西南戦争・薩摩の史跡を巡る

西南戦争に関する有名な史跡からレアな史跡・薩摩の史跡を載せてます。
史跡の詳細な地図も付けています。

薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㊹ 玉東町木葉

2023-05-11 15:14:00 | 熊本県西南戦争史跡
玉東町木葉(このは)には西南戦争の史跡が多く残っていますが、ここでも激戦がありました。

明治10年2月23日、前日22日に植木の緒戦において村田三介・伊東直二の小隊に敗れた乃木希典少佐率いる官軍第十四連隊は木葉まで退却します。

乃木は木葉本道とその左右に堡塁を築いて兵を配置して薩軍の進撃に備えました。

薩軍本営は22日の報告を受け23日午前1時熊本城攻囲隊から6個小隊1200名を派遣し南関を攻略して小倉を衝こうとします。

派遣された6個小隊
石原一郎右衛門(四番大隊七番小隊)
嶺崎半左衛門 (四番大隊八番小隊)
橋口成一   (四番大隊十番小隊)
神宮寺助左衛門(五番大隊三番小隊)
園田武一   (五番大隊五番小隊)
平野正介   (五番大隊七番小隊)

その他に大窪に駐屯していた國分壽介(五番大隊九番小隊)と鹿子木に駐屯していた松下助四郎(四番大隊六番小隊)が合併してこれに加わりました。

石原隊・嶺崎隊・神宮寺隊は山鹿方面に進み、橋口隊・園田隊・平野隊・國分隊・松下隊は高瀬(玉名市)に進みます。

官軍第十四連隊は午前5時、津森秀實大尉率いる20余名の別動支隊を植木方面に向かわせました。

田原坂近くの七本で両軍が遭遇しましたが別動支隊は薩軍を引きつけながら後退し、木葉まで誘導します。



午前8時30分木葉で待機していた第十四連隊は中央に吉松少佐隊、左翼に和田中尉隊、右翼に宇田川少尉隊を配備して接近した薩軍に一斉射撃を行いました。

不意をつかれた薩軍は一時混乱しましたが、すぐさま態勢を立て直し上木葉に拠って散開します。

また午後2時頃、山鹿に向かっていた薩軍も砲声を聞き木葉に駆けつけ、木葉山の北へ進出して官軍の側面、背後を襲撃しました。



増強された薩軍の勢いは凄まじく、第14連隊は苦戦を強いられます。

夕刻になると乃木少佐は全軍撤退を命じましたが薩軍の一隊が木葉山を迂回して、稲佐の背面から第十四連隊を襲撃。



これにより吉松少佐は戦死、乃木少佐は馬が被弾して落馬し薩軍に討たれそうになりましたが部下の大橋伍長と摺澤少尉試補に救われ、午後9時頃にようやく退却できました。

木葉を占領した薩軍でしたが本営より植木を守るようにと命令があり前進を中止します。

その後薩軍は高瀬へと向いますが博多から南下した官軍第一、二旅団と戦った高瀬会戦に敗れて後退し、再び木葉で戦闘が起こりました。

3月1日~3日高瀬から官軍が進出してくると薩軍は稲佐に大砲3門を設置して官軍を迎え撃ちます。

しかし、増強した官軍との戦闘は薩軍不利で後退していきました。

官軍は木葉を占領すると本営を設置して3月4日からの田原坂・吉次峠攻略に動き出します。

田原坂から木葉方面を望む








乃木希典奮戦の地

乃木希典が命を落としそうになった場所です。










薩軍砲台跡

乃木希典奮戦の地の隣りに稲佐熊野座神社鳥居があります。



鳥居をくぐり参道を登っていくと稲佐熊野座神社の本殿が見えてきます。





本殿の手前左に砲台跡の碑があります。



【明治十年西南戦役 田原・吉次・植木戦蹟図】に載っている稲佐の薩軍砲台



参道は急な石段で大変ですから車で行くことをお勧めします。





上木葉官軍本営跡

もとは高田家の屋敷跡で、田原坂陥落まで第一、二旅団の本営として使用されています。



旅団の本営が七本に移った後も陸軍中将・山縣有朋が本営を設けて作戦指導や戦後処理など行っていました。









有栖川宮督戦の地

征討総督に任ぜられた有栖川宮熾仁親王が田原坂攻略戦の戦地を見て廻られた場所です。
(有栖川宮は高瀬に居たので田原坂陥落後に見て廻ったのだと思います)



