涙史』『征西戦記稿』の文を載せてみます。(原文のママ)


【三股町史】

七月十日ごろから、都城を中心として官軍の進撃は目ざましく、諸県全域にわたつて激戦は展開された。二十日前後になって、山田・高城・庄内方面は敵味方入り乱れての斬り込みが繰り返され、二十四日になつて薩摩軍は三股まで引き上げて来た。都城から三股にかけての戦いは今までにないもので、官軍は打ち寄せる波のように三股街道を東へ東へ進軍、二十五日未明には山田川をはさんで撃戦が展開さた。

当時、薩摩軍右本隊の本部は梶山(現・榎田秀生宅)におかれ、薩将池辺吉次郎(熊本県の人)がここにいて、すべての情報は、この本営にもたらされた。臨時野戦病院は現在の榎田秀直宅(移転前)におかれて老医師が一人来ていた。

また仕出場(炊き出し)が下之馬場の鈴木利明宅におかれていた。

戦いが始まって以来数か月、官薩両軍の将兵は昼夜の別なく悪戦苦闘して死線をさまよい、身心を休める暇なく疲労もその極に達した。そのために軍服はほころび、わらじはずたずたに切れ、顔は硝煙と泥にまみれ、ひげはぼうぼうと伸びて、山賊さながらの風態、はてはシラをかわき、しばらくの休憩にも真裸になってシラミ取りに専念するような状態であった。山田川を乗り越えた官軍が梶山に殺到したとき、シラミ退治に余念のなかつた真裸の薩兵は、取るものも取りあえず中野の山をさして、ほうほうの態でにげて行つたというととである。

梶山を追われた薩軍は、梶山を出るとき官軍の宿営とならないように各家々に放火して退却したのであるが、残された女や子供だけの家族を苦しめる結果となった。梶山の戦に官軍の戦死者は五名、負傷者は二十名であつた。この五人の戦死者の墓標は梶山の入口(現・小牧ツネ宅裏)に立てられたが、無名の士として今は知る人もない。この戦いで薩軍には戦死傷者はなかったとある。

官軍は梶山から逃げる薩事をさらに追撃し、轟木の尾佐川橋にさしかかつたとき、この橋をはずして板谷に逃げるとちゆうの私学校隊二十人ばかりと、川をはさんで激しい戦いを展開した。橋をはずした二十人の薩軍は道路に待ちかまえてやがてここにさしかかつた官軍いつせいに銃火を浴びせたのである。官軍もただちに応戦したが、この戦いで両軍とも数名の負傷者を出した。官軍は二隊に分れて左右の峰を伝つて薩軍の背後に回ろうとしたので、薩軍は板谷をさして逃走したのである。この戦いが「第二尾佐川の戦」である。

この戦いの夜は、柳岳に残兵が残っているらしいとのことで、官軍は手分けして山狩りを行い、警戒を怠らなかつたが、その後森木に集合して板谷に向つて出発したとのことである。



【薩南血涙史】

七月廿五日三俣に在て敗兵をしう集せし薩軍は此日早天兵を分ちて二となし一は成尾哲之丞之を率ゐて新村越に一は別府九郎之を率ゐて板屋越に向て三俣を退却せり、而して別府が兵上の段に至る頃、成尾が兵も道を誤つて此地に會せり、是に於て兵士若干を上の段に(官軍の記には徳阪とあり)遺し追撃を拒がしめ諸隊は悉く板屋に退けり既にして上の段に止まり拒ぎたる兵も交戰幾ばくもなくして又來り會せり

(薩南血涙史の奇兵六番隊の記)

七月廿四日未明官軍不意に末吉に襲来我兵防ぐ事能はずして走る、都の城に守防せんとするに都の城も既に官兵の有となれり退て三俣に陣す、此時三俣に達するもの僅に二十餘名且つ彈藥乏く爰を保つこと能はず飫肥境に退き橋を落して守兵す、此地運輸不便にし尚ほ板屋に退く



【征西戦記稿】

七月廿五日別働第三旅團ハ七月廿四日更定ノ部署ニ依リ翌廿五日迫田少佐ノ第一大隊ヲ先鋒トシ江口少佐ノ小隊ヲ後隊トシ共ニ都ノ城ヲ發シテ寺柱村ニ入リ隧ニ梶山ヨリ諸隊ト合シ飫肥ニ進ントス

