西南戦争・薩摩の史跡を巡る

西南戦争に関する有名な史跡からレアな史跡・薩摩の史跡を載せてます。
史跡の詳細な地図も付けています。

薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡55 宮崎県西米良村・旧東米良村

2024-04-15 15:15:00 | 宮崎県西南戦争史跡
西米良村における西南戦争

西南戦争勃発の時に米良の領主だった菊池忠(すなお)は河野義俊と共に薩摩に向い村田新八率いる二番大隊九番小隊に加わります。

その後米良では明治10年4月27日に米良隊を編制して出兵しました。

米良隊
長友森衛・児玉元衛・甲斐瀬平・松浦市次・中武幾衛・中武貞衛・中武宗平・中武安平・中武八平・中武虎市・中武谷吉・中武岩吉を含む総勢32名

米良での戦闘は人吉陥落後の7月に入ってからで米良村史では別働第ニ旅団の中村重遠中佐率いる官軍620名が村所を攻撃、7月12日に村所を占領しています。

その後、小川に集結中の薩軍を攻略すべく天包山に10余りの塁を構築しました。

7月22日天包山に薩軍が攻撃をしたとあります。

薩南血涙史での米良における戦闘を記載します。

薩軍干城隊指揮長・阿多荘五郎が米良口を担当しています。

阿多荘五郎が率いる干城隊(大口方面の干城隊とは異なる米良口編制の干城隊)

干城隊一番中隊・米良重任
干城隊二番中隊・八木彦八
干城隊三番中隊・野間孫兵衛
干城隊四番中隊・石塚七十郎
干城隊五番中隊・河野通代

7月18日
干城隊は米良村の西八重、上米良、本城、横谷などの要所を守備します。

横谷方面の官軍(別働第ニ旅団)を襲撃すること3回に及ぶが官軍の要害により撃退できず両軍対峙している状況でした。

官軍は幽谷深林の間を潜行して来襲してきましたが薩軍各隊はこれを防ぎ撃って退けます。

7月21日
官軍は本城の干城四番・干城三番に攻め込んで戦闘をします。

薩軍は本城の防戦に利がないと判断し、小川に退きました。

横野を守備していた干城二番は官軍が小川に出ては横野の塁も保つことができないと応援に向い奮闘して官軍を退け、この地の守備をします。

7月23日
指揮長・阿多荘五郎は官軍が占拠している天包山に進撃することを決め、正面より干城一番・干城三番のニ隊を進軍させて、間道に干城四番・干城五番・佐土原二番・佐土原七番を向かわせ官軍の背後を衝きました。

正面の干城一番・二番隊は官軍との戦闘が始まりましたがお互い奮闘して勝敗が決まりません。

干城四番と佐土原二番は右翼間道より官軍の塁に迫り、干城五番・佐土原七番は林の中の樵路を進み左翼を衝きます。

官軍は第一塁を防ぐことができず後退、第ニ塁で応戦しますが正面からの薩軍と右翼からの薩軍に挟撃されて第ニ塁も捨て後退しました。

薩軍の攻撃は凄まじく官軍の要地をどんどん奪い官軍は第七塁まで退却してしまいます。

第七塁まで薩軍が攻撃してきましたが官軍もこれを死守します。

その時、官軍の付属第ニ中隊(降伏した人吉隊)が援隊として駆けつけ、さらに清水中尉が四斤山砲に榴散弾を装填して薩軍に砲撃しました。

薩軍はすでに弾薬が尽き、兵士も疲労していたため天包山から退却してしまいました。




天包山 西南戦争の碑





天包山 坊主岩の弾痕









駐車場から坊主岩に行くには下写真左側の階段を上って行きます。



少し上ると左に坊主岩があります。








米良は7月の戦闘以外でも薩軍と関わりがあります。

8月18日可愛岳突囲した薩軍が鹿児島に向かっている時に米良を通りました。








砂浜重言宅跡

8月25日西郷隆盛が旧東米良村銀鏡(しろみ)の砂浜重言宅に宿泊しています。



銀鏡集落



銀鏡川
薩軍退路の時は雨で増水していたようです。











児玉愛平宅跡

8月26日西米良村村所の児玉愛平宅に西郷隆盛が宿泊しています。

当主の児玉愛平は翌日薩軍の案内役をしました。











桐山宅跡

8月27日児玉愛平宅を出発した西郷隆盛は西米良村八重の桐山宅で休憩しています。

桐山宅は老朽化と2009年の土砂崩れで現在は建物は残っていません。

しかし、桐山宅の傍にあった柿の木が今も残っていました。

西郷隆盛もこの柿の木を見ていたと思います。









桐山宅跡へ行くには】

土砂崩れのため桐山宅跡に行く道は地図に載っていません。

車を置いて徒歩で行きます。

車の駐車場所


駐車場所から上り口を見る。


上り口


けっこうな勾配のある坂です。














坂を上ること約20分ようやく平坦な場所に出ます。

ここに柿の木が残っています。


西郷隆盛は桐山宅を出て山を越え球磨の槻木に入ります。

西南戦争史跡46に槻木の記事があります。












薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡54 宮崎県延岡市②

2024-04-06 18:36:00 | 宮崎県西南戦争史跡
延岡市で新たに巡った史跡を紹介します。


岡富官軍墓地

台雲寺に岡富官軍墓地があり、東京府士族・高橋種文の墓が一基あります。

墓石には9月22日に死亡とありました。

その日は鹿児島の城山で総攻撃が始まる2日前。

官軍のほとんどが鹿児島にいたはずなのに高橋種文がどこで死亡して、なぜ延岡に埋葬されたのかわかりません。

戦国時代末期から江戸前期にかけて延岡の領主だった高橋氏と何か関わりがあるのでしょうか?