田原坂を望む


吉次峠を望む







正念寺

官軍病院跡ですが負傷者なら官軍、薩軍関係なく治療を行っていました。

山門横に官軍病院跡の碑が建立されています。



山門には当時の弾痕が残っています。


日本赤十字の全身である博愛社が置かれていました。











徳成寺

こちらも官軍病院跡で正念寺同様官軍、薩軍関係なく治療を行っていました。





熊本県下には日本赤十字発祥の地が幾つもあり、ここもその1つです。









宇蘇浦官軍墓地

徳成寺の隣りにある道を上がると宇蘇浦官軍墓地があります。



ここには田原坂、横平山、木葉での戦いで戦死した官軍が眠っています。





官軍将校25名、下士官47名、兵卒249名、軍夫13名と抜刀隊64名の墓があり、墓石は階級が上の人ほど奥になってます。















高月官軍墓地

木葉の中心にある高月官軍墓地は田原坂、横平山、吉次峠での戦死者が眠っています。





官軍将校44名、下士官168名、兵卒764名、軍夫4名、計980名が眠る西南戦争官軍最大の墓地です。











櫻田惣四郎辞世詩碑

玉東町出身の櫻田惣四郎は熊本隊参謀として西南戦争に参加しました。



出陣の際に残した辞世詩がここに建立されています。













薩軍三勇士の墓

ここには薩軍の藤坂吉左衛門宗隆・伊集院義兼・山倉文左衛門義種の墓があります。

3月10日薩軍の一隊は木葉の官軍本営付近を襲撃しようとしました。

しかし、木葉より離れた西安寺付近で官軍と衝突します。

これにより藤坂・伊集院は即死、山倉は負傷して近くの水車小屋にいました。

山倉は地元の山野家に匿われましたが5月20日に死亡。

その亡骸は藤坂・伊集院と同じ場所に埋葬され、山野家に手厚く供養されています。





三勇士の遺体は墓碑より少し離れた場所に埋葬されたと云う話もあります。
(写真の真中辺り)




入口の案内板









原倉西官軍砲台跡

みかん畑の中に碑が建っています。

半高山や吉次峠の薩軍に攻め込む官軍の援護砲撃をここから放っていたのでしょう。



官軍砲台跡から半高山、吉次峠を望む



官軍砲台跡入口の標柱























薩摩猫之介の散歩 番外編②

2023-05-06 22:39:00 | 宮崎県西南戦争史跡
西南戦争で西郷隆盛の側付だった深江権太郎

深江権太郎?

この名前を聞いたことがある方は少ないと思います。
深江権太郎は薩摩國の川辺村古殿(かわなべむらこうどん)出身で狩りに訪れた西郷隆盛の道案内や身の回りの世話をしました。
権太郎を気に入った西郷さんは宮崎のえびの市にある白鳥温泉などにも付き添わせています。
旧下級士族しか入ることができなかった私学校にも西郷さんの口添えで入校できました。

西南戦争に従軍した権太郎

私学校に薩軍本営の看板が掲げられて薩軍が上京する時、権太郎は桐野利秋に西郷さんの側付としてどんな時も離れるなと言われます。
権太郎は桐野の命令を自分の任務として8ヶ月の間西郷さんの側にいて、飯炊きや輿を担ぎ、身の回りの世話を行いました。

