おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

冬牡丹。楊貴妃・「長恨歌」。冬至梅・唐梅。八重・一重寒紅。まゆみ(檀)。さるすべり(百日紅)。・・・、そしてユリカモメ。

2023-01-22 13:42:05 | 向島百花園

「向島百花園」。

入口に紅白の冬牡丹。

牡丹: 別名は「富貴草」「富貴花」「百花王」「花王」「花神」「花中の王」「百花の王」「天香国色」 「名取草」「深見草」「二十日草(廿日草)」「忘れ草」「鎧草」「ぼうたん」「ぼうたんぐさ」など多数。

原産地は中国西北部を観賞するために栽培されている。・・・。元は薬用として利用されていたが、盛期以降、牡丹の花が「花の王」として他のどの花よりも愛好されるようになった。たとえば、『松窓雑録』によれば、玄宗の頃に初めて牡丹が愛でられるようになったものの、当時は「木芍薬」と呼ばれていたと記載される。また、煬帝や初唐の則天武后が牡丹を愛でたという故事がある。ただし郭紹林はこれらの故事を慎重に検討し、虚構であると結論づけている。 代以降、1929年までは中国の国花であったとされることもあるが、清政府が公的に制定した記録はみられない。

(この項、「Wikipedia」より)

冬牡丹。 

唐の詩人・白居易(白楽天)「長恨歌」の一節。

唐の皇帝玄宗が楊貴妃の色香に迷い、政務を疎かにしたため、安禄山の乱が起こり、都落ちするはめに。楊貴妃を死に追いやった後、乱が治まり、再び都に戻ってくる・・・。

楊貴妃の美貌を「牡丹」に喩えている。

漢皇色を重んじて傾国けいこくを思ふ ぎょ多年求むれども得ず

楊家ようかむすめ有り初めて長成し 養はれて深閨しんけいに在り人未だらず

天生の麗質自ら棄て難く 一朝選ばれて君王のかたわらに在り

ひとみめぐらして一笑すれば百媚ひゃくび生じ 六宮りくきゅう粉黛ふんたい顔色がんしょく無し

春寒うしてよくを賜ふ華清かせい 温泉水滑らかにして凝脂ぎょうしを洗ふ

侍児しじたすけ起こせばきょうとして力無し 始めて是れ新たに恩沢おんたくくる時

雲鬢花顔金歩揺うんびんかがんきんぽよう 芙蓉のとばり暖かにして春宵しゅんしょうわた

・・・

馬嵬坡下ばかいはか泥土でいどうち 玉顔を見ずむなしく死せるところ

君臣あいかえりみてことごところもうるほす 東のかた都門を望み馬にまかせて帰る

帰り来たれば池苑ちえん皆旧にる 太液たいえきの芙蓉未央びおうの柳

芙蓉は面のごとく柳は眉のごとし 此に対して如何いかんぞ涙の垂れざらん

・・・

昔から美しい女性のことを「立てば芍薬 座れば牡丹  歩く姿は百合の花」と表現しますが、芍薬も牡丹も同じボタン科。牡丹が花の王、「花王」と呼ばれるのに対し、芍薬は花の宰相、「花相」と呼ばれるそうです。

芍薬。(「Wikipedia」より)

梅二枝。

             

古木にはやっと蕾らしきものが。

冬至梅。

唐梅。 

八重寒紅(やえかんこう)。

他にも。まゆみ。

・昔、この木で弓を作ったので 、「真弓」の名になった。真弓の樹質は硬いが、柔軟性がある。

・ピンク色の実が割れてオレンジ色の種子が出てくる。この様子がとても美しい。

・「檀」とも書く。

・材で、こけしや将棋の駒をつくる。

・春、この若葉を 菜飯(なめし)として食べるとおいしいらしい。

・「白檀弓(しらまゆみ) いま春山に 行く雲の 逝きや別れむ 恋しきものを」(万葉集)

・「天の原 ふりさけ見れば 白真弓 張りてかけたり 夜道はよけむ」(同)

・「南淵(みなぶち)の 細川山に 立つ壇(まゆみ) 弓束(ゆづか)纏(ま)くまで 人に知らえじ」 (同)

・「み薦(すず)刈る 信濃の真弓 わが引かば 貴人(うまひと)さびて いなと言はむかも」(同)

・「しらまゆみ 磯辺の山の 松の葉の 常磐にものを 思ふころかな」(金槐和歌集 源実朝)

(この項「」HPより)

足もとには、

「春の七草」。

スカイツリー。 

門前に紅白の梅の木。

しろかが。 ひとえかんこう。

児童公園の百日紅。<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/19/96f00f9ddd06d5969e9bb6ddcc4d5652.jpg">

今年は、久々に「梅まつり」が開催されるようです。

ところで、隅田公園のユリカモメはどうしているか? 

