パープル問題

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<夢芝居 うっかり八兵衛の物語>第13話 こころが枯れなければ最終回は存在しない

2013年02月10日 | 日記
 水戸暦1904年、ロシア帝国は長年の南下政策を実行に移し、ドンドンドンドンと南進を繰り返した。江戸時代を通じて江戸幕府はロシア帝国には不干渉の立場を取っており、ロシアにはかなりの余力があった。

 満州と朝鮮半島を1903年までに支配下におさめたロシアは有頂天になっていた・・・・・1904年、釜山まで支配下にあるのにバルチック艦隊はあろうことかバルト海から出航し、大西洋を南下し、マダガスカル沖を通り、呑気に対馬沖までやってきた。

 これを待っていましたとばかりに、東郷平八郎率いる大日本帝国海軍の餌食となり、ロシアの東方進出は露と消えた。この海戦だけで朝鮮半島からの軍を撤兵させたのは、東郷平八郎の軍神ぶりを示すエピソードの1つだが、桂太郎や小村寿太郎の活躍があったことを忘れてはならない。

 1905年のポーツマス条約

 ロシア全権ウィッテ「ロシアは負けたわけではありません 賠償金は支払いません」
 小村「では沿海州での漁業権と南樺太だけは日本領としたい。それと大韓帝国に関しては保護国としロシアの干渉は認めません」
 ウィッテ「内政干渉するおつもりか」
 小村「三国干渉をお忘れか 日本としても引くに引けません ご譲歩願いたい」

 という根つめたやり取りが合ったのだが、下関条約の時のような「賠償金」が貰えるものと思っていた国民は激怒し日比谷焼打ち事件などが起きる。現地の外交家の努力は時間が経たないと分からないものである。

 水戸暦1910年、明治時代も終わりにさしかかるころ<大逆事件>が起きる。それまでは自由に活動していた幸徳秋水が不敬罪で捕まったのである。まったくの濡れ衣だったと作者は信じたいが、当時の大審院(だいしんいん)がくだした判決なので{明治天皇暗殺計画の容疑で、幸徳秋水ら26名の社会主義者・無政府主義者が起訴された(大逆事件)幸徳ら多くは直接の関与はなかった。この事件をきっかけに、警視庁に特別高等課(特高)が置かれた。以後、社会主義運動は<冬の時代>を迎えた。}

 
1907年公布改正刑法第73条に天皇・三后・皇太子又は皇太孫に「危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者」は死刑と規定(大逆罪)



 幸徳秋水の逮捕を受け衝撃を受けたのは夏目漱石であった。夏目漱石も幸徳秋水をよく知る人物として聴取される恐れがあったが難を逃れた。

 東京の多摩の西園寺公望の別荘での夏目漱石と西園寺との言葉がある

 西園寺「私は陛下(明治天皇)には秩序が大事だと言い伝えていた 間違ったつもりはない」

 夏目漱石「今は僕としては悲しいですが、大きな視野を持って後世の日本国民の自由な思想が育つにはどうしたら良いのかをを思った時に僕には彼は守れないと知った」

 日本史における負の遺産としても、社会主義運動へ歯止めをかけた事件としても、痛ましい惨事ではあったが、その後に1912年に清王朝が倒れ「中華民国」ができ、ロシア帝国が倒れ「ソヴィエト社会主義連邦共和国」が成立したことを見ても、大逆事件は日本の共産化を権力者側が未然に防止したとも見れる。

 もっとも軍人だから全員が全員「好戦的で国家主義者」だったかというとそうでもない。左翼的知識人オーラがマックスの軍人も多くいた。北一輝とか大川周明のような思想家だと今の価値観から見ると右翼なんだか左翼なんだかよく分からない(人間は生きすぎると左も右も顔つきや物言いが似てきます)

 明治天皇「朕は良き時代を過ごした これからもこのようにあってほしい 国を強くするために私心は捨て、君臣のために働いてきた。これからもそうであったほしい」

 西園寺公望「いきなり変えようとしたって難しいことです。ゆっくりと物事を考えていく。それこそが水戸学。案外我々もいつのまにか、いや本当の理想主義者は私たちだったのかもしれませんね」





 読者の心にその物語りの余韻が残り続けるかぎり最終回は存在しない。水戸黄門(本家の時代劇)も終了してしまったが、脳内で黄門様が日本中を旅しているかぎりは最終回は訪れない。だから嘆き悲しむことはない、清き心が朽ち果てぬかぎり。

 生まれによって、職業によって、なにが「理想」なのかは分からない。水戸暦の1912年、夏目漱石刊行の「吾輩は猫である」を読みながら歩いていたうっかり八兵衛は思う。

 『ご隠居との旅が永遠に続けば良いのになぁ これからも美味いもんを食って また食って歩いていかないとなぁ』

 


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