城山での権太郎

西郷さんが城山に入る少し前、桐野利秋に『利秋どん、権太郎に何か土産をつかわしてくいやんせ』と言います。
桐野は出発時から持っていた島津77万石丸に十字の旗標と田原坂の戦いが終わってから畳んで身に付けていた本3冊と大小を記念につかわしてました。
そして8ヶ月間西郷さんの側付を努めたことにより命を助けるから今後の日本発展に尽くしてくれと言われています。
薩軍が鹿児島の城山に立て籠ると権太郎は生き残りの軍夫と最後の奉公として砂取穴を掘りました。
現在の西郷洞窟です。
ここを掘ったのが深江権太郎だとは知らなかったです。

戦後の権太郎

城山岩崎谷を東側に出て、吉野村実方(桐野利秋誕生地)で隠してあった桐野からの記念品を取り、伊敷村を迂回して川辺に帰ることができました。
西南戦争が終結して権太郎に追っ手が来ることを恐れた親類縁者は権太郎は何処かで戦死したことにして古殿よりも山深い瀬戸山に身を隠します。
しかし、官軍の使いも来なかったので名前を熊助と改名して国民の義務だった徴兵検査を受けて軍役に努めました。
軍の訓練ではきびきびと動き成績抜群で中隊長に『私は西南ノ役や私学校で実習を受けたので、これ以上練習せんでも覚えております』と言います。
それに対し中隊長は『深江、それならお前がやれ』と言われました。
権太郎の号令や右、左の歩調が良くとれていたので中隊長の助手として教鞭をとることになります。
その話を聞いた十三連隊長・川上操六(西南戦争時は熊本城で籠城していた)が権太郎を呼び出し、『貴殿は西南ノ役に西郷閣下について行かれたそうだがご苦労であった。本日は、当時の実情を田原坂戦以後、宮崎県下に長くいて鹿児島に帰られて、城山で御戦死までの行軍を詳しく話してくれ』と言われ状況を話たようです。

退役後の権太郎

軍役が終了すると権太郎は地元に戻ります。
木挽きの千頭(木挽きの頭役)となり地元の青年20名ほど連れて白鳥温泉の白鳥山に出稼ぎへ向いました。
20年ほど出稼ぎに出てましたが大正になって電動ノコが主流になると地元に帰ります。
しばらくして宮崎の加久藤村で自業を営む次男の所に移り住み余生を送りました。
権太郎の永眠日は昭和10年9月24日で西郷隆盛と同じ日という実に不可思議な因縁で有り難いとあります。

この『南洲翁の足軽籠かき飯炊き 西南役従軍深江権太郎記』は権太郎の4男・深江武夫氏が権太郎から聞いた話を後年書いたものです。

権太郎の玄孫の方が現在小林市でうどん屋を経営されています。





美味しかったです♪





薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㊸ 玉東町二俣台・横平山

2023-05-06 15:15:00 | 熊本県西南戦争史跡
官軍は薩軍が守備する田原坂攻略で田原坂と谷を隔てた二俣台に進発します。

田原坂の東側・二俣台



明治10年3月4日~8日に二俣で薩軍と戦闘がありました。
(二俣口の戦い)

二俣を攻略した官軍はこの台地に砲台を構築して、官軍本隊が攻撃している田原坂に向け援護の砲撃を行いました。

二俣台地から田原坂にかけては遮る物はなく、見通しがいいため砲台を築くには絶好の場所でした。

田原坂から二俣台地を望む





二俣台地の砲台は瓜生田と古閑、その間に官軍出張本営が置かれ出張本営にも砲台を築いています。

大砲は四斤山砲で8門が田原坂、七本方面に向けて砲撃されました。

四斤山砲(官軍主砲)
西南戦争で官軍の四斤山砲弾薬消費量は57087です。



瓜生田官軍砲台跡古写真


発掘調査では四斤山砲の轍が見つかっています。



古閑官軍砲台跡(下段)古写真



明治十年西南戦役 田原・吉次・植木戦蹟図にある二俣台地の砲台。



官軍の砲撃は昼間のみ行われており、夜になると解体して木葉へと移したようです。

薩軍による夜襲で大砲を奪われないようにしたと言われています。


二俣瓜生田官軍砲台跡











二俣官軍出張本営跡





二俣古閑官軍砲台跡



ここは上段と下段に分かれて砲台が築かれています。



上段の砲台跡


下段の砲台跡







令和14年までに公園整備計画があります。






横平山の激戦

二俣台地の南側に横平山があります。



横平山は田原坂から吉次峠の防衛線にあり、薩軍の重要な陣地でした。

薩軍の防衛線
(黒点が横平山、赤点が官軍砲台)