梶山ヨリスルノ諸隊ハ第二大隊ヲ先鋒トシ廿五日午前九時賊ニ三俣ノ徳阪ニ遇フ地形□仄、修竹鬱□トシテ路ヲ擁ス賊其中ヨリ狙撃ス偶ニ我兵部署ヲ破リ先鋒ヲ爭ハントスル者アリテ隊伍少ク動ク

八木中尉大ニ之ヲ憤リ挺身率先、其第一中隊ヲ以テ直チニ正面ヨリ進ミ親ヲ督戰シテ足ヲ銃傷ス副官加藤中尉代リテ指揮シ別ニ第二中隊三番小隊ノ半隊ト第三中隊ノ一番小隊ヲ右ヨリシ第五大隊ノ兩小隊ハ左ヨリシ共ニ其背後ニ出テシム賊狼狽樂ク能ハスシテ潰ユヌ斥候隊ヲ出シ追撃セシムルコト半里許因チ兵ヲ収メ哨兵ヲ要所ニ排シ全軍梶山郷に次ス此戰實ニ我カ不意ニ出ツ故ニ死傷モ亦多シ

『死傷十四』

廿六日午前四時我衆皆梶山郷を發ス山路羊腸、渓間千尺、到ル所、橋、賊ノ撤スル所ナリ我兵□シ□重ノ運搬ニ苦ム



三股町史に書かれている『都城から三股にかけていままでにない戦い』があった記述は他の文献には無く小規模の戦闘があったようです。


三股町の歴史においての今までにない戦いのことなのでしょうか。


この地域での大きな戦闘は7月24日の都城攻防戦です。


7月24日の戦闘図




《庄内方面》

官軍 
第三旅団(後方に第二旅団と別働第二旅団)

薩軍
雷撃八番・雷撃十三番・雷撃九番・正義一番・干城三番・熊本協同隊・正義四番・雷撃四番・雷撃五番

《財部方面》

官軍
別働第三旅団

薩軍
熊本隊・破竹(隊號不明)・雷撃二番・鵬翼一番・干城一番

《通山方面》

官軍
第四旅団

薩軍
振武二番・振武六番・振武七番・振武十三番

《末吉方面》

官軍
別働第一旅団

薩軍
加治木奇兵一番、二番・奇兵六番・奇兵十四番・雷撃六番・干城七番・行進一番・行進六番・行進十四番


午前4時、通山での戦闘で薩軍は守備を固め第四旅団を防いでいましたが官軍は突撃部隊を編制して薩軍陣地を破ります。


午前6時、庄内の薩軍は敗れてしまい敗走します。


午前7時、財部と末吉も官軍に占拠されます。


午前11時、都城は官軍に占拠され、薩軍は隊伍揃うことができず散り散りに敗走しました。


三股町②へ続きます。



薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡60 熊本県山都町

2024-06-05 19:13:00 | 熊本県西南戦争史跡
城東会戦で敗退した薩軍は山都町の矢部に集結します。

現在の通潤酒造の場所に薩軍本営が置かれ明治10年4月21日薩軍の編制が行われました。

これまでの第○大隊から○○隊に編制されたのがこの矢部会議です。

新たに編制された隊は次の通りです。

山鹿方面の軍  ⇒奇兵隊 隊長・野村忍介
田原方面の軍  ⇒振武隊 隊長・中島健彦
木留方面の軍  ⇒行進隊 隊長・相良長良
川尻口及び攻囲軍⇒正義隊 隊長・高城七之丞
御船方面の軍  ⇒干城隊 隊長・阿多壮五郎

熊本隊や熊本協同隊などもこの時編制をしています。

4月22日から24日にかけて各隊は矢部を発し人吉に向かいました。



通潤酒造(薩軍本営跡)







