昨日書いたことの続きになるが、人とAIと比べた場合の、人であることの意義は何処にあるのだろうかと考える。人は、失敗も沢山するし、欲望に負けることも多い。AIは、論理的に考えるし、失敗もしない。今後、人の仕事のかなりの部分がAIに置き換わっていった時、AIに比べ欠陥が多い人間という存在は、どうなってしまうのだろうか。単なる生産機械として人を見た場合、明らかに人は間違いばかりする欠陥品だろう。現在でも、有名大学を出た偏差値の高いエリート達の中には、他の人間を欠陥品と見做している者もいるのではなかろうか。また、プーチンなどの権力者は、人を自らの欲求を叶える為の消耗品としか見ていないような気もしてならない。確かに権力者の立場で論理的に思考した場合、人もまた消耗品であり、大ロシアの復活などの目的にとっては、ウクライナやロシアの民衆の命は消耗品でしかないのだろう。そこに、覇権主義的権力体制の恐ろしさがあるし、場合によっては核戦争で地球が滅亡しても厭わないという考え方も生まれてくるのだろう。『人は消耗品ではないし誰の奴隷でもない。自分の意志で自由に行動したい。』ということが、民主主義や自由主義、人間主義の根幹にあると思う。
人間の能力をAIが超えるというシンギュラリティを迎えても、誰にも必ず訪れる死の恐怖や、自らの弱さ・欠陥を自覚しつつ、それぞれが、懸命に生きていこうという所に人間らしさを見出すことが出来るのではなかろうか。
自分と異なった人や、目立つ人を対象とする「いじめ」は、人格を破壊する行為であることは言うまでもない。人は嫉妬する生き物であるが、一方では、弱い人を助けようという愛情も人にあるのではなかろうか。そこが、現在のところでAIと人との違いなのかもわからない。しかし、将来は、それすらもAIが身に着けるかもわからない。
一方、統一教会問題などから、宗教の存在価値が問われているが、キリストにしても、仏陀にしても、人とはどういう存在なのかということを真剣に考え抜いたのではなかろうか。今、再びそれが、全人類個々に問われているのではなかろうか。
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