田原坂から見た横平山方面






横平山では3月9日から官軍が攻撃を開始しています。

山頂に陣地を築いている薩軍に北側麓から官軍兵士は射撃をしながら登っていきました。

薩軍も応戦して射撃、抜刀して白兵戦を行い多くの死屍が横たわる状況だったとあります。

膠着状態が続いていましたが3月14日官軍は警視抜刀隊を編成して15日に横平山へ投入します。

(警視隊と警視抜刀隊を混同している人が多いのですが別です)

士族からなる両軍は激しい白兵戦を繰り広げました。

それによる死傷者も官軍は木葉、薩軍は木留の野戦病院に多く運ばれています。

3月15日~17日による官軍の猛攻で横平山は陥落してしまい、ここから吉次峠攻略の足掛かりにしていきました。



横平山山頂にある西南役激戦跡の碑



薩軍の塹壕跡



わかりにくいですがわずかに盛土があります。



慰霊碑



横平山から田原坂を望む





横平山へ行くにはいくつかの道がありますが下地図の赤線の道が1番通り易いです。
(その他の道は道幅が狭かったり、山道だったりします)



こちらも公園整備計画があります。






横平山薩軍仮埋葬地

横平山で戦死した薩軍兵士が仮埋葬された場所で戦後に改葬されたようです。


ここには徒歩でしか行く事ができません。



写真ではわかりにくいですが、かなりの急坂ですので訪れる際は気をつけて下さい。







薩軍兵站の地

ここには唯一湧き水があり、両軍が使用しています。



湧き水が赤く染まるほど多くの死屍が横たわっていたようですね。




























薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㊷ 玉東町吉次峠②

2023-05-02 14:07:00 | 熊本県西南戦争史跡
明治10年3月4日熊本隊本隊が木留に到着すると薩軍本営から田原坂へ応援の要請を受けます。

北の田原坂と南の吉次峠は戦線が繋がっていて、その間の谷や高地のほとんどが陣地化となっていました。

熊本隊の3個小隊を田原坂に派遣し、参謀・山崎定平が指揮をします。

佐々友房の一番小隊と岩間小十郎の十五番小隊は吉次峠の東側にある那智口に進撃、城市郎の三番小隊と北村盛純の七番小隊は大多尾の守備を薩軍に譲って田原坂背後の七本に向いました。