名前に種が付く共通点もあります。

ご存じの方がおられましたらご教授お願いします。















今山招魂碑

延岡士族によって編成された延岡隊。

各地での激戦で多くの戦死者を出しています。

生存者有志にて大正5年に建立されました。

裏面には戦死者80名が刻名されており、慰霊祭も行われています。







西郷隆盛露営之地 地蔵谷

可愛岳突囲を果たした薩軍は8月18日夜にこの谷の上流(ここより約4km)に露営して一夜を明かしました。

いつか地蔵谷に行ってみたいですね。



この沢の奥に野営した場所があります。









牧野会長のブログで地蔵谷の詳しい説明がありますので読まれて下さい。





西郷隆盛宿陣跡 小野熊治宅

薩軍は地蔵谷から祝子川に出て、祝子川沿いに上流へ進みます。

途中で第一旅団川崎少佐が率いる部隊が向かっている情報を得たので待ち伏せして撃退。

そのまま上流に進み上祝子にある小野熊治宅で宿陣しました。











西南役烈士之墓

北川町川内名の天満神社内にあります。

天満神社の前にコミュニティバスの本深瀬バス停があるのでわかり易いです。

宮崎埋蔵文化センターの西南戦争遺構担当者に尋ねましたがこの墓の存在も知らないと言われました。

いろいろと調べましたがわかりません。

川内名では薩軍奇兵隊と熊本鎮台が戦闘していました。

官修墳墓ではないので薩軍兵士が埋葬されていると思われます。

ご存じの方がおられましたらご教授お願いします。



本殿右側の小さな祠横にあります。



祠の横にひっそりと建てられています。











山縣有朋中将陣頭指揮の地

明治10年8月15日和田越決戦において山縣有朋がここ樫山に官軍本営を置き、陣頭指揮をとりました。

西南戦争で西郷隆盛と山縣有朋は和田越決戦で初めて陣頭指揮をとって戦いましたが

樫山には塹壕も残っているようですが今回は行けませんでした。











くりごし峠

旧日豊街道です。

明治10年8月12日西郷隆盛はここを通り北川の吉祥寺に向いました。







薩軍奇兵隊本営跡

豊後方面に進軍した奇兵隊がここ熊田に本営を置いています。

現在は北川総合支所になっています。

和田越決戦時には官軍の熊本鎮台が熊田に牙営を置いています。









官軍・中西太平供養塔

北浦町の陣ヶ峰展望所には三川内で明治10年7月13日に戦死した官軍遊撃兵士・中西太平の供養塔が故郷石川県に向けて建立されています。

この供養塔は中西太平の一族が建立したものです。

中西太平の遺体は佐伯岡の谷招魂所に埋葬されています。

【三川内での戦い】

7月11日重岡にいた熊本鎮台・谷少将と第一旅団・野津大佐、児玉少佐は仁田原の薩軍は守備が堅固なので佐伯より後備第四大隊の二中隊と警視四番一小隊を黒沢から三川内に進軍を命令しました。

援隊として後備第四大隊の二中隊と警視六番一小隊も向かわせています。

7月12日後備第四大隊の二中隊は石神峠から三川内に向い、警視四番一小隊は石神峠を大きく迂回して三川内に突入しました。

三川内を守備していた薩軍は中津隊の増田隊一小隊・宮崎で募集した農兵の宮崎隊・その他絞兵(絞兵は一隊より十名或いは数名を抜いた兵)でした。

官軍の襲撃により三川内の薩軍は守備できず劣勢でしたが陸地(かちじ)より奇兵十六番・十九番・二十番と大原越から奇兵三番が援隊として駆けつけます。

それにより三川内では数日激戦が繰り広げられました。



この戦闘で中西太平も戦死したのでしょう。











児玉安治宅跡(西郷茶屋)

明治10年8月11日延岡市東本小路の原時行宅(現在延岡税務署)を出た西郷隆盛は北西に少し歩いた豊後口より川舟で五ヶ瀬川を下り東海に出て、北川を上りますが増水のため舟にて夜を明かします。

翌12日午前11時児玉安治宅で休憩・昼食をとり
、徒歩で北上して吉祥寺に向いました。











山田顕義少将宿営之地跡

官軍別働第二旅団司令の山田顕義が宿営した中條宅です。