ところが、隅田公園の池が工事中。隅田川にも、

ほとんどいません。

                餌場を求めて移動したのでしょうか?

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やっぱり仲良くないのかな、アンズとソウタ。人なつっこいソウタ、どうもそうではないアンズ。

2023-01-21 13:44:47 | 我が家の猫たち

朝のひととき。

        

そっぽを向くアンズ。遊ぼうよ、というソウタに。

無理矢理近づくと、

               

箪笥の上に。

               下のテレビ台に。

それでも、コタツの中では仲良く寝ている時も。一安心。

     ソウタ。目線が合うと、猫じゃらし持参の上で、遊んで、と。

                       ソウタの七つ道具の一つ。

一人遊びも得意。

今度は、ジジ。

                

          

              

結局、飽きて、

            

本人は、ベッドの上で毛繕い。

                 

そして、スヤスヤ。

アンズは、コタツの中で、ゆっくりと(寝ています)。

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西武線「西武園駅」~JR八高線「箱根ヶ崎駅」。番外編。青梅街道。日光街道。箱根ヶ崎駅。

2023-01-18 18:51:02 | 都県境を探る

青梅街道に出ました。

モニュメント。

       

                <img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/fb/387b9647eefe1f153ccb0cc17a774327.jpg">

             

「旧日光街道」と標示された信号機。

「箱根ヶ崎」は、「旧日光街道=八王子千人同心街道」と「青梅街道(旧)」とが交わるところです。

二つとも歩いたので、久々の「箱根ヶ崎」です。

青梅街道。

JR八高線「箱根ヶ崎駅」。

          

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西武線「西武園駅」~JR八高線「箱根ヶ崎駅」。その8。出会いの辻・六道の辻。旧日光街道。青梅街道。

2023-01-16 18:38:06 | 都県境を探る

瑞穂町の住宅地に向かいます。

「狭山湖堰堤から7.0㎞」。

富士山が意外に近くに。

「出会いの辻」へ。

案内板。

庚申塔。

「六道庚申塚」と「六道の辻」解説板。

この庚申塚は、江戸時代後期の文化10年癸酉(1813年)に武州多摩郡石畑村下組(瑞穂町石畑地区)の人々によって建立されたものです。・・・当時この場所は、旧石畑村と隣村との境界にあたり、村境の「サエの神」(守り神)を祀るのにふさわしいところでした。また、この場所は古くからの交通の要衝で、幾筋もの道が開かれ交差しています。・・・ここは昔から「六道の辻」と呼ばれていました。「六道山」の名称も、これに由来します。・・・当初、庚申塔の脇には榎が植えられ茂っていましたが枯死し、現在はその後植えられた二代目の榎が大きく茂っています。

                 

坂下に「瑞穂農芸高」が。

「遺跡広場」解説板。

主に縄文時代早期から中期(今から約9000~3500年前)にかけて営まれた遺跡で、縄文時代の土器・石斧・磨石・石皿・石鏃・掻器など、当時の調理や狩猟に関する生活道具が多数発見されました。穽穴(おとしあな:狩猟のための罠)が多数発見されています。こうしたことから当時この一帯は、狩猟・採集を生業とした縄文人の狩猟場であり居住地であった可能性が高いと思われます。このほか、ごくわずかですが旧石器時代の尖頭器(槍先)や古代(奈良・平安時代)の須恵器なども発見されており、大昔から人々がこの地を行き交っていたことがうかがわれます。

さて、この先どうしようかと、・・・。

「都県境」には、もう少し北西に進めば、出会いますが、ここで今回は、終了。

「都立瑞穂農芸高校」のところから、JR八高線「箱根ヶ崎駅」に向かうことにしました。

広い道路を下っていきます。平らになると、富士山が近く大きく見えます。

               