耳取峠では戦闘があり、熊本隊兵士の死傷者が出ています。

薩軍の篠原国幹、村田新八は半高山の山頂から三ノ岳中腹まで500人が陣を張って官軍を挟み撃ちにして破り、官軍は数百人の死傷者を出して退却しました。

しかし、篠原国幹が吉次越の六本楠で挺身して指揮していたところを顔見知りだった江田国通少佐が部下に篠原の狙撃を命じます。

篠原は狙撃されて戦死し、夜半に遺体は薩軍本営へ戻されました。



3月5日佐々友房の一番小隊は吉次峠の守線に戻り塁壁を増強します。

そして以前のように1日おきに左右の半隊が交代して守備に当たりました。

その後官軍は吉次峠を攻撃目標からはずし、田原坂へ集中攻撃をかける事になり、しばらく吉次峠での戦闘はありません。

3月20日に田原坂が陥落すると官軍は植木、木留に兵を進めます。

3月28日吉次峠に再度官軍が攻撃をしてきました。

しかし、要塞化した吉次峠では佐々隊、薩軍、新たに加わった人吉隊の防戦が有利で官軍は敗走しています。

しばらく小競り合いが続きましたが、4月1日官軍は近衛兵を中央に、第二旅団の鎮台兵を左右に配置して数百人が号砲3発を合図に三方面から吉次峠と半高山に突撃しました。



これを迎え撃つ佐々隊、薩軍、人吉隊でしたが戦闘数時間して半高山の人吉隊が撤退します。

半高山を奪った官軍は集結し佐々隊と薩軍に向けて一斉に弾丸を発射しました。

背後から敵弾が雨のように降ってきて挟み撃ちになった佐々隊と薩軍は身動きがとれず、山側の松林を潜行して三ノ岳へと後退してしまいます。

これにより地獄峠と恐れられていた吉次峠は陥落してしまいました。

吉次峠廠舎の古写真


上の古写真をカラー化





【西南戦争史跡】

吉次峠激戦地跡













吉次峠から木葉、高瀬方面を望む



この碑は佐々隊が死守したことを称えて建立されました。


佐々友房の漢詩




きちとうげたたか
さっ友房ともふさ
きみずやきちけんしろよりもけんなり
     突兀とっこつそらしてみち崢嶸そうこう
けむりたかへんみず
     かぜさんたけほうじょうはた
いっちょうけいつたえてわらってあいてば
     たちま千軍せんぐんばんこえ
しょうえんくもたまあめ
     そう一命いちめい鴻毛こうもうよりもかろ
吶喊とっかんこえ巨砲きょほうしてひび
     やまさけたに乾坤けんこんとどろ
砲声ほうせいゆるところしょうせいしずかなり
     一輪いちりん皎月こうげつ陣営じんえいらす

【通釈】
君は知っているだろう、吉次峠の峻険さは城壁を登るよりも困難だということを。崖は切り立ち、道は険しい。高瀬川から上る霧に視界も定かでなく、三ノ岳の峰の風が旗指物を吹き上げる。一たび敵襲が伝わり、笑って相対すれば、たちまち千軍万馬の敵が押し寄せてくる。硝煙は雲のように立ち、銃弾は雨のように降り注ぐ。勇壮な兵士の生命は、鳥の羽よりも軽い。敵陣に突入の鬨の声が砲声とともに山に叫び、谷に吼え、天地をとどろかせて響く。やがて、砲声が絶え、松の梢をわたる風声も静寂な中を、一輪の、皎皎たる月が陣営を照らし出すのである。




半高山

吉次峠本道と半高山です。




半高山から田原坂を望む




令和14年までに公園整備計画があります





篠原国幹戦没の地

初めて薩軍の大隊長が戦死しました。

篠原国幹は他の将とは違って寡黙でしたが、決めた事には義を言わず断行する人物でした。

篠原国幹が習志野の地名の由来になったと言われています。



そんな篠原国幹の戦死は薩軍にとって大きな損害だったことでしょう。




官軍がいた立岩、木葉方面を望む








立岩薩軍砲台跡

道幅は狭く、わかりにくい場所ですが案内板があります。




墓地の中に建っています。


木葉、高瀬方面を望む

【明治十年西南戦役 田原・吉次・植木戦蹟図】にある岩立砲台






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薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㊶ 玉東町吉次峠①

2023-05-02 02:20:00 | 熊本県西南戦争史跡
官軍からは地獄峠と呼ばれた吉次峠とは…

吉次往還の難所だったのは吉次峠でした。

吉次峠は三ノ岳の裾野と半高山(高さが三ノ岳の半分なので半高山)の谷間にある峠です。

吉次峠には佐々友房率いる熊本隊一番小隊が死守した事から佐々友房戦袍日記から見た吉次峠を書きたいと思います。





熊本城を攻撃中の薩軍に官軍(第一、ニ旅団)が博多から南関に向かっているのと、先鋒隊が既に高瀬(玉名市)にいると報告が入り、熊本城攻撃と官軍の南下阻止の並行作戦をとります。

