西南戦争・薩摩の史跡を巡る

西南戦争に関する有名な史跡からレアな史跡・薩摩の史跡を載せてます。
史跡の詳細な地図も付けています。

薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㊾ 特別編①

2024-01-24 00:31:00 | 宮崎県西南戦争史跡
2024年1月21日

宮崎県延岡市の【西南戦争 和田越決戦を語り継ぐ会】が主催された西南戦争和田越決戦遺構巡りに参加させていただきました。




会長の牧野義英氏について

牧野会長は1人で会を立ち上げ、個人で無鹿山~和田越~小梓峠~長尾山を実地踏査して西南戦争の遺構を発見されました。

後に有志も集まり会員も増えています。

調査により見つかった遺構は約70ヶ所。

塹壕・砲塁・竪堀・堀切・切岸・薩軍本営跡・弾薬庫など当時の状態で残っていました。


【著者 牧野義英氏
西南戦争 和田越ノ戦いを語る戦争遺構より】

現在も会員の方々や有志の方々により遺構の保全・保護に努めておりシダなどの藪を払い、倒木の撤去も行われおります。

行政からの補助も無く会費で全て行なっているとのことでした。

とても頭が下がる思いです。

今は薩軍可愛岳突出の際、前軍が通ったとされる道を調査しており、自分も微力ながら手伝わさせていただきます。

とても素晴らしい方と知り合い、こんなご縁に感謝しております。


西南戦争和田越決戦遺構巡り

西南戦争当時、延岡は鹿児島県であり和田越決戦遺構巡りは鹿児島の歴史だと認識して下さい。

今回の集合場所(赤マーク)


牧野会長と初めてお会いし、遠方でも入会できると言われたので速入会させてもらう事に!!

そして、SNSでやり取りしていた南氏も鹿児島から参加していたので挨拶をし、西南戦争史跡の話で盛り上がりました。

自分はまだスタート前ですが期待と喜びの感情に包まれていました。


【和田越決戦の配置図】

赤色が和田越決戦での薩軍陣地です。



前日は雨でしたが天気も回復し、良い遺構巡りになり、当日会員の方、一般の方が22名集まって遺構巡りスタートです。



山に入る前、牧野会長より官軍・山縣有朋が指揮をした樫山の説明がありました。



中央の小山が樫山



説明後長尾山一本松を目指して山の中に向かいます。



最初からハシゴを上るとは…この先は大丈夫か?と思う瞬間でした。

ハシゴの上が旧日豊街道と思われ右下の道が昭和に新設れた市道とのことです。

かなり削られているのがわかります。



多少不安でしたが思ったよりも緩やかな坂で尾根を目指して登って行きます。



当時の燃料は全て薪や木炭でした。

そのため全国の町や村周辺の山々の木は伐採され禿げ山だったらしいです。

ここも例外ではなく木々がなかったので両軍兵士の動きが見えていたことでしょう。





尾根の幅が1番狭い場所で、両側は急斜面でまるで馬の背みたいな所です。


小梓峠と長尾山の中間辺りです。

牧野会長の話では小梓峠付近には薩軍兵士が蟻集しており、何か画策しているかもと考えた別動第ニ旅団司令の山田少将はこの辺りに兵士を進むよう命令しています。

写真の左側が南で官軍陣地側ですが上では薩軍が守り、この様な急斜面を官軍が下からよじ登ってきたのでしょうね。

上では敵兵が待ち構えておるのに官軍兵士は銃を持ち、荷物を背負って登るなんてとても信じられません…



傾斜量図で見るとここが急斜面だとよくわかります。




しばらく尾根を進むとあんなに狭かった道が開けてきました。

すると地面に円形状の窪みが!

とても自然にできたとは思えないような形ですね…

ここは武器弾薬などを置くために作られた窪地だそうです。



更に進むと人工的に作ったとしか考えられない三日月型の土塁がありました。

塹壕跡です。

147年前の遺構がしっかりと残っていますね!

素晴らしい!!!

牧野会長の説明を受けながら順次見て回ります。



牧野会長は全ての遺構に番号を付け、所在地・遺構の種類・遺構の寸法・概要をまとめておられます。

本当にスゴい…



更に塹壕!





次々と現れる塹壕!

これまでいろんな場所の遺構を巡りましたがこんな数の塹壕が残っている場所は他にないと思います。





田原坂周辺の史跡も石碑など多くていいけれど、ここには当時の状態がそのまま残っているのが素晴らしい!







ここはとてもいい状態で残っている塹壕です。

わかりやすく感動しますね!

牧野会長の本を読んで色々と想像はしていたのですが想像を上回る光景でした。







またまた塹壕!!!





本当に想像を上回る光景です!





土地開発などされなかった事に感謝します!




長尾山一本松の薩軍砲塁跡

小梓峠西側から長尾山までの塹壕は明治10年8月15日の和田越決戦の後、ここに入った官軍が12万人もいる軍夫を使い薩軍が集まっている長井村俵野へ向け北側に構築したとの事でした。

一本松の砲塁は元々薩軍砲塁で南側に土塁がありましたが官軍が摂取して北側に土塁を築いたそうです。



南側にあった薩軍砲塁の土塁はミカン畑事業により削られ高さ3mほどの崖となり今はありません。

とても残念です…



一本松の塹壕で説明をしている牧野会長

牧野会長は博識で遺構だけではなく両軍の戦闘状況まで把握されており自分はまだまだ勉強不足だと痛感しました…



一本松から来た道を戻り逆側の小梓峠に向かいます。

特別編②へつづく