薩軍兵士三人の墓

御船での戦闘で負傷した薩軍青年兵士三人が息絶え、歌野家の人が自分の墓地内に『旅人』と墓石を建てて埋葬したと云われています。



残念ながら墓地内にはそれらしき墓石はありませんでした。







男成神社

明治10年4月21日熊本隊は矢部から男成村に隊を移します。

4月23日午後、熊本隊は男成神社で招魂祭を行い、開戦以来の熊本隊戦没者の霊を祀りました。











熊本隊砲台跡

男成神社の参道に熊本隊は砲台を構築しています。



砲台跡から参道入口を望む







伝えによる薩軍兵士の墓

人吉に向かう薩軍をこの地の住民達は手厚く迎えました。

もてなされた薩軍兵士ですが負傷により数名は死亡。

死亡した薩軍兵士は住民により埋葬されますが官軍の目をさける為『牛の墓』と言っていたと伝えられています。









龍専寺(薩軍野戦病院跡)

龍専寺の本堂は野戦病院として使われていました。

夕方薩軍は本堂の畳を全部上げて壁に立て掛け、板張りの上に薩軍重症者を並べています。

翌朝並んでいた負傷者は全ていなくなっており、また夕暮れになると連れて来られた負傷者が並べられていました。

そして朝にはその姿は消えていたそうです。



この碑は江藤政光氏が個人的に建立されたとの事です。







官軍本営跡の碑

これも江藤政光氏個人の建立ですが官軍本営はここにありませんでした。

本営は新八代屋の向かいにあったようですが現在は残っていません。



官軍本営跡の碑近くの新八代屋































薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡59 宮崎県西米良村天包山

2024-06-02 07:56:00 | 宮崎県西南戦争史跡
西米良村の天包山に残る西南戦争遺構を探索しました。

西米良村における西南戦争の状況は【西南戦争史跡55】に載せていますのでそちらを見て下さい。

天包山までのルート





西米良村は標高が高いので5月下旬ですが午前9時40分で気温19℃。

少し肌寒く感じます。

天包山登山口駐車場には西南戦争之碑があります。

駐車場は約8合目辺りなので山登りと言うよりハイキングと言った方がいいでしょうね。



登山口からの眺め

深い山間を薩軍・官軍が進軍したのですね。

当時の人の力強さを感じます。



登山開始。

それにしても今年はよく登山をするなぁ…

頂上までのコースは右回りと左回りがありますが左回りは作業用道路みたいなので右回りで登って行きます。



階段なのが逆にキツかった…



坊主岩の弾痕

これも【西南戦争史跡55】に載せていましたね。







ゆっくり戦績を探しながら登ること30分で頂上に着きます。

残念ながらここまで戦績を見つけることができませんでした。



しばらく休憩をして頂上付近を探索。

頂上には何の痕跡もありませんでしたが尾根沿いの道を見つけました。



尾根沿いを進むと右に人口的な窪地を発見。

塹壕ではないですが直径2mほどの窪地です。

もしかして砲廠部があったのではと思われます。

【砲廠部】銃器や弾薬、食料を置いていた場所



上からの写真



砲廠部跡と思われる所から更に尾根を進んで行くと尾根の先端に塹壕がありました。



これらの遺構は西南戦争でここを占拠していた官軍のものでしょう。




頂上に戻り山を下ります。

帰りも探索しましたが他の遺構を見つけることができませんでした。

今回の探索ルート



天包山から西米良村の村所に戻り西米良村歴史民俗資料館と菊池記念館に立ち寄りました。









西米良温泉カリコボーズの湯ゆた~とで汗を流して帰ります。

ここの温泉は化粧水に入っているような感じでヌルヌルとして最高です。

















薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡58 宮崎県えびの市

2024-06-02 05:59:00 | 宮崎県西南戦争史跡
えびの市飯野における西南戦争

官軍・別働第二旅団の進撃により人吉を失った薩軍は加久藤峠を越え現在の宮崎県えびの市に退きました。

村田新ハは加久藤に本営を置き、河野主一郎は小林に本営を置きます。

別働第二旅団は人吉からえびの市の飯野に進軍してきました。

明治10年6月21日

河野主一郎は兵100余名を率いて小林を発し飯野に向かいます。

薩南血涙史では河野主一郎の兵が100余名と少ない事について書かれていました。

【河野所部の兵屋敷野越に於て破竹四番中隊半隊長吉留盛美以下官軍に降り、箙瀬に於て破竹二番中隊長赤塚源太郎一中隊を率ゐて亦官軍に降り、大畑の敗飯野越の敗に至りて離散するもの多く其部下此に至て百餘名となれり、此時に當り各方面の薩軍にして未だ斯くの如き人心の背反するものを見ざるに特河野の軍に至り此事あるは實に怪しむべきなり】