瑞穂町マンホール。

町の木「松」にとまる「オオタカ」を中央に大きく描き、力強さを表現しました。上部には、みずほの「み」を図案化し、平和・団結と瑞穂町の飛躍発展を象徴した「町章」を配置。周囲には、町の花であり特産品である東京狭山茶の「茶の花」をあしらいました。オオタカは狭山丘陵に生息する鷹の一種。絶滅が危ぶまれた時期もありましたが、ボランティアの密猟監視活動等によって保護され、今は町内の平地林でも営巣・繁殖する姿が見られます。六道山公園の展望台は、大空を舞うオオタカが一年中観察できる人気スポットです。(「東京都下水道局」HPより)

上の無彩色盤。

「残堀川」。

     

               「源流から約640mです」。

残堀川

西多摩郡瑞穂町箱根ヶ崎の狭山池を源とし、武蔵村山市、昭島市、立川市を貫流して、日野橋上流で多摩川に合流する東京都知事が管理する流域面積34.7km2、法定延長14.5kmの多摩川水系の1級河川である。
本川は、かつて古多摩川の扇状地勾配に沿って府中方面へ流下していたが、江戸時代には玉川上水の助水に利用するため、またその後もたびたび人為的な流路変更が行われてきた河川(水路)である。
流域は、狭山丘陵を除いて、ほとんどが関東ローム層で覆われた平坦な台地となっており、中央線や青梅街道、五日市街道等の交通網の整備と相まって、都市化の著しい地域である。 
本川の改修は河川事業として、30㎜/hr規模の改修を昭和 34年度から47年度まで、多摩川合流点より瑞穂町境まで実施し、次に、50㎜/hrの本格改修が昭和49年度に着手され、平成20年に全川の改修が概成し現在に至っている。

(この項、「東京都建設局」HPより)

※ところで、「残堀川」が「残堀」の名の如く、水流のほとんど見られない「瀬切れ」をおこすようになったのは?

以下、「Wikipedia」では厳しい指摘がなされています。

1963年昭和38年)には氾濫対策とあわせて逆に玉川上水が残堀川をくぐる形に変更し、1982年(昭和57年)「残堀川流域整備計画」が策定され、その計画に沿って河川改修工事が施工された。しかしそれ以降は年間を通じて、降雨時およびその直後を除くと水流の殆ど見られない「瀬切れ」を頻繁におこすようになり、場所によってはその名の如く「堀だけが残る川」となってしまった。

理由としては、水源である狭山池自体の流出量減少に加えて、都市化による雨水の浸透の減少、下水道の普及による河川への排水の減少なども原因の一因ではないかと考えられたが、一定時期(短期的)を境に河川の瀬切れが起こった事(瀬切れが起こった時期に残堀川流域の地域に大きな都市化=舗装インフラの激増や下水インフラの激増などは特に顕著に無かった為)を考慮すると、表層(ローム層)を流れていた河道を、河川改修工事により層まで掘り下げたため、伏流(地下を流れる)しやすくなった工事のずさんさが、一番の原因だと考えられる。・・・その後の2007年6月東京都は不透水層の設置等の瀬切れ対策を含んだ河川整備計画を発表した。

     

上の○が「瑞穂農芸」、下の○が「箱根ヶ崎駅」、南に広がるのが「横田基地」。

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西武線「西武園駅」~JR八高線「箱根ヶ崎駅」。その7。野山北・六道山公園。御判立。展望台。

2023-01-15 13:31:23 | 都県境を探る

しばらく進むと、「三方入(御判立)ゲート」。

解説板。

御判立(ごはんだて)

この場所は、諸説ありますが、昔、村と村とを往来する幹線道路の要所で、江戸時代三ツ木村と勝楽寺村の境目の目印が立てられていたそうです。また、武蔵村山市史によると役所からの連絡などを掲示する場所として定められ、それを守る番小屋があったとも伝えられています。

ここから都県境は、北に向かうため、探索出来ず。

      

この先、歩く道は、都県境の道ではなく、東京都瑞穂町になります。

来た道を振り返る。

         

「瑞穂町大字畑・・」。

左に行くと、「赤坂」。

           右は水源用地(立入禁止)。

左は、奥深い森。

猿久保にある案内板。

                                →が「都県境」。

けっこう急で深い谷。

うち捨てられ、朽ち果てた車。

                 ここまで持ってくる(乗ってくる? )だけでも、大変なはず。

「六道山公園展望台」へ。

        

         

                  中央、遠方に白雪の富士山。

これで狭山丘陵の尾根道も終了。

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