北上した薩軍は植木にての緒戦、玉東町木葉(このは)で先鋒の第十四連隊を撃退して高瀬へ向いました。

明治10年2月26日熊本隊本隊は高瀬に向かう途中、白木村にて農夫から他の熊本隊がこの先の寺田村で苦戦していると告げられます。

その報告を聞いた熊本隊本隊は隊を救うため農夫に案内されて進んで行きました。

しかし、待っていたのは官軍の伏兵で熊本隊は一斉射撃を受けます。

農夫は官軍の間諜(スパイ)だったのです。

この戦闘で熊本隊は多大な戦死者を出し、六番小隊は全滅しました。

熊本隊は木留に退却、同時期に薩軍は高瀬・木葉で敗れ退却してしまいます。

その時、佐々友房率いる熊本隊一番小隊は吉次峠に向かって退却しました。(高瀬会戦)

吉次峠に着いのですが、薩軍は全軍が退却して人影がありません。

佐々は『吉次は絶嶮で枢要の地だ。今この地を捨てて敵に占領されたら、たとえ百の西郷があってもどうにもならない。ここに留まって死ぬのも、ここを捨てて10日後に死ぬのも、死は1つだ。私はこの地を死に場所と決めた。』と言うと隊全員が賛成、承知しました。

佐々は大いに喜び刀を抜いて傍らの大楠の幹を削り、墨も黒々と【敵愾隊悉死此樹下】と大書し、枯木を集めて篝火をたき、塁壁を設けて決死の覚悟で官軍の襲来を待ちます。

吉次峠の古写真




上の古写真をカラー化




3月3日官軍の第一、ニ旅団は一部の兵を高瀬に留め、安楽寺(現在の玉名市と玉東町の境にある地)へ三池往還を進みます。

官軍の支隊(歩兵2個中隊を前衛、歩兵3個中隊を後衛)を率いる野津道貫大佐は吉次往還を進みます。

薩軍の守備は以下の通りです。

吉次峠 佐々友房 (熊本隊一番小隊)
    相良長良 (一番大隊五番小隊)

耳取峠 三宅新十郎(熊本隊五番小隊)

三ノ岳 岩間小十郎(熊本隊十五番小隊)

大多尾 林七郎次 (一番大隊一番小隊)
           城市郎  (熊本隊三番小隊)
    北村盛純 (熊本隊七番小隊)
    遠坂関内 (熊本隊十番小隊)

野出  永山休二 (四番大隊五番小隊)


耳取峠は吉次峠の北隣りにあります。



これらの隊がお互いに連絡し合って防備を固めていました。

吉次峠では熊本隊の一番小隊長・佐々友房、軍監・高島義恭が右半隊を指揮して吉次越本道を守り、軍監・古閑俊雄、半隊長・真鍋慎十郎が左半隊を指揮して半高山の中腹を守りました。

官軍は砲撃を援護に本道を勢いよく射撃を行いながら進んできます。

しかし、薩軍や佐々隊が必死に防戦して官軍は吉次峠を抜く事ができません。

今度は半高山麓を廻って隣りの耳取峠を攻撃目標にします。

しかし、そこには古閑の隊が伏兵していました。

官軍がわずか数間に近づいて通り過ぎようとした時、伏兵が一斉射撃。

慌てた官軍は逃げる者、撃たれる者その数を知れず、さらに伏兵は激発してその横を撃たせたので多大な犠牲者を出しました。

やがて官軍は方向を変え、半高山に向かって一斉射撃を行います。

その状況はまるで大雨が降るようで、古閑が楯にしていた松の木は弾丸で皮がはじけ、幹は砕けて目を開くこともできない激しさでした。

戦闘は正午から夕方まで続き古閑隊は夜になると半高山に登って夜を徹して間道を固く守りました。

本道は佐々、高島等が奮闘して官軍を撃退しています。

この日の戦いで十数万発の弾丸が飛び交い、官軍の長さ数百mの堡塁の間は空になった薬莢で埋まり、官軍兵士の死屍が累々とした悲惨な情景だったようです。

官軍はこの日と翌4日の戦いに敗れて以来、吉次峠のことを地獄峠と呼んで近づくことを恐れました。

次項につづく