河野主一郎は兵が少ないので藤井鐵之助に兵士を託し単身加久藤本営に向かい援軍を村田新ハに頼みます。

村田新ハは三小隊を援軍に出しました。

河野主一郎は直ちに小林へ帰ったのですが飯野の兵も戦わずして小林に戻ります。

この時なぜ河野と兵士が小林に戻ったのかはわかりません。

翌早朝、加久藤本営は吉田より雷撃二番中隊(隊長・町田萬)・鵬翼一番中隊(隊長・美代直左衛門)、馬関田より破竹一番中隊(隊長・池田吉之助)を援軍として飯野に向かわせました。


6月23日

別働第二旅団の兵は飯野の八幡山に陣を敷きます。

薩軍は雷撃二番中隊・鵬翼一番中隊・破竹一番中隊に加え常山一番中隊(隊長・原田種秋)・常山七番中隊(隊長未詳)・雷撃五番中隊(隊長・池田彦四郎)・振武十一番中隊左小隊(隊長・柚木正次郎)の7隊400余名を2手に分けて本道と霧島連山裾野から進軍しました。

本道方面
雷撃二番中隊
鵬翼一番中隊
破竹一番中隊
常山一番中隊

霧島連山裾野方面
常山七番中隊
雷撃五番中隊
振武十一中隊左小隊

この時、鹿児島より来ていた行進十二番中隊(隊長・鵜木五左衛門)が正面の先鋒に加わっています。

戦いの火蓋を切ったのは霧島連山裾野方面からの兵で八幡山の官軍を退けます。

逃げた官軍の先には本道方面からの薩軍がおり、本道方面の薩軍は突進して官軍の前軍を撃破して中堅に迫ろうとしました。

官軍は潰走して城山まで退きますが薩軍は追撃して数時間激戦を繰り広げますが、日が暮れて弾薬も尽きたので薩軍は引き上げていきました。

雷撃二番中隊は吉田に破竹一番中隊は馬関田に戻り、振武十一番中隊は原田村に引き上げています。

河野主一郎と意見の衝突により鵬翼一番中隊は吉田へ帰り、行進十二番中隊は鹿児島の栗野に引き上げてしまいました。

河野主一郎はこの時期何かを抱えていたのでしょうか?

兵士の離散や衝突など多いのは将としての問題がありますね。



6月24日

この日薩軍は前日の雌雄を決するため兵を分けて飯野に進軍します。

薩軍は官軍の塁を抜いていきますが、官軍は密かに潜行して背面に回り激しく射撃をし、城山からは砲撃をして薩軍の進軍を防ぎました。

薩軍は官軍を抜くのは難しいとして小林に兵を帰し川を挟んで塁を築き、官軍と相対して10日余り連戦します。

原田村の振武十一番中隊左小隊は村田新ハの命により加治木に帰りました。



【西南戦争史跡

坂元官軍墓地(墓石群)

坂元には野戦病院が設けられており負傷者が送り込まれていました。

そのため坂元に官軍墓地が建てられています。



案内板には宮崎県からの党薩諸隊が約20,000人と書かれていますが間違いでしょう。

宮崎県からの党薩諸隊は約8,820人です。









官軍慰霊塔

官軍墓地(墓石群)が移る前の旧墓地です。

墓石群の案内板には【諸々の事情】とありましたが、この地は旧島津領で地元住民も当時薩軍びいきだったようです。

憎き官軍の墓と自分達の墓が同じ場所にあるのを嫌がったという事が移転の理由だったのでしょうね。







薩軍弾薬製造所跡

えびの市飯野出張所は薩軍弾薬製造所でした。



飯野出張所横の道は薩軍と官軍が通った道という事です。












昌妙寺

明治10年2月17日西郷隆盛、桐野利秋、村田新ハ、淵辺高照は薩軍砲隊を率いて鹿児島を出発します。

2月19日吉田温泉昌妙寺に宿泊しました。